頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

〜がいい、が、いいな。

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日、便利かつ好都合な性質を持つ小型商店に足を運びました。

その時のお話しです。

 

 

 

事の起こり

恐らくほとんど糖分の中毒的な状態になっているわたくし。

商店内を虚々としていました(『空虚』って書いても「うろうろ」と読めるんですね)。

その理由とは、もうひと押しの糖分を探してです。

 

 

そんな時にあるチョコレート菓子が目に付きまして、「あ」と手を伸ばしました。

 

「あ、これでいいや」

 

その時に脳に兆した言葉があります。

 

『今、"これでいい" って思った?』

 

そう思った時、伸ばしていた手をはたと止め引っ込めます(あるいは手に取ったお菓子を陳列棚へ戻しました)。

 

「 "これでいい" ってなんだよ」

わたしは考えます。

〈これでいい〉という感覺には、我慢に似たような空氣を感じます。

 

〈これでいい〉と《これがいい》とは似た言葉のように感じますが、全く異なる、むしろ真逆とすら思える趣を有しているように、わたしは感じます。

 

この感覺を言語化するならば【受動的】か【能動的】かというところでしょうか。

言わずもがなですが〈これでいい〉は【受動的】で《これがいい》は【能動的】です。

 

 

おそうめん

少し前にインターネッ卜で夫婦間の諍い?愚痴が取り沙汰されました。

詳細は以下です。

女性と思しき調理者が旦那と思われる方へ献立の希望を聞く。

すると「そうめんでいいよ」と返答があったが、『そうめん "で" いい』とはなんだ。『そうめん "が" いい』と言えよ。との不満。

 

その不満が指すところもわからなくはないです。

きっとその場において〈旦那と思われる方〉は調理をしないでしょうから、調理の負担は女性と思しき側に全てが乗っかります。

そしておそうめんの茹で方一つにもこだわりがあるも、自分では何も手伝わないというご家庭もございますでしょうし、各家庭の懐事情や生活水準によっては錦糸卵を作ったりその他具材を拵えたりという手間も乗っかる場合もある。

 

それにこれが一番重要かと思いますが、煮えたぎったお鍋は重いし熱い。つまり危ない。

そういった手間や危険性を考慮せずに「そうめんでいいよ」と一切調理をしない側から言われた際には不満が噴出するのも、さもありなんかと存じます。

 

(憤)

 

 

おそうめん食べたくなりますね。

もう秋だってのに。

 

 

「こういうのでいいんだよ」

そういえば思い出す言葉があります。

写真系SNSの隆盛によって、さまざまな華美や過美が持て囃されたのがきっと2014,5年くらい。

それの反動や揺り戻しにより、恐らく『孤独のグルメ』のドラマに端を発したのだと思いますが「こういうのでいいんだよ」という言葉が一般的になりました。

 

今では少し下火になりましたが、ということは定着したとも解釈できます。

その通り、今では割と猫も杓子も「こういうのでいいんだよ」という言い回しを用いているように感じます。

 

ところで、この「こういうのでいいんだよ」という言い回しは〈新しい言葉〉だと感じますが、〈新しい言葉〉にはただの流行だとは思わない天邪鬼なわたくし。


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単純に "流行っていたから" という大変に短絡的な理由もありますが、あまり積極的に使おうという氣にはなりませんでした。

 

些細ながらしっかりとした(お魚さんの小骨のような)引っ掛かりを感じていたからでもあります。

 

さてはて。

その引っ掛かりをこのたび捕まえた氣がいたします。

『こういうのでいいんだよ』って、どこか、我慢をさせられているような感覺があるんですよね。

明らかな諦めがある、というか。妥協というか。

 

本当は「こういうのがいい」というのがあって望んでいるのだけれど、それが叶わないから『こういうのでいいんだよ』と言っていて、それは半ば自分に言い聞かせている言葉のような。

 

妥協と諦觀の觀念が確実としてあり、実状にも觀念してしまっているような。

 

何も「過美な下卑た食事をしましょうよ」というつまりは毛頭ございませんが、したくても出来ず、そして『こういうのでいいんだよ』と自らに言い聞かせているのは由々しきことだとは思います。

今からいう言葉はさすがに考えすぎや妄想だとは思いますが、そのような妥協と諦觀と觀念の觀念が混じった(ように感じる)言い回しが流行ったというのは、何か無意識的な意識の意図‪がその奥にあるように感じたりもしたりします。

 

やはり流行り言葉はあまり使うべきではない。

 

 

自己肯定感を上げたところで自己肯定ができるとは限らない

他に、これまた出現してから久しい言い回しですが『自己肯定感』というものがあります。

わたくし最近思いましたが、自己肯定感を上げたところで自己肯定ができるわけではないようです。

 

そもそも『〜感』ってなんなんだ。

〜な感じ?〜な感覺?

 

ゆったり感とか?

