本日も閲覧ありがとうございます。
今回はフレーミング効果、リフレーミング効果についてお話致します。
「フレミングの法則」の話では無いですが、「フレーミングの拘束」にはなりえると思われます。
フレーミングとは
Wikipediaにて『フレーミング』という語句を調べると、
写真や絵画制作において、フレームや大きさを検討すること
火災時に炎が炎上すること。転じて、インターネット上において"炎上"すること
と書かれています。
そのほか『フレーミング』を検索すれば「野球の技術」も表示され、どうやら世間ではフレーミング=野球という認識が強いようです。
ですが、今回お話しする『フレーミング』はそれらではなく、言うなれば『思い込み』を指しています。
"flame(火炎)"ではなく、"frame(枠)"
"frame"に"ing"がくっついて"framing"です。
自分が知らないうちに決めてしまっている、意識・考え方の『枠』『思い込み』
それ、またその無意識をフレーミングと呼ぶそうです。
男の子は青・黒。女の子は赤・ピンクというのも、ひどくしょうもなくつまらないフレーミングです。
クソみたいな洗脳でしかありません。
家事育児は女性の仕事というのも、男性はスカートを履いてはいけないというのも、クソみたいな洗脳です。
フレーミングとリフレーミング
フレーミングは言うなれば思い込みだ、と書きました。
ではリフレーミングとは何か。
"framing"に"Re(再び)"をくっつけて"Reframing"
つまり、それまでの思い込みを「それって本当に正確なの?」と考えて精査し、また場合によっちゃこれまでの考え方をぶっ壊すことです。scrap and buildですね。
例えとして適切ではないかもしれませんが、「キリスト教が至高」と考えている信徒が仏教と出会って改宗することもリフレーミングに該当されると思います。
宗教自体に洗脳の要素がとても強いので、改宗というリフレーミングがそのまま新しいフレームになることも往往にしてあるでしょうね。
でも人間なんてどこかに頼ったり凭れたりしないと生きれない弱い生き物だから…😌
現代日本でスタンダードとなっている「西洋思想」も洗脳でありフレーミングですからね。
西洋医学なんてその最たるものでしょう。
リフレーミングをすれば見識が変わる
リフレーミングがなぜ必要なのか。
インターネットが広く普及した現代社会では、知らないことに出会ったらどうするか。
検索するんだよ
伊坂幸太郎 『モダンタイムス』 151ページ
ではなぜ「検索をする」のか。
それは『ネットで検索をすれば正しい情報が得られる』というフレーミングがなされているからではないでしょうか?
こちらの記事でも言及していました。
この記事の冒頭でも『フレーミングの意味』をWikipediaで調べた結果を引用していますが、それも「Wikipediaの情報は正しい(と多くの人は思っている)はずだ」というある種の信頼じみた感覚が多くの人間の中にあるため、引用しました。
その『Wikipediaへの信頼』も無意識のフレーミングです。
そんでもって「オールインワン」の内容を再度引用しますが、『インターネット(Wikipedia)の情報は正しい』というフレーミングがされた状態で初めての情報と触れると、その情報が正しいものと思い込んでしまいがちです。
「オールインワン」ではその状態を『鳥類が孵化した後に、初めて見た動くものを親だと思い込む"刷り込み"と一緒だ』と形容し、『この"刷り込み"はヒトにも適用される』とも書きました。
件の感染症が良い例だと思います。
情報の多くはテレビから供給される。
感染症の知識なんて大衆にはほとんどない。
感染症の権威(っぽい?)學者さんがそれっぽいことを言っていれば、大衆は信じる。
それもこれも「テレビで報道されることはほとんどが正しいであろう」という無意識のフレーミングがなされているからだと考えています。
聞くところによると、欧米では、テレビからの情報を信じるのは全体の20~30%だけなのに対し、我が日本では70~80%の割合で視聴者は信じるそうです。色を変えているのは印象操作です。
それを知った時に「まぁそんなものだろうな」とも思いましたが、流石に日本人のアホさに愕然としたのも事実です。
いつまでテレビ信仰続けるつもりなんだろうかというのが素直な感想です。
とはいえ、「テレビは信用ならねえ。ネットの情報しか信じねえ」というのも、自分を偏ったフレーミングに押し込めることになりかねないと思いますので、程度が大事ですね。
なぜリフレーミングをするといいのか
テレビからの情報を無条件で信じるというのは「『テレビの情報は正しいはずだ』という無意識のフレーミングがあるからだ」と主張いたしましたが、そのフレーミングが形成されたのはなぜでしょうか?
それは物心ついた頃から生活の中に存在していたからではないかと考えています。
だから疑うこと自体に思い至らない。
宗教が各家庭で伝承されるのもそれが理由なのではないかと思います。
それがきっかけで原理主義やら宗教戦争も引き起こされているんでしょうけどね。
まぁ疑ったり考えるのって疲れるし、その人のアイデンティティが根幹からひっくり返りかねないんで、何も考えないで「特定のものが規定したもの」に準じて生きるのもある意味賢い生き方なのかもしれませんけどね。
流れが急な川の中で踏ん張って直立するよりも流される方が楽ですもんね。
わたしは絶対に嫌だけど。
あ、それとテレビだけがどうってことではなくて、メディア全体に対して「本当に正しいんかいな」と思うことが重要だと思います。
新聞もインターネットも。
ひいては個人に対してもそういった意識はあった方がいいと思いますが、自分の感情が満たされていれば、他人をやっかんだりすることもなく、個人の動静ごときに惑わされることもありません。
それで「どうしてリフレーミングをするといいのか」なのですが、それは『リフレーミングをするとそれが癖づくから』です。
町で知らない人に絡まれた際、大抵の場合は「ふざけんなよ」と思うでしょうが、その時に「相手にも何か事情があるんだろう」とリフレーミングすることによって、あんまり氣にならなくなったりします。
ですが、八つ当たりをする輩の方が明らかに良くないですし、常に相手に寄り添って考えているのもいつかパンクしてしまうので適度にガスを抜いたり愚痴を言ったりするのは必要です。
「今月お金を使いすぎた!生活費がやべえ!」となった時に「ということはやりくり上手になるために良い機会じゃん。これまでの生活で無駄になってたものを見直してみよう」というのもリフレーミングでしょうね。
最近酢の物を克服しました(それまではそんなに美味しいと思えなかった)。
昔はすっぺえくて酢の物は苦手だったのですが、自作すれば自分の舌に合わせて作るので「酸っぱいけど美味しいじゃん」と思えて、酢の物が好きになりました。
きゅうりとわかめとカニカマの酢の物が美味しいんだこれが。しかし酢の物は使うお酢次第でもある。
単純に実家の味付けが自分に合わなかっただけじゃねえかなとも思いますが、作ってもらっといて偉そうだとも思います。
料理や食材が年をとったら食べれるようになるのは「あるある」ですよね。
それも舌にある味蕾が加齢によって死んでった結果なのでしょうね。
自然界では『酸っぱい物は腐った物』で、『苦いものは毒』らしいですからね。
だから子どものころに苦手だった野菜などを大人になってから食べたら「なんだこんなものか」と思ったりするのでしょう。
精神的に向上心のないものはばかだ。
最近は「過去の苦手を克服するために、人間は物を考え何十年も生きるんじゃないか」と思っています。
「子どものころにできなかったこと」というフレーミングに、成長して挑戦することで「"できなかった"を乗り越えて"できた"にする」というリフレーミング。
精神的に向上心のないものはばかだ。
あ、一番わかりやすい説明かもしれないのですが『自分が短所だと思っていることは、他人からすれば長所』なんてことが往往にしてあります。
「心配性で思い悩むこと」が短所だと思っていても、その要素がない人からすれば「用心深くて良い」と映るもんです。
それです。
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」という言葉もありますが、あれもリフレーミングかもしれませんね。
違う氣がするけど。
最後にこの前発見したドラマーさんの動画を紹介致します。
Kristina Rybalchenkoさんとおっしゃるそうです。
ちょー上手い。かっこいい。グルーヴすごい。
楽曲のオケとドラム音とのミックス具合や、原曲の音のキャラクターによって左右される部分もあるのですが、カバーする曲によって音をちゃんと叩き分けている。
YouTubeとかインターネットとかって、10年前20年前には触れることができなかった世界の音楽やプレイヤーと出会うことができるからいいですよね( ¨̮ )❤️
ちなみにブログタイトルの言葉遊びは伊坂幸太郎氏の『重力ピエロ』の各話タイトルから着想を得ました。
わたしの思考の70%は伊坂幸太郎さんでできています。
ありがとうございました\(´-`)/