頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

わたしもそう

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは『読書メーター』というアプリケーションを使っています。

このアプリは、読んだ本を登録したり、感想などを書き込めるもので、他の利用者様が書いた読後感想なども拝見することができます。

 

その他者様が書いた感想を読んだりもするのですが、その際に氣になることがあったりします。

 

それは『自分の意見と違うこと』です。

 

 

 

意見が違うのは当然。しかし、

他者と自分とは違うため、意見が違うのは当然です。

ですので、それに対しては何も問題は思いません。

 

氣になるのは『これはわたし個人の意見です』という枕詞が、ない人が多いように感じるところです。

 

これは、言い換えると『"自分の意見"を"社会の総意"かのように無意識で思っている人が多くないか?』ということです。

 

もちろん、わたしもこの『これはわたし個人の意見です』という枕詞を忘れがちになることは往々にしてあります。

 

 

安部公房さんの作品の感想を拝見した時に、「心理描写が難解でわかりにくい」や「物語がなかなか進まずダレてしまっている」というような内容の感想があったりするのですが、心理描写が好きなわたしとしては、「難解でも良くない?」と思う次第です。

 

こういった自分と違う感想を見た時には、「まぁ個人の感想だからそう思う方もいるよね〜」と思って氣に留めないのですが、やはり引っかかるのは『この意見は皆が思うであろう正しい総意だ』という考えが含まれているように感じるところです。

わたしの思い込みもあるとは思いますけどね。

 

ですので、「心理描写が難解だったので、わたしにはわかりにくかった」や「物語がなかなか進まないので、ダレを感じてしまった」と書けばいいのです。

わたしはそう書いていますが、これを強要するのも集団化になるので、いかがなものかと思いますね。

 

 

『自分の意見=社会の総意』と捉えることの危うさ

とはいえ、『これはわたし個人の意見です』という枕詞は非常に重要で、大事かつ必要な意識だと思うのです。

 

『自分個人の意見』が『社会の総意』と思ってしまうことの危険さ。

 

 

どうしてかというと、もし他者を傷つける行動や言動をした際に「これは善意でやったことだ」と主張した際、その行動や言動は行った当人の中で正当化されてしまうからです。

 

具体的に言えば、セクハラをした時に「これは好意的なコミュニケーションじゃないか」という主張をすれば無罪放免だと思いがちになる。

小狡い人間ならば、それを免罪符にして悪行を行うことさえあるでしょうね。

 

セクハラをした加害者当事者は『好意的コミュニケーション』だと思っていても、された当人や第三者は『侮辱』と捉える場合もあります。

 

『セクハラ』を『好意的コミュニケーション』だと思っていて、その意識・考えが『社会の総意』だと思っている人がいた場合どうでしょう?

おそらく、多くいらっしゃることと思いますけれどね。

 

こういった理由からも『自分個人の意見=社会の総意』という意識は早々に取っ払った方がいいと思うのです。

 

このセクハラというものは、異性同性関係ありませんよ。

 

 

意識が無意識へと変わることの危険

この『自分個人の意見=社会の総意』と考えることが『常識』というものへ変化していくのかなと考えたりしました。

 

『自分の意見』が『社会の総意』と勘違いした意識が、無意識へ変化したことで『常識』という考え・価値観へとなった。

「常識とは18歳まで身につけた偏見のコレクションだ」という言葉もあります。

 

 

いろんなハラスメントが列挙する現代で、モラルを強要する「モラルハラスメント」というものがありますが、これも『自分個人の意見=社会の総意(常識)』と捉え、それが無意識へ変わったことによって、引き起こされた現象なのではないかと感じます。

モラルを強要するってすごい皮肉が効いてて面白いですね。

 

『意識の無意識化は危険を孕む』という意識は、常に意識の隅に置いておいた方が良いように思います。

なぞなぞ?

 

 

しかし、この『これはわたし個人の意見です』という"意識"が "無意識"に変わった時の危うさは、度外視して考えているな、と氣づいてしまいました。

恐ろしいですね。意識とはまったく恐ろしいものです。

 

 

増長させているものはなにか

この『自分の意見=社会の総意』という意識を増長させ、無意識化させている要因はなんだろうと考えました。

 

『自分の意見が正しい』や『自分が間違っていると思いたくない』というのは、あるでしょう。きっと根本はそこだと思います。

誰も「自分はアホで、自分の意見は間違っている」なんて思いたくないですからね。

 

 

古からこの『自分の意見=社会の総意』という意識はあったはずですが、その意識がここ最近でより増えているように感じます。

 

その理由として考えたのですが、現代では皆が利用して離すことができなくなっている『電脳』の世界が関係しているのではないかと思いました。

 

今の時代は、皆が「自分と近い(あるいは同じ)意見を集めて、身の回りを『自分と同じ意見』で固めることができる」時代です。

その行為を無意識のうちに求めて行っているから、他者も自分を同じ考え価値観を持っているから、『自分の意見は正しくて、つまりは社会の総意だ』と知らないうちに思い込んでしまう。

 

無意識に求める理由は「自分と同じ意見があると、自分が肯定されたような氣持ちになるから」であろうと考えています。

「自分と違う意見に触れて嫌な氣分になりたくない」というのもあると思います。

 

この『要因』は、新聞やニュースといったメディアプログラムだったりもするでしょうね。

 

 

この考え方も狭量なのだろうなと思う次第です。

 

 

脳に騙されないようにしよう!

脳というものは厄介です。

知らないうちに、意識や思考を樂な方へ樂な方へと誘導しやがるからです。

 

『脳という箱』の中に自ら入って、内側の世界だけを見ようとするのが、脳や、脳の意識だと思っています。

その詐欺師的な脳のやり口を理解していれば、脳という箱を外側から眺めることができますし、もし知らないうちに自分が脳の箱に入ろうとしていても、氣付くことができます。

 

『自分個人の意見』は『社会の総意』などでは決してなくて、『自分個人の意見』でしかない。

 

 

意識を意識として、意識下に置いておき、無意識化させない意識が大事なのだと思います。

 

 

 

なぞなぞ?

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )