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ある夜に入りたての時間、路上にて思う。
つい先日、こんなことを考えました。
「人間の思考は変わる。でも、何かが物質的に変わっているというわけではない、と思える。脳の中の細胞は動いているのだろうけど(人間の細胞自体が入れ替わりと言われているし)、実感として変わっているものではない。実際には色々な病氣みたいに無自覺的に変化していたりするのだろうけど。とすれば、この思考というものはなんなのだろうか。どうして考え方は流動的に変化するのだろうか」
上記の内容からわかるのは、わたしは『変わる=容姿・様相が変わると思っている節がある』ということです。
容姿が変わるということは物質的に変化することであると思います。
しかし、思考が変わる場合は物質的に変わっているように思えません(単純に『《思考によって物質的に変化している》ということを自分自身の脳が知覺できないだけ』という簡単なことなのかもしれないけど)。
物質であるこの自分と、思考した先の非物質の思念。
「この関係性はどうしてこう奇妙な状態に収まっているのだろう。物質と非物質が、どうして互いに干渉している(思考は脳という物質がないとできないし、思考を行うから物質も生じる。という奇妙な持ちつ持たれつ)のだろう」と、疑問でした。
しかし、この時に一筋の光明たる思いつきが脳天と松果体に差し込みましたとさ。
分離、ゆえに化かされる
「物質と非物質とで、"切り離している" から行き詰まるのでは?」
つまり、『この「世界は物質である」と "思い込んでいる" 』ということです。
この自分自身が物質であってそれ以外にはあり得ない、と思い込んでいるから、物質と非物質との妙に化かされる。
この時にもう一つの光明が湧き生まれました。
「我々は今いるこの世界を、すっかり『物質のもの』と思っているが、本当は『全てが非物質の中』なのでは?」
どういうことかといえば、『〈物質〉と〈非物質〉が分かれている』のではなく『大きな〈非物質〉の中に〈物質として知覺している世界〉があり、その世界の中で〈非物質だと思っているもの〉がある』ということです。
我々がいると思っている世界が、もともと大きな〈非物質〉に内包されているから、〈物質〉〈非物質〉の世界が共存している。
『〈物質〉〈非物質〉とが分かれている』と思っているから、その二つにまんまと化かされる。
はたして、物質とはなんなのか。この世界とはなんなのか。
昨今で一般的になってきた言葉で表現するならば、『シミュレーション仮説』ですね。
我々が今存在していると "思っている" 世界自体が、シミュレーションという非物質の中にあるから、奇妙な事態すら奇妙と自覺できない。
《水とあぶらは混ざることはないけど、あぶら同士は混ざる》
そういうことなのではないのかな、と、ある日のある時間に思いました。
しかし、まったくもって、虚C
とかなんとか言っても、多くの人間には理解ができないし、鼻白んで一蹴する話なのでしょう。
とはいえ、別に理解ができないのならしなくてもいい。
大衆というものはそういうものなのでしょうからね。
わたしも同じ立場なら同じような反応をするかもしれないのだし。
知らねえよ。
しかし、わたしが不満なのは、数年前ならシミュレーション仮説の話題になっても小馬鹿にしていた者たちが、メディアで話題にしだしたあたりから聞く耳を持つようになったことです。
結局、印象の問題です。
映画などのコンテンツで題材になっていた時は重要視しなかったのに、メディアに出ている高名(らしい)な學者が口にしたら、途端に目の色を変えたように手のひらを返す。
あれですね、結局は「どの口が何いうか」でしょうね。
まったく、目の曇った、つまらない方々だと思います。
しかし、結局は、好きに生きたらいい。
その人の人生なのだから、その人の生き方をしたら良い。
つい昨日思ったのですが、『死後に証明されたこと』というのは、《正しかった》になるのか《(提唱者が生きている間に証明できなかったのだから)正しくなかった》になるのか、どっちなのでしょうか。
結局はメディアのみ知ることなのでしょうけどね。メディアのみ左右すること、か?
ありがとうございました( ¨̮ )