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はじめに 〜ゲームというものを久々に購入しました〜
以前に少し書きましたが、最近スイカゲームのアプリ版を購入しました。
『ゲームを購入』です。
基本的にはギターと読書で手一杯なので、ゲーム自体は好きながらも購入してまで興じるということはほぼほぼありません。
最後に身銭を切って購入したゲームは『Plague Inc.』という作品で、それももう五年以上前です。
とはいえ、パズルゲームは好きなので興じることもあります。
『PN Style』というゲームでは61,000スコア超えくらいやりこんでいます。
スイカゲームはどうやってもへったくそで、いけて3,400とかです。
さて。
そんなゲームを久しぶりに購入したことで知ったこと?改めて実感したこと?があります。
ゲームって買うと広告がないんですね!!
「ゲームを購入する、ってそういうことかぁ」なんて呑氣に思った次第です。
そんな、一件に端を発して思ったこと。
その一連。
それが今回の内容です。
お金を使う
塵も積もれば山となる
ある日。
公共的な交通の機関に乗っていた時のこと。
基本的にわたしは時間があれば本を読みますが、おそらくその時、八十八ヶ所巡礼さんの音源を聴いていました。
個人的にわたしは八十八ヶ所巡礼さんの音樂を聴きながらだと読書ができないので、その時はぼやん、と、座席に鎮座していたと思います。
現代では猫も杓子もみんなが皆んな暇があれば携帯電話を触っています。
たまたまその時にお隣のladyがゲームアプリに興じている様が目に入ったのですが(決して故意に覗いたわけではないです。つーか現代社会どうしても目に入っちゃうじゃんね)、その時は広告動画が画面に表示されておりました。
先に書きました『PN Style』も無料アプリケーションなので、広告の厄介さというか、面倒さは存じてあります。
「そもそも広告邪魔くさいからデータ通信切ればいんじゃね」と思って『PN Style』は興じていましたが、その公共交通機関的な車内での些細な出来事で、あることを思ったのですね。
「これって時間を無駄にしてるってことだよな」
考えてもみてくださいな。
広告が流れている三十秒から一分の間、ただ待っているわけです。その間も寿命が縮んでいるわけです。
塵も積もれば山となる。
広告ひとつひとつは一分程度であったとしても、積み重なって日に十分とか二十分とかに膨れ上がったりするでしょう。
二十分もあればなにができますでしょうか?
何かしらができます。
なんでも良いですが、何かしらはできます。必ず。
ここで勘違いをしてほしくないのは、「それ」を自覺し受け入れている場合は良いし、何もそれを受け入れている人を否定するわけでも修正したいわけでもありません。
重要さと危険性を帯びてくるのは『その先』です。
"繰り返す" ことで生まれるもの
本当にわたしは再三言っていますが、広告は繰り返しが重要です。
単純接触効果というやつですね。
広告は何のためにあるかといえば「消費者が商品を購買して利益を生み出すため」です。
その利益発生のために繰り返し広告を打っているわけですが、広告が流れている間はただぼうっと画面を見ていたりするでしょう。
ぼうっと繰り返し見た結果、知らないうちにその商品に興味を持ち、購買を行う。
これって、時間も費やしているしお金も使っているのです。
ある作家さんが「お金を使って小説を買うということは、労働時間と読書の時間とで、その人は二倍時間を使っていることになる。それはつまり二倍人生を使っていることと同じだ」と話していたのですが、この場合も『広告を見る』ということと『お金を使う』というとことを行なっている。
ましてや後者の場合は『労働の時間』も発生しているので、三倍も人生を使っていることになります。
どうでしょうか、空恐ろしく思ってはきませんでしょうか。
ことわざ?で『もしあなたが無料でそのサービスで使っているなら、あなたは客ではなく商品なのだ』というものがありますが、今回のお話がまるでそれそのものなのじゃないかと思います。
次の項目では『無料』について言及いたします。
節約するためにお金を使う
前述では無料のゲームアプリについて書きましたが、この法則は別にゲームアプリにのみ適用されるのではありません。
YouTubeという動画配信サービスがあります。
わたしはこのサービスを非常に多用していて、もはや染脳されているほどじゃないのかとすら、我ながら思います。
わたしがYouTubeを利用する際、基本はPCの広告ブロックブラウザでの利用なので広告の毒牙は心配無用ですが、携帯電話のアプリケーションでYouTubeを利用する場合は広告が頻繁に流れます。
以前までは五秒待てば広告を飛ばすことができましたが、今では待つ秒数が長くなっていたり飛ばせない広告すらもあります。
ところでこの動画広告、最近では飛ばされることを見越して「スキップボタンが表示される直前」で続きが氣になるような内容を表示するという工夫がされていたり、スキップボタンの表示直前で商品名や目玉のサービス名が表示されるという工夫(これこそ潜在的に意識させる方法)がされていますね。
非常に人間の心理を利用した巧いやり方だと思います。
閑話休題。
この繰り返し流れる動画広告を見ていると、次第にその広告内容に興味が出てきたりします。
そして、購買する。
ここで面白いというのか、恐ろしいというのか、巧妙だというのか、『広告の内容』に注目してみてください。
基本的に他の無料サービスへの紹介的な内容じゃないですか?
あるいは「本来よりも安くしますよ」的な割引内容。
無料サービスを利用している層、それは、言ってしまえばお金がない層でしょう(もちろんわたし自身も含め。こんなこと自分で言いたくない)。
そのお金がない層に対して、同様の無料サービスやコンテンツを広告表示する。
巧いですね〜〜。そして抜け目がない。
単純接触効果で興味を持ち、お金が回る。
受け手側の時間とお金という《人生》も削られる。
ちょっと、これ、本当に面白くできているなと思います。
そういった構造を垣間見て、広告の悪どさ(そのためにあるものなんだけども)に苦い顔をしている日々です。
広告が表示される、その広告が飛ばせない、となると、わたしは自分自身の意識が侵されているような氣持ちになり人生を無駄にしているという感慨も生じます。
じゃあその無駄時間を省くにはどうすれば良いのかというと、YouTubeプレミアムに入れば良いのです。
しかし、昨日見てみると月賦で1,700円ほどするらしい。
「ちょっと高くね…?」と思ってしまい、尻込みしている現状です。
まぁそもそも携帯電話(正確にはいんたねっと)への依存症的な傾向ははっきりとあるので、それ自体をどうにかしろよ、とも我ながら思います。
さて、これまでの話で行き着いた結論ですが、それは『人生を無駄にしないためにお金を使う』のだな、ということです。
表現を変えれば『節約をするためにお金を使う』ですね。
広告を見たことにより生じたお金よりも、その広告を見ないようにするためにお金を使った方が安くつく。
そして広告を見ている時間をぎゅっとまとめた二十分かそこら(人によって変化するし)を別な何らかのことに使うことができる。
『人生を無駄にしないためにお金を使う/ 節約をするためにお金を使う』というのが、身近に感じるのではないでしょうか。
うわー。さっき氣付いたのですが、YouTubeって動画前の広告が流れない時もあるんじゃん。
『スマホ脳』にて言及されていましたが、SNSはギャンブルの要素を取り入れているそうです。
「次は勝てるかもしれない」という期待により、もう一回、と始めてしまうそれです。
わたし自身もはっきりと自覺したのはついさっきですが、無意識では『この動画は広告がないかもしれない』と思って動画を再生していたのかもしれません。
そして、脳みそが快感を得ていた。
これは憶測ですが、興味のない広告が繰り返されてストレスを感じている時の方が意識・無意識関わらず浸透させやすいのかもしれませんね。
ほら、怒りとかモヤモヤした感情って長く尾を引いて覺えていたりするものじゃないですか。
公共性
いんやー面白い。
我ながら面白い考察です。
そして以下に記すこともつい昨日認識したことです。
例の通り公共交通的機関のものに乗っているとき。
広告に対して色々と言及しているわたしですが、実際のところ広告というもの自体は好きです。
行動経済學というのでしょうか、その広告自体の意図をわたしなりに読み取るのが愉しいし面白いと感じるからです。
広告は好きなので、昨日も機関公共交通の場で広告を觀察していたんですね。その様を。
その時、ふと思いました。
「どうして広告が掲示されているのだろう」
その時に、ぶわっと、いや じわっと?ある仮説が我が頭に去来いたしました。
『公共性がある場所だから広告があるのでは?』
最初に書きました無料の場と近い部分はあるのですが、この場合は〈無料〉というよりも【公共性】という要素の方が重要となります。
まず、広告というのはメディアです。
メディア自体でもあるし、メディア自体に織り込まれるものでもあります。
テレビ。
わたしが広告というものを最初に意識したのはそれでしょう。
おそらく多くの方がそうなのではないかと思います。
テレビというものは、機械や周辺機器自体にはお金が必要ですが、テレビ番組を見るという行為にはお金が発生足しません。
「いや、國営放送には受信料を払ってんじゃねえーかよ。ダウト」と思われた方もいらっしゃると思いますが、國営放送には企業広告が流れることはありません。
もし流れていたならば、「どうして國営放送でCMが流れるんだ!」とどこかの俳優さんが声をあげるのではないでしょうか。
企業広告が流れているのは民放のみです。
そして、民放は無料で見ることができる。
そもそもメディアというものはマス(多数)に向けて組織されているので、公共性を前提としています。
交通機関である電車、また別の交通機関であるタクシーや飛行機、これらは集団に対して向けられたサービスです。
つまりは公共性があるものです。
最初に書きましたYouTubeは無料サービスですが、無料であるということで公共性が担保されます。
思い出していただきたいのですが、お金を持っている方は自家用車やプライベートジェットなどを所有しています。
そういった個人のものは【所有物】となるので、当然公共性は発生いたしません。
個人の所有物であるため、内部などは自由にすることが可能です。
つまり、個人の所有物には、広告は発生しない。
『お金を使う』ということは、その本懐とはそういうことなのではないでしょうか。
お店さんは、その店内自体が広告であるので別の広告は発生しない。
というより、お店さんはお店ですがまず前提として店主さんの所有物となるので広告は発生し得ないという感じですね。
ですがその店主さんが好きなものを店内に置いているために、自分自身に対しては広告となるという事象は発生いたします。
以前に「その人の本質って身につけてるものじゃね?」的な内容的な記事を書きました。
今回のお話を交えて補足?をすると、個人が購入したものは個人の所有物となりますが、他者から見れば他人に対しては公共性が発生している、という感じですね。
ちょっとこのお話はややこしいですね。
我ながら面白い考察だった
いやぁ、我ながら面白い考察でした。
久しぶりに五千字近く書いておりますね。
わたし自身としては確信めいたものはありますが、あくまでも現時点の考えですし、それ以前に酔狂な与太話程度のエンタメとでも思っていただけたら幸いです。
ありがとうございました( ¨̮ )