頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

「それはそれで幸せで不幸せ」かもしれない。分からないけれど。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は雑記シリージです。

日々の生活で感じたこと達の雑記。

 

 

わざわざ進んで自分の知らない分野を知ろうとする人は《もの好き》にすら分類される。

ある程度歳をとった状態で、わざわざ進んで自分の知らない分野を知ろうとする人は、少ない。

むしろ《もの好き》にすら分類される。

ほとんどの人は自分自身が思春期であったり、黄金期と思っている時代のものに懐古したり再生することに終始する(らしい)。

 

その結果が「近頃の若い者は」と「やっぱりこれでしょ」である(たぶん)。

 

知らないものを識ることこそ愉しいのに。

 

 

あと『知らない分野を知ろうとしない方々』って、わたしの肌感覺的に「知らないものなどに対して侮ってかかる()」というか「自分は圧倒的に判定する側である」という無意識があるように感じる(侮ってかかるというのはダニング=クルーガー効果的に仕方の無いことなのかもしれない)。

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無自覺な上から目線というか、「我は評価をする側である」という意識が強くあるというか、消費者感覺がとても逞しいというか。

 

 

今ふと思ったのですがそれってもしかしたら全能感が関係しているのかもしれません。

 

テレビジョンというものが大衆に向け導入されて久しく、またインターネットという技術がインフラ化して久しいですが『テレビジョン』と『インターネット』というこの二つは "自分で足を運ばずとも情報を得ることができる" じゃないですか。

こういった構造が消費者たちの逞しい《全能感》を生んだりしているのではないでしょうか。

 

先日高野山に行ったのですが、テレビジョンやインターネットの映像では現地までの車窓の景色や山の匂いってものは感じることができません。

そして現地にて般若湯というとても美味しい日本酒を購入させていただきましたが、購入する際にお店の方とした会話、それ自体を行うこともできません。

わたしは結構 "揺らぎ" というものを重視していて、根幹さえ押さえていればあとは現地でよしなに。。。との意識で移動しています。

なので「とりあえず高野山行ってみよ」で行動の工程を固定したりはしません(何があるかとかは調べはする)。

 

わたしは圧倒的典型的に「現地で体験しないと意味ねえじゃん」と考えている類の人間みたいです。

もしかしたら、わたしは根幹の周りについたぽわぽわした肉みたいなのが好きで愉しみたいのかも。

あるいは根幹という骨に自身で肉を付けていく作業が好きなのかも。

 

来月は出雲と石見銀山に行ってきまーす✌️

めっちゃ觀光めっちゃ現地のお酒がの呑みたい呑む✌️

 

 

わたしは齢ハーフ還暦をちょっぴり過ぎた程度の若造ですが、切り取られた情報で全能感を得て知った顔をしているのって、ちょっと滑稽だなと思います。

戰爭映画を見て戰爭を従事した方に説法を説くみたいな感じでしょうか(とか言っててわたしは過去にチェルノブイリのドラマを觀て感想の記事を書いている)。

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しかし全てを知ることなんて途方も無いし到底できるわけもないことですので、どこかで折り合いをつけることも必要です。

ということで「ものごとの表面だけを見る」というか「見えた部分だけで解釈し判断する」というのは、ある意味で効率的な処世術なのかも。だとかとも思います。

 

「でもこんなこと言ってるわたし自身も十分に評価をしてるよな」とも思います。

どうぞ滑稽がってください。

 

 

昨今の都市伝説は "都市伝説然" としていない

わたし、昔から都市伝説やオカルトの類が好きです。

奇跡体験!アンビリバボー』のオカルト特集回とかよく觀ていたなと覺えています。

 

都市伝説の類は今も好きなので追ってはいるのですが、なんだか最近の "都市伝説" や "陰謀論" は「ある業界では常識的や当然のもの」を『都市伝説』として包んでいるだけに思えます。

 

昔の都市伝説って人面犬だとか口裂け女とかthis manとかだったと思うのですが、今の都市伝説って昔とは毛色が違うというか別のきな臭さを感じるんですよね。

 

