頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

《死者の國から》賢くも阿保にもなった我々

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回も伊藤計劃さん著作の『虐殺器官』より着想を得た内容です。

 

前回書きました『肉と信仰』ですが、この着想は作中に登場する《死者の国》より得ています。

floodinhead.hatenablog.com

 

今回もそんな《死者の國》の場面を読んでいた時に、はっと思った内容より。

いや、じわっ。とかしら。

 

 

得たもの

虐殺器官』の語り手、主人公のシェパードさんは心の中に《死者の國》を持っています。

その情景?は十中八九自身の仕事によるPTSDを起因としていると思うのですが、その《死者の國》には彼の母親もおり、彼と会話をします。

 

そんな《死者の國》での一幕。

「知りたいんだ、ぼくは母さんを殺したのかな。ぼくが認証したとき、ぼくがイエスと言ったとき、母さんは死んだのかな。教えてよ、母さん」

「罪の話ね。

 お前はよくやったわ。わたしのためにとても辛い決断をしてくれた。自分の母親の生命維持装置を止める。自分の母親を生かしている機械を止め、自分の母親を棺桶に入れる。それはとてもとても辛いことだけれど、でもあなたはそうするしかないことをしたの」

「本当に?母さん」

「いいえ。そう言ってほしかったんでしょ、お前は。本当のことなんて誰にもわからない。だって本当のわたしは死んでしまっているのだし。

 あなたはこう思っているんでしょう。いつも自分は他人の命令に従っていろんな人を殺してきた。それがさらなる虐殺を止めるためだなんて言われていても、自分は銃だ、自分は政策の道具だと思うことで、自分が決めたことじゃない、そういう風に責任の重みから逃れられた。

 でも自分の母親を殺したとき、それは自分自身の決断だった。『母さんは苦しがっている』『母さんは生きているのが辛い状況に置かれている』と想像はできても、ベッドの上のわたしは何も言ってくれなかった。それは自分の想像に過ぎなかった。だから医者に迫られてわたしの治療を中断するとき、自分自身の意志でそれを決めたという事実を背負わなければならなかった。国防総省や作戰司令部が決めたのではない、自分自身の殺人として背負わなければならなかった。

 けれど、息子さん。わたしだけじゃなくて、いままで殺してきた将校や自称大統領だって、あなたが決めてあなたが殺したのよ。あなたはそれについて考えるのをやめてきただけ。自分がなんのために殺しているのか、真剣に考えたことなんて一度もなかったでしょ。

 わたしを殺したのがあなた自身の決断なら、今まで殺してきたのもあなたの決断なのよ。そこに明確な違いはない。あなたはわたしの死にだけ罪を背負うことで、それまで殺してきた人々の死から免罪されようとしているだけよ」

 

わたしは信仰に対して興味があります。宗教というより『信仰』に対して。

この近現代では、多くの人間が科學を信仰するようになりましたが(ほとんど世界宗教になっているので『信仰している』という事実に氣付いている人はかなり少ないですが)、科學を信仰することになって、《神》といったものに対しての信仰が軽んじられるようになったように感じます。

 

「神なんて非科學的だよね」の一本槍で彼ら彼女らは活動をされています。

 

科學的知見や、唯物思考、それが科學を信仰することで我々が得たものでしょう。

しかし、他にも我々が得たものがあるように思います。

それが、【罪の意識】です。

 

 

得た代わりに失ったもの

宗教というものがもっと身近にあったころ、【罪の意識】があっても告解する場所などがありました。

言わば《罪を明け渡すことができる場所》があったのですね。

 

過去に自身が行った行動などで後悔していること、それを神職者に話して、赦されたりする。

つまり宗教というものには「個人の罪を肩代わりする役目」があったのではないのか、と考えました(キリスト教では『イエス様が人間の罪を全て肩代わりしている』と言いますが、あながち間違いではないのかも)。

 

よくよく言われる表現ですが、『寄りかかる場所があった』ということです。

そういった "絶対的な信頼" であるとか "寄る辺" として、宗教というものは存在していた。

 

ですが、この百何十年かで科學という宗教が台頭してきました(しかもその宗教は宗教を否定していたりする!)。

科學は「神は死んだ。つーか神なんて居やしねえ」と説いております。

つまり『てめえ一人で生きていけや』の価値觀であり、それはつまり『罪の意識もお前自身が処理しろ。てめえで苦しめ』の世界です。

 

虐殺器官』の話に戻りますが、語り手のシェパードさんは無神論者でした。

そのシェパードさんが《死者の國》と度々出会う理由、それは無神論者であるからなのではないのか?と感じます。

 

《無神論者》、つまり特定の宗教を持っていないということですが、シェパードさんは無神論者であるからこそ、自身が手にかけた人への罪を背負っているし、その罪の責任を『自分に命令を下した存在』や『政府』になすりつけている。

ここまで書いてきたことが本質であるのなら、本当の無神論者は「いろんな人を殺してきたけど、全部それは自分の責任。でも、殺されたのもその人の責任だよね。お互い様〜」と言ってのけるのではないでしょうか。

だからこそ、死を超えた思念体であるシェパードさんの母親は『生命維持装置を切ったのも、命令された対象を殺したのも全てあなた自身の選択』と言っていたのではないのでしょうか(こう考えると、生者の世界ほど宗教性や信仰に溢れているのかもしれませんね。『脳が動いているか』『生命活動はしているか』『その人自身の言葉で話しているか』など、色々な觀点から生を論じることができるのだから、そりゃあ生者の方が宗教的か)。

 

しかし、それはできずに無自覺的に罪の意識を感じているからこそ、シェパードさんは《死者の國》に度々訪れるのでしょうし、「肉体は肉体だし、人の体も所詮はタンパク質から成る物質」と言い切ることができないのであろうと感じます。

 

これを書いていて思い出しましたが、少し前には『自己責任論』などという全く阿保な価値觀が吹聴されていましたね。

それもこれも、科學教に支配された世界であればさもありなんといったところでもあるのでしょうか。

 

 

賢くもなった(はず)だし、(確実に)阿保にもなった我々

思えば、ここまで『無神論者だ、どうだ』と書いてきたことはなかったですね。

 

 

以上、この記事で書いたことをまとめると、

・宗教を盲目的に信じることはなくなったので賢くはなった。

・しかし宗教を否定したことで自身の罪は自分自身で背負う羽目になった。

・宗教を信じていれば氣にすることもなかったことを氣にするようになってしまった。

・寄る辺のない人間が増え、結局は信仰の宗教に頼るようになった。

・科學は宗教性を多分に帯びているのに、ほとんどの人が氣付かない。

 

ですね。

これでは物質主義的な現実主義になったのがよかったのか、悪かったのか、という感じですね‾\_(ツ)_/‾

とはいえ、結局世界ってのは流行り廃りで周るものなのだと思いますので、科學教の流行りもいずれは廃れるんでしょう。

 

人の信仰というのは面白いですね。

 

 

ちなみに

以前にも書いたと思いますが、わたしは宗教に対しては否定的な感情を持っております。

というのも、宗教は自由等もお膳立てされて提示されていると感じるためで、わたしが病的に愉しんで行っている《思考》が否定されるのでは?と思っているためであり、宗教に凭れきっているとその『凭れているもの』がなくなったときにどうするの?新しい宗教に搾取されるのかい?と思っているためです。

 

まぁ【自由】も《制限がある》からこそ際立つという側面もありますしね、実際のところ。

拘束衣を着せされた方が自由を感じる方もいるのかもしれないし。

 

そして、わたし自身はアニミズム信仰があったり、祈りの感情はあるので、宗教自体はあるのでしょう。

 

しかし、宗教というのも一長一短ですね〜( ´・◡・`)

人間社会というのは、まったくどうしてこうも面倒なのだか‾\_(ツ)_/‾

 

とはいえ、こういった人間の臭いが強くある信仰などの話ほど面白いと感じるのは、それもまたいとおかしと感じます。

 

 

ヒトは阿保だね‾\_(ツ)_/‾

 

 

 

ありがとうございました‾\_(ツ)_/‾

 

 

 

ちなみに、これから数回は『虐殺器官』から着想を得た内容が続くと思われます。