頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

相対的であり、絶対ではない

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

今回は初めてブログテーマというものを取り扱います。

 

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

強いて挙げるならば「相手のバックボーンを鑑みることができるようになり、断罪をすることがなくなった時」でしょうか。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

 

大人を自負している奴はクソ

大前提として、わたしは「大人」というものが嫌いです。

正確にいうと『自分が大人だと自負している人』が嫌いです。

そういう方々には不信感しかありません。

 

まず、「大人」というのは何を定義して言われるのでしょうか?

 

一般的には「実年齢が(おおまかに見て)20歳以上であり、自分本位な行動ばかりでなく、思慮分別があって場の状況を正しく整理・理解することができ、常識的で自立しており、他者への思いやりができる人」というように(半ば暗黙の了解のように)言われています。

 

上記の定義は意図的に厳しくしましたが、果たして、この世界で「大人」という役割を担っている方々が、みなさま上記のハードルをクリアできているでしょうか?

 

わたしが19歳かそこらの時に働いていたところの先輩(40歳くらい?)は、挨拶をしても一切返答することはありませんでした。

これは常識的な大人と言えるのでしょうか?

 

自分の機嫌次第で後輩に当たり散らして威張っている上司もいました。

それは本当に自立していると言えるのでしょうか?

 

わたしが過去働いていた職場は軒並み接客業だったのですが、とても傲慢な客が多く、店員に対して礼儀もへったくれもない人が多かったので(ちゃんと礼儀正しい方ももちろんいます)、わたしは店員さんには礼儀正しくしようと常々心がけているのですが、接客業経験者であっても自分が客の立場になった途端に横柄な態度になる人も見ました(自分の機嫌で当たり散らす上司)。

それは他者への思いやりがあると言えるのでしょうか?

 

先述のものと被りますが、自分の好き嫌いで相手への態度を変える(それこそ無視をするであるとか)人も多くいました。

それは自分本位でないと言えるのでしょうか?

 

 

他者とのコミュニケーションにおいて、個人的な感情を持ち込むな。

上に並べた過去の私怨は、確かに

 

  • 人は、関係を良好にするため、好き嫌いは関係なく挨拶はするべきである(特に仕事においては、人間関係の不和による支障が原因で不必要な問題が発生しかねないため)
  • 場の一人が機嫌次第で行動すると、その一人のために複数人がご機嫌取りをする羽目になり、その結果チームのパフォーマンスが著しく低下する危険があるため、個人の機嫌とコロニー内の機嫌とは切り離さなければならない。自分の機嫌くらい自分で取れるようになっとけ
  • お店というのは商品の代価として金銭を受領している。特定の商品に設定された金額というのはその商品のみの値段であるため店員さんの接客費とは別になって独立している(これは超個人的な考え)。単純にお店において客という立場は、店員さんが存在しないと購入すらできないのだから、店員さんに礼儀正しく接するのは当然じゃね。
  • 自分の好き嫌いで相手への接する態度を変えていると、それを第三者から見られた時に「あの人は好き嫌いで態度を変えるのだな、あまり近づかないでおこう」と思われる可能性がある。それにより、有益な情報を教えてくれるはずだった人を一人失うことになる。その失った一人から伝播して多数の交友を失った結果、甚大な損害を被る可能性も発生する。多くの人が去ったあとに残るのは、同じような人間性を持った人ばかりになり(類は友を呼ぶ)、傷の舐め合いになったり相互監視の疑心暗鬼コミュニティが形成される。

 

というわたしの信条から外れていることから「理解ができない」とわたし自身が感じるのだろうなと思うのですが、ちょっと考えたらこの程度わかるだろ。

 

 

『現実を見れる』のが大人なのか?そもそも『現実を見る』とは?

2年ほど前に「グレタ・トゥンベリさんについてどう思われますか?」という街頭インタビュー映像がニュース番組で流れていました。

その質問に「彼女はまだ幼いですからね。現実が見えていないんでしょう 笑」と40代のサラリーマンの方が、嘲笑ぎみで小馬鹿にしたような返答をしていました。(これはグレタさんの活動を肯定する話ではありません)

 

『現実を見る』とはなんなのでしょうか?

わたし個人としては「環境問題をしっかりと見つめ、その是非を精査すること」が今できる『現実を見る』なのではないかと思います。

地球温暖化が起こっている・起こっていない」ではなく、「もし本当に起こっていた時に今なにをすべきか、なにができるか、子の世代・孫の世代が生きていける世界を残すために、今なにをしないといけないのか」を調べる、それができそうならば実践をする。

それこそが『現実を見る』ということなのではないかと、わたしは思います。(これはグレタさんの活動を肯定する話ではありません)

 

確かに物事や諸問題ってのは層状になっているので、『すっぱい葡萄』みたいに決めつけて楽をしたい氣持ちもわかりますが、その結果、あんたの子や孫が苦しんでもいいのか?

 

"洪水よ、我亡き後に来れ!"じゃねえんだよ。

 

 

大人なんていない。みんな子どもで偉ぶっているだけ

社会人になってそこまで長くは経っていませんが、日々を生きていて日に日に強く思うのは、「大人に見える人も子どもの延長を生きているんだな」ということです。これはわたしに対しても思います。

会社に入っても「誰それが誰それを嫌っている」だの、派閥から生まれる社内政治だの、専業主婦になってもパートナーの収入差やお受験だのママ友コミュニティの人間関係、マウント。

常に自分の立ち位置にびくびくして自分より下の者には踏ん反り返り、自分より上の立場の者には靴を舐めて綺麗にする。

人間ってのはきたねえなと常々思います。

 

そんな中、人の中にある綺麗さをたとえ小さくても信じて接していってグッサリ傷つき、自分だけは綺麗でありたいと思い、他者にはできるだけ傷ついてほしくないと思うわたしは、一番お子様で大人になれていないのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

わたしは自分のことを大人だとは思いません。

他者から見て「大人」のカテゴリーに属する年齢なのだろうなとは思いますが、「おとなだぞえっへん」などというような偉そうな振る舞いは自覚的にはしていませんし、しないように心がけています。

 

 

とはいえ、わたしの確固たる信条も上記した「大人を自負した者の愚行」から精錬されたものなので、ある種の感謝は感じています。

 

 

結局のところは、"傲るな"

危惧しないといけないのは、自分もその「大人を自負した者」になりかねないというところです。

実際、今まで書いてきたことも見る人が違えば「なんだか偉そうだな。大人ぶっちゃって」と思われかねませんからね。

わたし個人の予想ですが「大人を自負した者」は、"長い間一人で生きてきた"という自負がある方が多いような印象を感じます。そして、わたしもその勘違いを少なからずしているように思います。

このままだと「老害」になってしまう。

細かく小ずるく、少しばかりの考える脳みそを持ってると、いつまでも「自分はちゃんと考えることができる」だなんて自負持っちゃって、周りからは見限られて、氣付いた時には一人きり。なんて容易に想像がつきますものね。

まぁそれも地球っぽい生涯とも思いますけれども。

 

わりかし簡単にいろんな考え方を受け入れる(色々な価値観・多様な感受性を受け入れる素地を作る)ことができるのは、30歳がタイムリミットかなあと思っているので、積極的にいろんな人の本やお話を聞きたいですね。

 

 

『大人』を信じるな。全てを疑え、自分だけを信じろ、自分も疑え

ちなみに「大人の言うことを聞け」と年長者や保護者が子や年少者へ言うのは、コントロール下において御しやすくするためだと思います。

 

とは思いましたが、『とんがり帽子のアトリエ(8)』にて「大人はけして子どもを侮っているわけじゃない。ただ世界を信用していないだけなんだ」と言っているシーンがあって、「それも確かにそうだなぁ」と思いました。

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https://morning.kodansha.co.jp/c/tongariboushi



 

あ!大人になったと思うのは、子どもの時よりも歳をとって味覺が衰えたことで、昔食べれなかったものを克服した時です。

「大人になっちまったんだなぁ」と思います。

 

あと歳を取ったなあと思うのは、小学生などのみなさんが素脚を出して歩いているのを見た時にこちらまで寒くなってしまった時ですね。

あれまじで信じられない。虐待ちゃうのとすら思っちゃう。

 

 

心を平穏に生きたい\(´-`)/

 

 

ありがとうございました\(´-`)/