本日もご訪問ありがとうございます。
年が明けましたね。
2023年です。
年が明けた、なんて言っても、カレンダーなんてものは人間が勝手に作ったものなので、いつもの生活とはなんら変わりないわけです。
ということで、氣張らず氣負わず頑張らず、それぞれのペースと時間軸で生活すりゃあいいです。
わたしはそう生きますよ。今年も。
そんな殊勝でわかってんだかわかってないんだかみたいなことを言っている者でも、お正月は感じます。
おせちも食べます。正月太りも覺悟の上で酔狂な数日を過ごします。
われは腐っても細胞が巡っても、肉体があると思っているぼんくらな人類ですからね。
元日、起きておせちを頂きながらおせちのカタログを見ていたのですが、そちらではいわゆるお煮しめのことを『煮多喜』的な言葉で表現していました(『煮る』と『炊く』がほぼ同義であることは承知です。責めないで)。
うろ覺えですが、『炊き』を『多喜』と言い換えていたのは覺えています。
「多い喜び」です。
おせちの具材にはそれぞれ意味が込められているそうです。
そういえば日本という國は、年越し蕎麦にも意味をつける宗教性です。
その意味づけがどうとか、阿呆らしいとか、意味ないとかいう話ではないですよ。
その『多喜』という表現を見た、その一瞬間は、少々鼻白んだ考えが浮かんだのですが、その時に考え直しました。
お煮しめに使われるのは、里芋や人参、椎茸、鶏肉、筍、こんにゃくなどでしょう。
その食材がちゃんと収穫できたこと、調理をできたこと、それを食べること、一年という区切りですが、大事に至らずに日々を過ごせたこと、『美味しい』を感じられて感じられること。
それらって、全て『喜び』なのではないでしょうか。
そんな喜びを多く感じたり、そんな喜びが多くあること。
それは平易な言葉になりますが、幸せなことであると思います。
つまり、人生みたいなものを送れるこということは、実は、喜びの多いことなのだろうな、ということです。
それを実感?するまでには(本当の実感はまだなのでしょうけれど)、ちと時間がかかりすぎていると思いますけどね。
全く好い人生だと思います。
大晦日にたこ飯を作ったのですが、それも多幸飯ですね( ¨̮ )
しかし、年をとると煮物とかの美味しさがとても実感できますね。
生きるってのは、まぁ悪いものでもないのでしょう。
と、いうことで、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
この年末年始ですっかりハマった曲です。
#アチョイ