本日も閲覧ありがとうございます。
今回はわたしの本分たる音楽のお話です。
音楽への愛を垂れ流す記事です。6000字近くあります。
これまでちょくちょく動画を貼っていた八十八ヶ所巡礼というバンドの音源を、最近購入いたしました。
出会い
2015年か2016年の時に『仏滅トリシュナー』を聴いたことがあったので、バンド自体は存じておりましたが、初聴時はクセが強くて受け付けられなかったんです。
「えっ…リズム隊エグいくらい上手いやん…音の粒立ちとキープ力やば…」という印象はかなり強かったですが、あまりにクセが強くて受け付けられませんでした。今思うと聴いていた音楽が狭かったから受け入れられなかったんでしょうんでしょうね。
そのころはまだKRAFTWERKも、Yesも、Rage Against The Machineも知らなかったですからね。
それから数年経ち、今年。
久しぶりにあの変態的なプレイが聴きたいと思い、見てみるとあら不思議。
とんでもなくかっこいい
すぐさま別の『攻撃的国民的音楽』を聴きました。
はぁ〜〜〜〜かっこいい
かっこよすぎて戸惑いました。
しかし難点なのは、「このバンドが大衆受けする時代じゃねえ」ってことなんですよね。
いや、なんでも大衆受けしなくちゃいけないわけじゃないってことは重々承知しているのですが、このバンドが主張していることが必要な人は現代日本にとてもたっくさんいるので、ぜひとも多くの人に認知してほしいんですよ。
しかしPVが奇抜。
「最近このバンドが好きなんだ」とこの曲を見せようものなら、ゆっくりと距離を取られかねない始末。
でもね、わたし思うんです。
音楽の嗜好(趣味というものの構造自体)っていうのはその人の心を写しているものだから、他者の好きなものに対して「えぇ〜そんなのが好きなの?」と発言するというのは、その人自身を否定していることになりかねない。
大体が社交の場で発露できない感情を、音楽を聴くことで昇華させて正常を保っているのに(ブルースやジャズの誕生理由が感情の発露)、それを否定し「みんなが好きなものを好きと言いなさい。フリでもいいからそうしなさい」というのは、その人に不親切。というか、精神的な殺人と同じことだと感じるのです。
そういった平均主義といったものも、戰後教育の結果なのかと思ってしまいます。
みんな一緒で五教科を満遍なく平らに均しましょう。
それでいいのか?
ちなみにわたしはその学校という機関にどうにもならない息苦しさを感じていたクチです。
だからこそ思い悩みながらも、あの場所で上手く立ち回っていた方にはある意味の尊敬を感じます。わたしには無理だったからね。
ここ十数年で利己主義がどんどん大きくなって、鬼化した社会。
人身事故にイラつく人々。飛び降りをするかも知れない人にカメラを向ける人。飛び降りをしようとしている人に対して「かまってちゃんかよ」と冷たい言葉で刺す人。
そんな不寛容な人ばかりになった現代が幸せな時代だといえるのでしょうか?
一度たりとも身を投げた人の境遇を想ったのでしょうか。
自分だけじゃなく、子の世代・孫の世代その先の世代へ世界を繋いでいかねばいけないのではないでしょうか。
わたしもまた別の他者から見れば鬼に見えるのかも、と煩悶するけど、その煩悶すら感じないように心の感度を下げ生きている人々。
そのままじゃ知らないうちに死んじまうぞ。取り返しがつかなくなるよ。
八十八ヶ所巡礼のベースボーカルを勤めていらっしゃるマーガレット廣井さんも同じく生きにくさを感じていた一人じゃないかと思います。
書かれた歌詞を読めばわかりますね。とても暖かい人なのでしょう。やはり言葉は心。
というより、メンバーのお三方ともいい人そうな雰囲氣が出ていますものね。
今回購入したのは、『攻撃的国民的音楽』と『凍狂』という二枚のアルバムです。
攻撃的国民的音楽
初めに『攻撃的国民的音楽』の方から聴いたのですが、非常に困惑致しました。
「もしかしたらとんでもねえ世界に入ってきちまったかもしれん…」と思いました。
その困惑はYesの『Fragile』というアルバムを聴き終わった時と同じレベルの動揺と困惑でした。分かりにくいですかね。
しかしですね、『攻撃的国民的音楽』のラストサビで、
しゃっくりと後悔の中で その胸の太陽を燃やせ
百粒の混沌の中で 乱れ咲く煩悩を殺せ
百粒の混沌の中で 寝惚けてる本能を起こせ
と歌っており「お?」と思いました。
バンド、曲、アルバムのエネルギー値が高かったから、それを受け止めきれず(真正面から受け止めて?)困惑したのか?と思います。
エイトビイトな人々
それでMAJI最高なのが、アルバムのラストを務める『エイトビイトな人々』という曲で
す。
消息わかってんだろう?
故にベソかいてんだろう?
何処に向かってんだろう?
頭の逝き先を教えてくれ
これが歌い出しなのですが、ドキッとしました。
「やりたいことはわかってんでしょ?でもできてない(やれない)からベソかいてんでしょ?」と言われている様に感じて。
「やりたいことはあるけど、それをやらない理由。頭で考えているその理由を教えてくれ」と言われているような感じがして、どこかむずむずと居心地が悪かった。
でもそれはまだ自分が逃げていたいと思っているからなのでしょう。
この曲はA→A→B→A→B→サビ→C→Aという構成になっているのですが、サビの歌詞が、
どうにもならない孤独があるさ
どうにもできない地獄があるんだ
どうにも鳴らない響きもあるさ
どこにも逝けないことが怖くもあるさ
となっており、サビ終わりまでどこか暗さや寂しさを感じます。
どこにも逝けないことが怖くもあるという感覚も非常によくわかる。
でもね、その後のCメロでこう来るんです。
ふにゃふにゃにされた人々
くしゃくしゃになったエイトビイトを
へとへとに慣れた人々
あやふやになったエイトビイトを
でたらめに慣れた人々
がらくたになったエイトビイトを
うやむやにされた人々
ギラギラ光ったエイトビイトを
さ が そ う ぜ
さ が そ う ぜ
良いですよね。MAJI最高ですよね。
「探せ」って言って突き放しているのではなく、「探そうぜ」と言っている。
「俺たちもエイトビイトを探すから一緒に探そうぜ」
「本当は大事なのに蔑ろにされちまったものを探そうぜ」と呼びかけている。
とても心強いです。
『他者は蹴落とし這い上がれ。蹴落とされた奴はそいつが力不足だったからだ。自業自得だ』という自己責任論に支配されきった現代社会に対して、カウンターを取っており、時に神、時に友、時に師の視点で寄り添ってくれる。
自己責任論の考え方はある程度は必要だとは思うけど、第三者がわざわざ言うのは違うと感じます。
自己責任論は自分で折り合いをつけたり、なんとか溜飲を下げたりする時に用いるものだと、わたしは考えています。
蹴落とした人間が偉いわけでも、蹴落とされた人間が駄目なわけでもない。
というか、二元論的や原理主義的に世界は割り切れないでしょうに。
氣 づ こ う ぜ
凍狂
現時点での最新アルバムです。
アルバムの開幕を飾る『虚夢虚夢』も素晴らしいのですが、二曲目の『金土日』がなんともいいんです。
(Bメロ)
やってる意味のない事が大切 僕なりにがんばってる
やってる意味のない事が退屈 訳など探さないで
やってる意味のない事が大切 僕なりにがんばってる
やってる意味のない事が退屈 訳など探すな
(サビ)
今は訳など探すな 今は訳など探すな
今は訳など探すな 今は訳など探すな
現代社会はコストパフォーマンスやら目先の"意味"に躍起になりすぎでしょう。
「やる意味」を重要視しすぎて盲目になってるじゃないか。お笑いか?
やってる意味がないと"今"思うことってのは、後々になってめちゃくちゃ意味を持ってきたりするものなんですよ。まぁご経験がお有りのこととは思いますけれどね。
しかし意味ばかり求めて、意味のない(ように思える)ことを楽しめなくなっていては、そりゃあ世の中に虚無(ニヒル)は蔓延しますよ。
インターネットの炎上騒ぎや芸能ゴシップなんてのも、大衆の虚無の発露なんじゃないかと思います。わたしはそんなことどうだっていいです。
虚夢虚夢してると仏は狂い出しますし、虚夢は奈落すら奪います。
数週間前に虚無に見舞われたのですが、あれはなにもかもが褪せて見えるので辛いですよ。虚夢はあかん。
凍狂
良いですね。とってもピュアで不器用なラブソングだなと感じました。
恋愛の意味にもなりますし、もっと違う意味合いにも取れます。
いろんな意味合いに取れる曲というのは素晴らしい。
YouTube上でPVを見ているときはあえて歌詞は見なかったのですが、やはり歌詞を追いながら曲を聴くのは良い。言葉は心そのものですからね。
凍狂の登場人物には、そしてこの曲にシンパシーを感じる方には笑い転げて、笑い滅びるような、ご自身なりの最高な人生を送ってほしいです。どうかお幸せに。
紫光
しょうもない君の正体は 溢れ出る夢の紙芝居さ
鮮明になった昔々 大勢で泣いた物語さ
『なんか悲しい…』そんな気持ち
そんなところだけ先祖返りで
その真っ赤な目で 恍惚の目で 後悔の海を航海し続けるさ
という歌い出しなのですが、またまたどきりとしました。
「わしか…?」と思いました。
純粋に夢を夢として見ていた頃が日々を重ねるに連れて鮮明になっていき、その夢は実体になっていない紙芝居。その紙芝居の夢送りが自分の正体で、その過去に見ていた夢物語を思い出し、今までの何人もの自分が泣いた。
いや辛すぎません??
心当たりありまくりなんですけど。
泣き腫らして真っ赤になった目で、でも夢は捨てられない恍惚とした目で、自分が選んだ道をゆっくりと後悔してこれからも生きていくさ。
共感しかねぇ。
Bメロでは、
その眼を消しとばしたら 喜びは単純さ
世の眼が馬鹿になったね わたし紫の光になる
と続きます。
この眼ってのは人間的な視点のことじゃないかと思います。
実際に物質的な眼って意味合いでもあると思います。
なんでもかんでも意味を求めるという"眼"がなくなれば日々を終えて迎えられるだけで喜びとなる。
未来や過去という"眼"があるから苦悩したり、未来に対して不安を感じたりする。
だから「常識」といった名前などの"眼"が消えれば、喜びは単純なものになる。
それに氣付かず、見えていない世の眼は馬鹿になった。
実際覺えている限りでも、ここ十年で世の中は馬鹿になったと思います。
『わたし紫の光になる』というのは、はっきりとはわかりませんが「地上からではなく神の視点になって、白か黒かの二元論的じゃない赤と青が混ざった多様性の光を使って世の中を照らす役割になるわ」ということでしょうか?
マーガレット廣井さん歌詞の解釈難しいです。でもその難しさが楽しいですし、正解を求めている内はわたしもまだまだです。
でも、この暗いような、でも幻想的で泣きたくなるような曲の雰囲氣に救われるんだよな。
数週間前の虚無を感じていたころにはお世話になりました。
この曲を聴いていると夜の鬱屈が散るというか、どうしようも言い切れない感情と共にでも生きれるんじゃないかと思うんです。
暗い。まぁ泣きもする。でも飯は食らう。
生きていくために逃避することも必要だろ。
怪感旅行〈Bonus track〉
マーガレット廣井さんが飲みにいく曲です。
結構楽しげな真面目にふざけた曲なのですが、サビがなんとも良いんですよ。
狂の怪感と 罰当たりな幻夢と虚しさ
表裏一体の 狂おしくも幽雅な浮世さ
妙と尋常の 狭間で浅ましく身悶えて
今日の極楽と 明日の地獄を愛でましょう
MAJI最高じゃないですか?
『本当に馬鹿らしいけど愛おしい現世で、変と普通の紙一重に身悶えながらも、今日の極楽と明日の地獄を愛しましょう』なんて素晴らしいじゃないですか。
この世のアホらしさすら愛して生きていきましょうよ、というのはとても力強く優しい。
苦悩という煩悩はそうそう簡単には消えないから、それを抱えて踊りましょうよ。
暖かい人ですね。
そして「世知辛い…」と歌いながら曲は終わりに向かっていくのですが、その後に「最高!」というシャウトが入ります。
それが『世知辛さすら楽しんでいる感』があってとても好きなのです。
まとめ
二枚を聴き終わって思ったのは「知ってよかった」でした。
『攻撃的国民的音楽』を再生した時は本当に「やべえ世界に足を踏み入れたやもしれん…」と思いましたけれどね 笑
でも二枚を聴いた後に思ったのは「知ってよかった。この音楽があるなら生きていけるかもしれない」です。いや、勘違いなんですけどね。
その勘違いができたことと、勘違いさせてくれる存在がいてくれた。出会ってくれたことが嬉しいんです。
高校時代に出会っていれば確実に人生が変わっていたと思えるものと、28になっても出会えるというのはとても恵まれているし有難いことです。
本当に嬉しい。
つーか高校時代じゃくなくても何度だって人生は変えられんじゃね?「高校時代に出会っていれば」とか言ってんのは自分で行動範囲を狭めているんじゃねえか?
完全に狂ったあっち側と、まともそうな顔してバッチバチに狂いまくってるこっち側との紙一重を、朦朧としながらもしっかり意識保って綱渡りできそうな感覺を見出させてくれる。
音楽に生きていてよかった。
\(´-`)/
2021年8月18日 NEW ALBUM『幻魔大祭』発売!
そんな八十八ヶ所巡礼さんの新譜が今年2021年8月18日に発表されます!めでたい!買います!
八十八ヶ所巡礼
— 八十八ヶ所巡礼公式アカウント (@88kasyo) June 25, 2021
NEW ALBUM
『幻魔大祭』
八月十八日発売 pic.twitter.com/RPhbfRFRMM
幻魔大祭 全曲レビュー
音楽for ever\(´-`)/
ありがとうございました\(´-`)/
最高!