本日もご訪問ありがとうございます。
悩んでいます、わたしは、今。
ギターを嗜むのですがわたしは、日々ギターを弾いていると発見することがあります。
ギターを弾きだして十八年とか経過するのですが、スライドという奏法がございまして、それのコツ?みたいなものを摑んだような氣配が先日ありました。
スライド奏法とは言葉のまま、発音しながら目指した場所へ指を滑らせて音程を変える奏法です。
樂器からなにから実は脱力が大事だったりいたしますが、指を滑らせる時は脱力し目指す場所に来た時だけ「くっ」と力を入れる、そうするとスライド奏法というのはうまく行くような?氣が?する?と感じました。
この『 "着地時だけ力を入れる" のがコツ?』と感じたときに格闘技とかを思い出したんですね。
格闘技の打撃では相手の体に触れた時に力を入れるだとかって言いますし。
たまたまわたしの専門外である格闘技と合う部分がありましたが(そもそも全ては根っこで通ずるところがあるけど)、わたしの悩みはここに関係しています。
人間は自分の知り得ることでしか世界を感知できないのか。
わたしは物を知りません。
なのでもっとものを知りたい。
それと同時に『知らないものを通した見方』というものも身につけたいと思っています。
悩んでいること、それは『自分の知り得ることで世界を觀、そしてその視点を尖らせる』のが良いのか、それとも『自分の知らないもので世界を觀る』方が良いのか。
前述の通りわたしはただ今後者をしたいと考えていますが、それはつまり世の學校たちが行なっている苦手の克服や平均化なのか?と感じます。
であればこのままのわたしで視点を尖らせる方が "強みを伸ばす" に準ずることになります。
わたしが平均化を恐れる理由は、平均化によってどっちつかずになるという恐怖があるからです。
どうするがよいのだろうか。
が、別の考え方もできます。
世の悪どい學校教育が行なっている平均化はそれぞれのその人が苦手なことをさせる、ということです。
それに対してわたしが悩んでいることは、ある種両方ともわたしが望んでいることであるわけです。
ならば悪どい平均化とは全く違うのではないか?
わたしが勝手に恐れているだけ。
自分の無意識が変化を恐れて、このままでいようとさせているだけ。
その可能性もあります。
もしかしたら?そもそもわたしが知らない世界を感知したところで、わたしが觀る世界自体は変わらないのか?
新たな見地が増えるだけで、わたし自身の意思形成には何ら問題なんてないのかもしれない。
わたしは関係のないもの同士から関係性を見つけることが得意なのかしら?と考えていたりするのですが、その得意を伸ばすためにも知らない世界を知りたいと無意識が望んでいるのかもしれません。
膨張・収縮
「他人には譲渡しないでください」って注意書きがあるじゃないですか。
先日わたしは労働先のセキュリティ・card・キーで見ました。
最近、言葉ってのは膨張したり収縮したりしてると思ってるんですよね。
【他人】という言葉も色々な捉え方ができるじゃないですか。
- 自分以外の人を他人と見做すもの
- 友人・家族・恋人など自分と関係する人以外を他人と見做すもの
- 自分が所属する組織に関係しない人を他人と見做すもの
「そもそも地球で存在してる時点でみんな家 -Family- 族じゃん??」という愛の規模が大きい方もいらっしゃる場合もあるでしょう。
そういったことから、言葉ってのは見地や状況によって大きさが変わるのだなと思いました。
それと同時に、膨張したり収縮したりするために昔は〈音〉であった【言葉】にある意味物質的な《文字》という側面が付与されたのかなと考えます。
不要な膨張を防ぐためでもあり、ひとつの見地にだけで意識を固めるためです。
ありがとうございました( ¨̮ )