本日もご訪問ありがとうございます。
未来に見ていただいている方からすれば関係のない話にはなりますが、前回の更新より少し期間が開きました。
他でもないわたしの自身の頓着が原因です。
酒の席にて ~会話という行為はめんどくさい~
頓着していた日常でも日常が経過するのは避けられません。
そんな日常でも会話というものは発生するものです。
先日、友人とAlc.をかっ喰らった時のお話。
話の種として、八十八ヶ所巡礼のマーガレット廣井さんがお話しされていた『バンドとして売れてドーム規模にならなくて良い』という話題を提供いたしました。
上記の話題を契機として『「売れる・顔が多くの人に知れ渡る」というのも、一長一短だよな。昔は妄信的に《大衆に認識されるのが良い》と思っていたけど、実際のところ、そんなことはないんじゃないのか」という、個人の所感・意見を提示しました。
『売れる』は本当に良いことなのか
大手芸能事務所の看板タレントとして、企業のイメージキャラクターになったとして。
事務所とその企業との、昔からの繋がりなどからくる大人の事情とかにより、イメージキャラクターになっただけで、実はその当人はその企業の商品よりも他社やライバル会社の商品を好んでいる場合もある。
ですが、他社商品を購入する場でも大衆に見られ、『〇〇のCMに出ているのに、△□の商品を買っている!』などと喧伝された場合は。
多くの人は「そりゃあ仕事と好みは違うよね」と思うとは思われますが、そんなまともな想像力を持っている人間ばかりではないのが、この現世の常です。
しかも、この現代はSNSが跋扈するSNS(情報)が武器となる時代です(その情報が真偽不明でも)。
そういった、〈まったくアホな〉騒動を防ぐためにどうすれば良いかというと、それは『衆人の目につかないようにする』ことでしょう。
つまり、自宅に籠って趣味事に興じることしかないのではないのか、と思うのです(この対策のほかにも対策法はあると思いますが、囚人さながら自宅から出さないのが一番樂でしょう。全く考えが甘い浅い)。
「窮屈には感じたりしないのかしら」という、個人的な老婆心
またイメージキャラクターとなっている企業が、化粧品の製造販売をしている業種であった場合は、肌荒れや日焼け・染みなどにも氣を費わなければいけません(色白信仰は根強いですしね)。
ほかにも、有名な男性アイドルの方や女優さんもゲーマーとして知られていますが、果たしてずっと家にいてゲームに興じているのって窮屈に感じたりはしないのかしら。と、ゲームに興じないわたし個人としては思います。
もちろん人の生き方や快不快の感じ方なんて人それぞれ千差万別なので、部外者がとやかく言える権利なんてないのですが、『約束事』や『仕事で発生した制約』に行動を制限されたりする生活をしていて、ふと、"思う" ことなんてあったりしないのかしら。
直接企業に起用されたわけではなくても、芸能の仕事はイメージ・印象が強く影響するので(芸能人の方はどうしてもテレビの仕事が大半になってしまうと思うので、『テレビ局自体』のスポンサーの機嫌も取らないといけないのだし)、品行方正を必要以上に自身に強いたりして心理的なストレスを感じたりすることもあるんじゃないの。
それで壊れたら元も子もないでしょうに。と、二枚目の立ち回りだけをするのは疲れたりしないのかしら。と、わたしの老婆心が覗き見をしています。
と、そんなことを話すと「ゲーマーの方についてはあれが好きでやっているからいいんじゃない?」と友人のAlc.は返答いたします。
それもそのはず友人はとあるゲームの制作会社に勤めているそうなので、わたしの話していた長ったらしい話の中から『ゲーム』という共通言語を介して、返答をしたのだろうと思います。
でも、わたしの言いたいこととは違うんだ…。!
わたしは『多くの人間が知るほどの有名人物になるって、本当に幸せなんだろうか』という論点で話したかっただけなんだ。。。!
まぁでも、わたしの話が冗長だったことで論点がずれたということでもあるんですけどね。
わたしの話は長い。つまり、論点がずれてしまうことは必然。
えっ、そうなの?
会話という行為、その流動に辟易とする ~でも、それは自身の認識次第かも~
そういった《自身が伝えたい論点が伝わらないこと》などを多く経験していると(単純にわたしが会話が下手なだけである)、どうしても「会話というものは全く面倒臭いものだなぁ」と思ってしまいます。思ってしまわずにはいられません。
しかし、そういった『相手の話している言葉たちの中に埋もれた、自分でも論議できる語句から自身の意見を発する』という行為、流動こそが会話というものなのかもしれない。
そういった会話の妙を「面白い」と取るか「面倒臭い」と辟易して取るか。
結局その視点次第になってくるんだよなぁ、生活って。とも思うのです。
例えば
「もったいない」と「贅沢」にしてもそうです。
例えば、お風呂で湯船になみなみとお湯を張って、いざ湯船の中へ浸かった時に、ざぱーんと湯が溢れる様がありますが、あれはわたし個人としては樂しいので好きです。
ですが、理性の観点から視れば『もったいない』と認識してしまいます。
しかし、ほかの方から見れば『贅沢』と認識できるものです。
例えば、〈デカ盛り〉などと呼ばれて提供される料理もそうです。
枡の中にコップを入れて日本酒を注ぎ、意図してコップからAlc.が溢れさせて枡の中にまでSAKEを溜め、提供するというStyleがあります。
これに関しては許容でき、枡の中の酒も飲めるのですが(これは『枡』というもの自体が "何かを注ぐもの" として脳が認識しているからなのか?)、デカ盛り料理として提供されたもので『何かしらの餡』が丼の受け皿まで溢れている場合は許容できません。
『もったいない』とも思いますし、言ってしまえば『汚い』とすら思ってしまいます(『汚い』に対しては、あくまでもわたし個人の意見)。
ですが、この〈デカ盛り〉についても、「溢れるまでなんて、『贅沢』だな」と思う方がいらっしゃるのでしょう。
例えば、この話は贅沢・もったいないの話ではありませんが、この前とある曲を聴いていた時『それでも人との繋がりを求めてしまう。それが人間の素晴らしさ』というような内容の歌詞が歌われておりました。
それを聴いた時、わたしは「なるほど、それを『素晴らしい』と認識する人もいるのか」と思いました。
わたし個人としては、《人一人で生きていくことができない、繋がりを求めてしまう人間というもの》に対して『まったくしょうもない』『ほとほとばからしい』と思っていたためです。
この意識について、今でも変わるものではありませんが、こんなに無駄なほど人間が溢れている世の中であれば、そう思う人もいるよなぁ、自分と違う意見の人がいるのは当然だよな。と改めて認識いたしました。
上にあげた三つの例の通り、この世界とか人生とかというものは、個人の受け取り方や認識、知覺する視点次第なのですよね。
『一旦自分が正としている視点から外れて認識してみる』
『同じ事象を同じ場所で見方自体を変えて視てみる』
それらがこれからの人生に重要なんだろうなぁ、と思うばかりです。
少々大げさに捉えてはいますが、重要ではある。
別に自分の意見が絶対に正しいわけがないのだし。
まとめというか、愚痴だったり。
今回の記事では『会話というものの面倒臭さ』と『結局認識する場所と意識次第』ということを書きました。
いやー面倒くせぇ。
しかも会話をしていると、途端にわたし自身の興味が薄れてしまうのも問題である。
やっぱり本を読んでいたいな。
しかし、どうにも、わたしとしては『一つの考慮すべき候補』として意見を話しているつもりなのに、そのわたしの話を聞く人からすると『ぜひ実現してほしい要求』として意見を発しているように受け取られている感がある。
あと『一回考えてほしい要素』が複数あったとして、その順番によっても実現するか、正確にはその聞き手がちゃんと話を聴いているか否かが変わるのも不満所の一つです。
イとロとの全く別々の意見申し立てがあったとして、『イの意見』が実現不可能そうだったとしても『ロの意見』が実現不可能とは確定しないでしょうに。
相手の話を聴かない(多くは、"本人は" 聞いているつもりな)人は、多いです。
相手の話の途中で「これはこういうことだろうから、こう返事しよう」という算段を構想したりしちゃう場面はありますが、これは『相手の話を聴いていない』になるらしいです。
さて、そんな不平事を垂れていると「そういうお前はどうなんだ」っつう話になります。
はい。
『人のふり見て我がふり直せ』を心において日々精進いたします。
皆様もわたしの愚痴にお付き合いいただきありがとうございました( ¨̮ )
そのほか、その友人なAlc.は「あと、二枚目のキャラクターは、奴は好きでやっているきらいがあるから心配いらないと思う」とも言っておりました。
正直それはわたし自身も思ったりはする。
最近買ったのですが、Jon Batiste氏の『World Music Radio』というアルバムが素晴らしいですよ。
別のCD目当てでCDショップに行ったら、たまたまポップが出ていて、視聴してみたら、一音目で「ビッ!!!!!!!!!!!!」とやられました。
特に『Drink Water』と『Calling Your Name』という曲が素晴らしい。
これだからアナログで足を運んで買いに行くという行為が好きなんです。
ありがとうございました( ¨̮ )