衣服とかに用いられる言葉で〈余裕〉と似た意味合いですが「ゆったり感がある」という発言って、衣服を着ている本人は口にしないんじゃないか?と思いました。

その衣服に余裕があり、ゆったりとしているのならば「この服ゆったりしてて良いんだよ」と口にするはずではないでしょうか。

 

と、いうことは『〜感』は他者評価であるという仮説が発生いたします。

その仮説を考慮すると『自己肯定感』は自分以外の他者からかけられる言葉だということとなります。

確かに「自己肯定感高いね」「自己肯定感高そう」という発言は、話者からみての他人へ向けられたもののような氣もしてきます。

 

そういったことを考えれば『自己肯定感を上げたところで果たして自己肯定をできるわけではない』という発見は、さもありなん、至極当然なことであるとも思えます。

なぜって「自分自身のことを他所様かのように認識しているから」ですね。

 

こちらについても『自分自身のことを自分のことではないように捉えさせる』という闇の意図があるように感じ(妄想)、"自分自身を他者のように生きる" ことで現実感が薄れ、浮世を憂き世として生きる亡者の出来上がりということなのではないか?とのお妄想の出来上がりです。

身体性と自己の実存を取り戻せ。

 

 

受容をすると、そもそも否定の必要がなくなる。みたいで。

そんなことを考えていましたら、「似たような意味だけど性質が全く異なる言葉ってあるよなぁ」なんて思いました。

 

【自己肯定】と【自己受容】です。

わたしは思うのですが、【自己肯定】よりも【自己受容】の方が重要じゃないですかね?

 

【肯定】と【受容】の言語的意味合いの違いは以下でございます。

肯定・・・価値があると判断すること

受容・・・受け入れ取り込むこと

 

【肯定】には積極的に "それ" に価値があるように振る舞う?というか、ある種のお節介さや上から目線をわたし個人はどうしても感じます。

ですが、別に他人から肯定されるために生きてるわけじゃないわけじゃないですか。我々なんて。

自分が生きたいから生きるわけでございまして。

高明であられる他人様に肯定されたことで「自分は生きていていいんだ!」なんて、わたしは思ったりしないんですよ。

偉そうに人の価値を決めるんじゃなくてよ、ご自宅にお引き取りなさって?という感じです。

 

一方【受容】は『受け入れる』という意味ですが、その意味だけを考えたらばこちらも「高明であられる他人様に受け入れられなくても、こちとら生きてーから生きるんす。」と思ったりするでしょう。

ですが、【自己受容】というつまり "自分を受け入れる" ことに付きましては様相が変わるような印象がございます。

【自己受容】というのは謂わば「在るままにこれが酔世の境地」ということです。

仕方がない部分については『仕方ないじゃん』と受け止める姿勢が【自己受容】です。

わたくしごとになりますが、やっぱりわたしには発達障害と分類分けさせられるような特性があると感じます。

が、それがあって自分ですし、自分が自分を受け止めないで何ができるんだ、とも今現時点では思う(別にそれでもなんでもできる)。

受け入れるしかないんですよ。これは諦觀かも知れないし開き直りかもしれない。

知らない。わからない。

 

で、最近思ったのですが徹底的に自己受容をすると、他者受容へくるりと変換するようです(陰極まって陽と成すみたいな?)

というよりも他者様のことは受容もしていないし、もっと正確に表現すれば『わざわざ否定する必要がない』ということになります。

 

「まずそもそも自分にも至らない部分があるんだから、人様がどうだかとか言えた分際じゃあねぇ〜ですわね。わざわざ人様を判断するとかできた義理じゃねえです」

もし、何か否定したい感情が起こったのだとしたら、否定したいものごとがその人自身にもあり、否定したい人自身がそれを認めたくないのだろうと推察します。

 

ということは何かにつけて否定や批判をしがちな方は、欠点だと判断されがちな部分も含めた自己受容ができていないという推察ができますが、たしかにそういった雰囲氣を感じられるような氣がいたします。ぴりぴりとしている、ような。

と、このようなことを発言している以上はわたしもまだまだなのでしょうね。

 

【肯定】【受容】と両者とも似た意味を持った言葉ですが、対義語は【否定】です。

 

他者否定。

その意味合いは〈自分以外の他所様を否定すること〉となりますが、相手を否定するということは自分が否定されることも同時に受け入れることになります。

この理論は『なぜ人を殺めてはいけないのか』という問いに対しての一つの答えでもありますが、わたしには否定される覺悟も殺められる覺悟もないので、否定も何もしません。あくまでも意識しては。

でもまあ知らないうちにしていたりするのでしょうけど。殺めたりはしていません。

 

 

ところで【自己受容】を突き詰めると【他者受容】へ転換するのは面白い発見でした。

「あなたはそう思われるのね」という否定も肯定もしない、いうならば神や仏的な意識に近しいような。

わたし自身はどちらかというと「え!ッ??!わたし自分自身の受容に忙しいので構ってられない!どうぞお好きに!」という想いが多いように思います。

 

【自己受容】を続けて、左右されない精神と左右しない謙虚さを身につけたいものですね。

ちなみに『自分はこう思います』とよくわたし言いますが、これは否定なのでしょうか。

否定と取られてしまったら否定になるんだろうな。

しーらね。

 

あと自己肯定ってある種の自己染脳的な趣もあると思う。

受容ができてないから肯定する必要が出てくるんじゃない?とかも思いますが、どうなのでしょうかね。

 

 

あと『樂と樂しいは同じ字だけど決して同じ意味ではない』ということもこの間に思いました。

最近ベーコンエピの美味しさを知りました。

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