頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

ドリトスのメキシカンタコス味

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

本記事のタイトルは内容と一切関係がありません。

 

 

 

数日前、1987年に養老孟司さんと安部公房さんが対談した映像を観ました。

 

その場で、安部公房さんが窓の外にあるビル群を指し「これは目的ではなくて手段でしょう」と言いました。

 

そういった感覺は、わたしの中にはなかったので、なるほど面白いと思いました。

そのまま先を観て行くと『世紀末』の話題が出た。

 

 

『世紀末』といえば、「ノストラダムスの大予言」が思い浮かびます。

 

1993年生まれの身としては、1999年のことなんて記憶にありません。

なので、世紀末当時の記憶がある人の話を聞いて判断をするしかないのですが、その当時の話をする人は軒並み「本当に世界が終わるものだと思っていた」と話します。

すると必然的に「世紀末に世界が終わるとほとんどの人が思っていた」と認識をしちゃうものなのですが、また時間をおいて別な人に話を聞けば「終わるわけがないと思っていた」と言う人もいる。

 

 

ここで『ノストラダムスの大予言』の概要を調べました。

フランスの医師・占星術師であるノストラダムスが1555年に『予言集』という書物を出版した。

その書物を元に1973年に編纂・発行したものが『ノストラダムスの大予言』という書籍で、翌年の1974年に同名の映画が公開されたことにより、その後オカルトブームが広まった。

 

from Wikipedia

 

1973年というのは1954年から19年続いた高度経済成長が終焉を迎える年だそうです。

1974年からは、『安定成長期』へ移行したそうです。

またその頃は第二次ベビーブームが重なっており、"一億総中流"と形容がされていた頃です。

 

憶測になりますが、その当時(からバブル崩壊まで)に各所の発展や都市化も大きく進んだ。

 

 

ここで安部公房さんの言っていた言葉を思い出しましょう。

ビル群に対して「これは目的ではなくて手段だ」

 

つまり「明確な目的やビジョンがあって発展をした」のではくて、「曖昧模糊とした手段の中を生きていて、その手段に従事していた」のではないか。

 

しかも、その『手段』も何か明確な目的があっての手段ではなかった。あるいは目的があったとしてもわかっていなかった。

追っていたものが中身のない空虚なものだった。

 

その「空虚なものを作り上げる過程に従事していた」ということが分かっていなかったが、『ノストラダムスの大予言というスイッチ』が発現したことによって、自明のものとなった。

 

空虚を作りあげることをしていた・空虚を作ることに従事していた結果、自分のことはやってこなかった(やれなかった)から、1999年に世界は終わると聞いて動乱し混乱し取り乱した。

 

 

それに対して、常に自分の心を大事にして「したいこと」をしていた人間からすれば、世紀末に世界が崩壊しようが『どっちでもよかった』

好きなことをしていた・できていたから、いつ死のうがお構いましの氣持ちであった。

 

ノストラダムスの大予言がきっかけで発生した動乱?というのは、こういったからくりだったのではないかなと思いました。

 

とはいえ「もっと好きなことをしていたい」と思っていた方もいらっしゃったとは思います。

 

 

 

そして、このからくりは現在騒がれているパンデミックにおいても通用されると思います。

大衆の思考の流れは同じ。

 

未知のウイルスが発生し人命尽きるやもしれない。

自分の人生を生きていない者は動乱に喘ぎ、自分の人生を生きている者は意に介さない。

自分の人生を生きずに過ごす者は「将来あるだろう"自分の人生を生きる可能性"を潰す可能性がある者」を必死になって断罪しようとする。

自分の人生を生きている者は、やりたいことをできているので意に介さない。

思い残すとしても「もうちょっとだけやっていたかったな」というちょっぴり程度の後悔ではないでしょうか。

 

あくまで妄想で憶測ですよ。

 

 

安部公房さんは面白くクレバーな方ですね。

初めて『砂の女』を読んだ時は見事に心を鷲摑みにされました面白い。

 

 

 

しかし温故知新の重要性が身に沁みるな。

平成生まれなので昭和の方が良かったなどと言えないし知らないが、人間的な意味合いで本当に賢い人はどう考えても昭和世代の方が多いように思える。

現代にも賢い人はいるが、その「賢い人」でもどうにも目につくのは資本主義的な人なんだよなぁ。

 

あと、1980年代の方が明らかに良い音樂は多い。

色々と元氣だったから(虚構も含め)、その頃に青春を過ごした人が固執するのも納得できる。

しかしバブル世代はどう考えても質が悪い人が多い。とはいえその世代も"物質主義が善"と規定された教育をされた結果であるので、しょうがない部分もあるのかなとは思う。

とはいえ、質は悪い。どう考えても。

 

 

 

温故知新ではないけど、歴史的事件に立ち会っていない世代である場合は、ある一方に意識を固定して考えない方が賢明だと感じる。

 

上記した『ノストラダムスの大予言について』や、『オウム真理教についての世論の認識』、『ナチスドイツについて大衆が持っていた印象』などです。

 

オウム真理教については、教団が事件を起こした十何年後とかに知ったので、そんな恐ろしい集団をどうして放置していたんだとか思っていたのですが、当時はわりと宗教というものに対してラフに捉えていたそうです。

というより、オウム真理教の一件がきっかけで「宗教=危険なもの(集団)」という認識が大衆になされた。

言いように、捉え方によってはオウム真理教は良いように使われたとも考えることができます。

 

北野武さんと麻原さんとが対談した番組とかあったらしく、わりとネタ感覺で認識していた人が多かったそう。

ですが、その当時にもその危険性を知っていた人はいたようです。

 

 

ナチスドイツについては、その当時のことは当然知りもしません。

その当時を生きていた方は、「一政党であったドイツ労働者党が、まさか与党になるなんて、ドイツを代表する政党になるなんて思わなかった。むしろすぐに潰れるだろうとバカにしていた」そうです。

「与党になるわけないな」と侮っていたら、あれよあれよという間に与党になり世界へ喧嘩を売っていた。そうです。

 

 

 

道化を演じて認知させ、親近感を持たせるというのは常套手段なのかもしれませんね。

 

これから生きる上で、報道の見方が変わりそうですね( ¨̮ )

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )