頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

待ち人は来ないし、信じるだけじゃ救われない。

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

今回はこちらの記事にちょろっと書いていた「愚痴と叱咤激励」の話です。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

MAJIでただの愚痴で口もかなり悪いので、読むに耐えないかもしれませんが、叱咤の中にも激励を練りこんでおりますので、どうかお楽しみいただけたらと思います。

 

 

 

 

 Fuckn'なクソカルト

 

皆様は「モテたい」という感情をお持ちでしょうか。

 

わたしは、この感覺が嫌いです。大嫌いです。

理由は『モテたところでどうにもならない』から。

 

 

「モテたいと思うか。どうしてそう思うのか」を数人に質問したところ、「一人で過ごすのが苦痛なのではないか」といった意見や、「モテないよりはモテた方がいい」といった意見がありました。

なるほどそういう意見もありますよね。

 

 

 

わたしからすると「モテたい」という思いは、ほとんどカルト的信仰と同じだと思っています。そしてその価値観には幼稚さしか感じません。

 

この記事では「モテたい」というクソカルトの幼稚性の指摘、及びそのクソカルトに頼らない為にはどうすればいいのか、をわたしなりに記していきます。

 

 

ちなみにわたしが嫌いなのは、「生きてたらモテたいと思うのが当然でしょ?」といったような盲信、また疑問にすら思わない輩や、「なんとしてでもモテたい!」と躍起になっている輩です。

 

 

 

Fuckn'なクソカルトを嫌いな理由①

 

 さて、どうして『モテたところでどうにもならない』と思うのか。

 

その理由は『いくら複数から好意を持たれても、自分で自分を満たそうとしなければ意味がないから』です。

 

 

よく「誰それがわたしを救ってくれた」などと言いますが、それは違います。嘘です。欺瞞です。詐欺です。洗脳です。

「誰かが何かを言った」のは事実だとしても、それを受け取り自分に落とし込んだのは自分以外の誰でもありません。

 

つまり、自分を救ったのは自分でしかないのです。

 

それを?知らず?それとも忘れて?誰それが自分を救ってくれた?

 

莫迦みたいなこと言ってんじゃねえよ。

てめぇの手柄、てめぇで勝ち取った功績を他者に譲渡してんじゃねえ。

 

同じことを別々の人間が話していて、片方の意見は聞き入れられないのに、もう片方の人間が言った同じ意見はどうしてすんなりと聞き入れられたんだ?

他者から言われた10のことを、3~4個に取捨選択して感じ入ったのは誰だ?

 

それは貴様自身が都合よく自分に当てはめて編纂したからだろうが。

つまり、貴様自身を救う行動は貴様自身がしているんだよ。

 

正確には「わたしがわたし自身を救うきっかけを、誰それが与えてくれた」と形容した方が正しいんだよ。

 

 

それを忘れてか、自分に関心が向かずか知らねえけど、「他人が自分を救ってくれた」なんて勘違いをしてんじゃねえよ。

 

貴様が"貴様を生きる"においての強固な「貴様自身」を持ちやがれクソが。 

 

 

 

Fuckn'なクソカルトを嫌いな理由②

 

他にも『モテたいという考え方が嫌いな理由』はまだあります。

それは『モテないと自分には価値がないと思っている節があるから』

 

正直この感覺を無意識に持っている(埋め込まれた)から、『モテたい』というクソゴミFuckn'なクソカルトに心を支配されてんじゃねえのかと思う。

 

 

結論から言いますが、

 

価値がなかったらとっくに死んでいるし、そもそも生まれていない。

 

です。

 

「モテない自分は価値がない」だ???

ならばその価値を埋めてくれるのは他人か?

 

それなら「お前は無価値だ」と他人が言ったら、それを無条件に信じて言ってきた人間に縋るのか?

「どうすれば価値のある人間になれますか」と?

そんなこと言おうものなら、その人間に都合の良いように使われるぞ。

 

まぁその人間にとっては都合が良いから、考え方次第では「価値がある人間になった」と取ることはできるけど、それってどうなのでしょうね。

 

 

もしかしたら盲点なのかもしれませんが、「お前は無価値だ」と他者に対して言うことができる人間なんてのは、自分自身に対しても無価値な人間だと思っています。

 

「自分は無価値だ」と感じているからこそ、他者を支配しようとして、「他者を支配することができる自分は価値がある人間なのだ」と思い込もうとする。

AHOな思考だなとわたし個人は思います。

ただの虚構ですし、虚空な思考。虚無ちゃん。

 

 

 

不足感なんて感じてんじゃねえぞ。

その不足感に付け込んで来やがるんだよ。クソどもっつーのは。

 

不足感を感じるなよ。もし不足感や不完全感を感じたとしても、その感情を覺えた今現在の貴様自身が完全なんだよ。クソが。

 

 

もし「お前は無価値だ」などと言ってくる輩が居れば、「わたしの価値を分からないなんて、なんてセンスが無いのかしら」くらい思っているくらいで丁度いい。

しかし、れを実際に発言するかどうかはまた別の話ですよ。

 

 

もし余裕があれば(できたら)、それを言ってきた相手が「どうしてそういう発言をするに至ったのか」に想い馳せていただけたらと思います。

 

 

 

Fuckn'なクソカルトを嫌いな理由③

 

理由①と理由②を内包したものになるのですが、三つ目の理由は『自分に価値を感じきれていないから、相手に満たしてもらおうとしている』ように見える(ようにしか見えない)からです。

 

自分で自分を満たすことはできない(と思っている)人間は、積極的に他人に満たしてもらおうとする。

そして、自分が言ってほしいことではなければ「そんなことを言ってほしいのではない!」と不機嫌になったり怒りを相手にぶつけたりする。

 

ちょっと待て。

言ってほしいことがあるんだよな?自分でそれがわかっているのに、どうして貴様自身が貴様に対して言わないんだ?

 

そんな理不尽な癇癪で八つ当たりされた相手は氣の毒でならない。

八つ当たりをされたら怒るくせに、自分がするのは良いのか?それはどういった道理なんだ。どうか教えてくれないか?

 

 

自分くらい自分で癒せ!

自分くらい自分で救え!

自分の機嫌くらい自分で取れ!

 

 

これくらい人から言われることなく自分で氣付け。

しかし、わたし自身も言われた経験が記憶から抜けているだけかもしれないけどね。

 

 

 

 

Fuckn'なクソカルトを嫌いな理由④

 

四つ目は理由①と理由③の別解です。

ほとんどの人間は自らの身一つ、心一つでどうとでもなることを忘れています。

 

本来の能力を忘れて、我が身で自己を癒そうとしない。 

つまり「人が自分を救ってくれる。他者だけが自分を変えてくれる」と思っている節がある。

 

そのスタンスでいるのが、なぜいけないのか。

それを以下で解説していきます。

 

  1. 「自分一人でどうにでもなる」ということを忘れて、他者が満たしてくれると勘違いする。
  2. 「恋人ができたら何か変わるかも」と勘違いし、恋愛に溺れる。当然、不足感は解消されない。
  3. 「結婚をすれば何か変わるかも」と勘違いし、結婚を生き急ぐ。当然、不足感が解消されるはずもない。
  4. 「子どもが生まれたら(育児をすれば)何か変わるかも」と勘違いをし、罪のない子どもを自分の罪に巻き込む。当然、不足感が解消されるわけがない。
  5. ひどい場合、「お前のせいだ」と責任転嫁をして子どもを責め立てる。

 

正直、現代にはそういった方は多くいるのではないかと思います。

その結果に表出したものが、昨今の『毒親問題』 と呼ばれるものなのではないかと考えています。

理由③にも書きましたが、貴様が見ないようにしてサボった結果周ってきているだけなのです。それを八つ当たりして責任転嫁しようとしている。幼稚園から人格形成をやり直した方がいいのではないかと思う次第です。

 

 

てめえの問題をてめえで解決せずに子どもになすりつけることほど、愚かで悪質で幼稚で不埒千万なことはない。

 

ピアノを習わせたり、野球をさせたり、英語を習わせたり、子役にさせたりと自分がしたかった(できなかった)ことを子にさせるのも、その内の一環です。

「自分の庇護下にいる子どもだから」と思い違いをされているのかもしれませんが、その子は独立した個人です。決して親の所有物ではありません。

本当にその子がしたいと言ったことならば、問題はありませんよ。

 

 

貴様が貴様自身を変えないと意味がねえんだよ。

いい加減に理解しろよ。それくらいの脳は持っているはずだし、それくらいできる素地を持っているはずだろうが。

 

 

 

Fuckn'なクソカルトと不足感が蔓延し続ける理由

どうして、そういった「クソカルト」が蔓延し続け、跋扈しているのか。

それは、多くの大衆の無意識に『不足感』が植えつけられているから。

 

ならばなぜ、『不足感を植えつけられた』のか。

 

それは、不足感を覺えさせておいた方が管理がしやすいからです。

 

 

身近なところだと、親と子の関係。

親となれば子に対して、おしめを変えたり、ご飯を食べさせてあげたり、生活に必要なお金を稼いだりしなければいけません。

それはある種当然のことですが、その当然のことを持ち出して「お前はわたしがいないと生きていけない」と言う。そうやって子の心に不足感と罪悪感や不完全感を植え付ける。

 

考え直せよ。それすら承知で子どもを授かったんだろ?

その覺悟なしで「子どもがほしい」だのと嘯いていたのか?

大体が「ほしい」じゃねえだろ。生きている個人の命だ。無機物みたいに扱うな。

 

「誰のおかげで生活できていると思っているんだ」という最低最悪の脅し文句を言ってくる輩もいるようですね。あれと同じです。

 

 

そして、不足感があった方が色々と儲けられる。

ブランド品などがその筆頭かと思われます。あんなものは金を積めばいくらでも買えます。

金を積めばいくらでも買える衣服を着て、それが自分の価値だと思っているのなら、裸体に紙幣を貼って街を出歩けばいい。その方がよっぽど羨望の眼差しを受けられるんじゃないか?

放射性廃棄物ハイブランドの衣服や、宝石をつけたところで、放射性廃棄物である事実は変わりません。

 

 

また「自分磨き」なる言葉が以前流行りましたが、問いたいです。

貴様はわざわざ磨かないと光らないのか?

 

 

 

常に完璧の自分が存在していて、そのままいるだけでハッピー。

その100%のハッピーが120%にブーストされるから、好きな服を着たり趣味に興じたりするんじゃないのか?

もしくは、最高で完璧超ハッピーな自分を継続するために自己を鍛錬し続ける。

 

 

わざわざ言うまでもありませんが、ハイブランドだろうがなんだろうが、それをしたり着たりするのが本当に最高に好きで幸せで魂が打ち震えるほどの幸福を感じることならば、好きなだけすればいいと思います。

 

 

そして「不足感を覺えさておいた方が管理しやすい理由」の最たるものなのですが、それは宗教の存在です。

 

「地上にいる者は皆不完全だ。しかし天の神はその者たちも救ってくれる」などと言っていれば、自分自身でどうとでもできることを忘れている人間は、その神に縋る。

その神に縋るし、その神へ仕える存在にも縋る。

 

その結果、神なんたる者を待ち続けて信じ続けて一生を終える。

後には何も残らない。残るとしたら無念感とかでしょうか。

 

その行為が好きで歓びを感じるのならば何も文句はありませんが、わたしはアホでしかないと思います。

 

 

貴様の身一つで何だって生み出せる

これまで「モテたい」というFuckn'なクソカルトへの浅はかさやバカらしさ、またその幼稚性への指摘をしてきました。

 

ですが、正直飽きてもいます。

この程度のことは、理解する人は誰から言われなくても勝手に知りますし、理解できない人は言われたところで全くちんぷんかんだからです。

 

まぁ元々が前々から思っていたことへ対しての愚痴を吐き出したかっただけなのでいいんですけどね。

 

 

何度も書いていますが、今一度言って起きます。

自分を救えるのは自分だけで、我が身一つでどうとでもできます。

 

そして愛というのは自分一人で生み出せます。そして、その愛を他者へ与えている限り新しい愛が湧いてきます。

ですが、自分の愛を他者へ与えようとせず、独り占めしようとすれば、すぐさまその愛は枯渇します。

 

 

 

 

 

結局、わたしは「自分でなんでもできるということを忘れて、我が身一つで武功を立てることをさぼっている輩」が嫌いなだけかもしれない。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )