本日もご訪問ありがとうございます。
以前にも書きましたが、わたしは現在伊藤計劃さんの『虐殺器官』を読んでいます。
一応再読本で、十年前に一度だけ読んだことがあるのですが、今読んでみれば「えっ、こんなに面白かったっけ??」と困惑するほど面白いです。
今回はそんな『虐殺器官』を読んでいて興味深かった部分と、その部分により着想をえた内容です。
『すぎない』
PTSD(心的外傷後ストレス障害)?になっている語り手と、その語り手の母とが会話をする場面。
身体が焼けていく様に「北京ダックみたい」「食べたらおいしいかも」と話す親子。
「こうして見ると母さんは本当に物なんだなあって実感するよ」と語り手。
「そういうあなたも物質じゃないの。死体が物質に『すぎない』んだったら、生きている人間も物質に『すぎない』のよ」
「そうなのかな」
「そうね。どこかでそれを受け入れなくてはいけないわ」
「自分が物質だということを?」
「自分が肉だということを、よ。無神論者だとか言っている割には肝心なところの受け入れができていないんだから」
痺れました。
というよりも脳みそを殴られて見えていなかった世界が開かれた、ような氣持ちです。
『自分は肉だということ』を受け入れることと、無神論とが関係しているなんて思ってもいませんでした。
たしかに、我々は肉の塊であり物質です。
肉の塊なのであれば、お腹を空かして飢餓状態にある人たちに「僕の体をお食べ」と明け渡すことなど容易なはずです。
しかし我々人間は、自分の身はどうしても特別に思っており、いくら目の前にお腹を空かせた人がいたところで、自分の肉体を差し出すということはそうそうできないでしょう。
それはどうしてなのか。
上記を考えた時に、その理由は『【信仰】がある』からなのではないかと思い至りました。
しかし、ここでの【信仰】は宗教や神に対してではなく《自分自身》に対して、です。
言い換えれば『自己重要度』とも表現ができます。
『虐殺器官』という作品は戰爭や紛爭などがキーワードになるのですが、任務が長引きもともと持っていた食料も尽きたとして、目の前に新鮮な死体が転がっていたとします。
その死体を見た時に「あ、食料」や「ラッキー!タンパク質じゃん!」と思って、実際に食えること、それこそ無神論者的な感覺なのではないか、と思います。
「目の前にあるもの」を全く物質的に捉えているのですからね。現実主義と言えるのかもしれません。
ですが、ほとんどの人は目の前に新鮮な死体が転がっていたとしても、食料として食したりはしないでしょう。
というより、そもそもとして「あ、食料だ」と認識することすらもないでしょう。
この自動的な思考の流動こそに《神》や【信仰】が宿っている。いえ、そもそもとして、自動的な思考基盤からすでに【信仰】が存在しているのだと感じます。
だから、人間は自分の肉を必要としている人が目の前にいたとしても肉体を明け渡すことはしないし、逆の立場で明け渡された死体があったとしても食しはしない。
その理由は思考の基礎に【信仰】があるからで、それは最小で最大の単位である『自分』に対して向けられている。
信仰の対象が『自分』という最小のものであるため、《信仰している》という事実には思い至らない。
何故ならば「当然の感覺として生きているから」です。
面白いですね。非常に興味深いです。
結果的にいえば、自分のことを大事と(小さくとも、無意識的であっても)思っていたらば、その人は無神論者ではないということです。
今現在落ち込まれている人などは『自分は大事ではない』と思っている方もいらっしゃるでしょう。
そんな方は『空腹で死にかけな人が自分を食おうと本氣で襲いかかってくる状況』を仔細まで想像してみてください。
その想像によって起こった感情があなたを物語っていることもあったりなかったりするでしょう。
超現実的に認識すれば、我が肉体はただただ肉で物質です。
「じゃあ肉なんだったらお前の肉で焼肉しようぜ!」と言われたとして、わたしは嫌な氣持ちになります。
それは『死んだりするのが嫌』というよりももっと曖昧模糊とした『嫌』という感情です。
この容易に摑むことができない流動的な感情こそ【信仰】であり、その信仰は "何に対してなのか" を考えたら《自分自身》に対しての信仰ではないのか、と感じます。
つまり『神は自分自身』という結論になり、結局のところ "本当の意味合いでの無神論者" は実在しないということになるのですね。
アンパンマンは無神論者なのか
さて、先に書いた内容で『お腹を空かして飢餓状態にある人たちに「僕の体をお食べ」と明け渡すこと』とありますが、とある一個人が脳に浮かんだ方もいらっしゃるのではないでしょうか。
そうです、アンパンマンさんです。
彼は困っている人やお腹を空かせた人に対して「僕の顔をお食べ」と言い、自らの血肉を差し出します。
前述した考え、『必要であれば自らの肉体も差し出す、というのは無神論的じゃないか』を元に考えれば、アンパンマンさんの行なっている行為、利他の行いは無神論者的価値觀での行動に思えます。
とすれば、アンパンマンの君は無神論者なのでしょうか?
わたしの考えとしては、答えは「いいえ」であると思います。
その理由として、彼はパンです。
パンには製作者が必要ですね。
そう、ジャムおじさんです。
アンパンマンさんの心臓でもある顔(心臓部分が顔というのは全く面白いですね)は一切をジャムおじさんの経営するパン工場で製造しているようですが、アンパンマンさんからすればジャムおじさんは命を与えてくれた人であり、とどのつまりは創造主です。
ということは、アンパンマンさんはバッチバチの有神論者だろうと思われます。
それか、距離が近すぎるが故に創造主とすらも認識していないのかも。
それこそ《無垢に神の存在を信じる者》なのかもしれません。
ところでアンパンマンさんの顔って一切をジャムおじさんの工場で作っているんですよね?
だとすると、ジャムおじさんが亡くなった世界ではアンパンマンさんはどう生きていくのだろう。
ジャムおじさんの意志を継いだ後任が現れるのでしょうか。
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父が亡くなって数日が経過した時、彼は漠然とした、しかし明確な不安を抱えていた。
「僕を作ってくれる人は?」
彼はあまりに日常的すぎ、距離も近かったために父という存在の偉大さに氣付いていなかった。
彼自身を作ったのは父であり、彼を生かしていたのもまた父であったことを、彼は認識したのだ。
《創造主》たる存在に存在意義を設定された彼には、人助けをやめるという選択肢はない。
しかし、お腹を空かした子ども達を見つけるたびに、彼の心臓は磨耗していく。
自身の命が長くないことを悟った彼は、ある場所に飛び立った。
「おい!」店の中に怒鳴り声が響く。
「どうかされましたでしょうか」近くにいた店員が恐る恐ると口を開いた。
「この商品痛んでるじゃねえか!困るんだよ、こうやってちゃんと管理がされてないとよ。こっちの仕事が増えるだろうが」
「す、すみません。すぐに新しいものを並べますね」
「いい、いい。買うから。その代わり商品の状態とかちゃんと見てくれよ」男は代金を支払い、店を後にした。
運転をしていると、道で泣いている子どもがいた。
男は短いため息を吐き、先ほど買った商品に『早く食べろ』と書かれたシールを貼り、子どもの近くに落とす。
子どもが受け取ったことを確認するのも待たず、男はその場を去った。
ひと月ほど前、因縁の相手が男の家へ訪れた。
男は身構えたが、どうやらいつもと様子が違う。疲弊しきっているようで、手には白旗すら握っていた。
「…何の用だ」男が口を開くが早いか、訪問者が喋り出す。
「やあ、久しぶりだね。元氣にしていたかい?最近あまり君の噂を聞かなかったから心配していたんだ。昔はよく遊んだよね。あの頃は君のことを憎いとすら思ったこともあったけど、今ではあの日々が楽しかったとも思うし、僕自身も当時のじゃれあいを必要としていたんだなと、いまになってそう思うよ」
「今日はやけに喋るな。昔は肉体言語でしか会話していなかったと思うが、ちゃんと会話ができるようになったのは成長した証か?」男は心に起こった胸騒ぎを直視しないために皮肉を言う。
「結局、何が言いたい」
訪問者は「ふっ」と息を吐き柔らかに笑った。「僕はもう長くない。聞いているかい、父が死んだんだ。君も知っている通り、僕は父に生かされていた。でももう次のろうそくはない。かといって家にこもっているのも性に合わないし、困っている人を見ると助けないと、と思ってしまう。そこでなんだけど、僕の仕事を君に継いでほしいんだ。方法は問わない、君の好きなようにしてくれていい。困っている人が生まれないでほしい、それだけなんだ」
男は押し黙って訪問者を見つめた。「だめかな」と訪問者が男に問いかける。
訪問者の問いかけに対して、男は返答の代わりに「今の仕事を引退して、お前はどうするんだよ」と答えた。
「世界を周ってみたいんだ。死に場所を見つけるってやつかな。どうせ人助けはしたくなると思うから、どこかしらで命は尽きるだろうしね」
男は眉を顰めながら訪問者の返答を聞いていたが、決心がついたように息を吐くと「わかった。わかった、考えておくから今日は帰ってくれ」
訪問者が柔らかい笑みを浮かべる。
「ありがとう。じゃあ頼んだよ、よろしくお願いします」訪問者は礼を言いながら右手を差し出した。
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ばいきんまんさんって菌だからアンパンマンさんは勝てやしないんじゃない?
どうなの?
ありがとうございました( ¨̮ )