都市伝説って今も昔も「それって都市伝説でしょ?笑」みたいに若干軽んじられる対象であって、個人的にその立ち位置は別に良いというか、正直かくあるべきとすらも思ったりする(ほとんど趣味と一緒で「自分の知らない趣味もあっていいよねー」という姿勢)。

 

ですがなんというか最近の都市伝説というものは、受け手側(否定派)の見識の浅さというか度量のなさで判断されているように思えてなりません。

「そんなのは都市伝説だ陰謀論だ!そう思う根拠は自分が信じられないから!!」といったような雰囲氣を感じます。

『遊びがない』ということですね。


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そのような【遊び】がないので、ニッチな職種や業界の常識を "常識" として話しても聞きいれない。

だから都市伝説という広告で包む必要がある、そんな背景もあったりしたりするのかも、なーんて思ったり思わなかったりしたりしなかったりします( ¨̮ )

 

 

オカルトは確かに知的エンターテイメント的な側面があると思っていて、色々な新説だったり新しい解釈に対して「それいーね!面白い解釈!だとしたらさ…」と面白がれることがとても重要であるとも感じています(口裂け女の噂についても『日本人にとって噂はどれくらいの速さで広まるかを調べるためにFBIが流した』という説や『当時塾ブームで塾に生きたがる子どもを行かせたくない親が広めた』など色々な説があって、両方とも面白みを感じます)。

floodinhead.hatenablog.com

 

そういう『面白がれるか否か』の部分って度量とか器ってものが重要になりますし、やっぱり面白がるためには余裕が必要で、余裕ってものは "遊び" です(あっ、つまり頭が硬い…?)。

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これって前述した全能感が関係しているのかしら。

 

 

 

あとなんだかオカルトとスピリチュアルを混合している方もいらっしゃいますが、個人的には解せない。けれど、これも個人の自由です。

 

わたしは世界を螺旋で捉えている頭の狂った人間ですが、そのうち物理學とかで螺旋が注目されるのだろうと思うし、それが「陰謀論だ!オカルトだ!」と糾弾されるのだろうし、その後に『螺旋と世界は密接に繋がっている』と証明されるのでしょう。

多分その頃わたしは生きていないと思う。

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本当に今思ったこと ~時間差があるので本当に "今、思ったこと" かどうかは怪しい~

お花見であったりビアガーデンであったり、もしかして人間は飲酒に罪悪感を持っている?

だからなんでも免罪符をつけようとしている?

 

バーゲンだから買い物をしよう。

花見だから幸樂して酒を呑もう。

夏だからビールを呑もう。

 

この罪悪感的な価値觀ってキリスト教的価値觀なのだろうか?

 

 

あ〜〜〜〜〜〜?もしかして罪悪感って支配構造に使える?

そりゃあそうだ。「赦されたいなら〇〇をしなさい。さすればあなたは神に赦され救われます」ができるんだから。

 

そして昨今では「背徳」などと謳って罪悪感を煽るような謳い文句で様々な広告が打たれています。

そうか、罪の意識を植えつければ儲かるんだ。

 

罪悪感ってつまりは『ありのままの自分の否定』ってことなんですかね。

 

 

それはそれで幸せで不幸せ

わたしは伊坂幸太郎さんの作品を発表順に読み返しています現在。

今は『終末のフール』です。

 

こちらの作品は「地球に数年後に隕石が落下して人類の滅亡が確定した状態で、人々はどのように暮らすのか」というような内容の短編集です。

 

全八編あるうち最初の三編を読んだ段階なのですが、現時点では「自分を受け入れて生きましょーね」みたいな印象が強いです。

あと伊坂作品お得意のトリックみたいなのも鳴りを潜めている感じもしますね。

 

伊坂さん自身「ひとつくらい嘘があってもいいんじゃん?」という姿勢?で作品を執筆されているらしく、その〈嘘〉が伊坂作品特有の "伊坂らしさ" を演出しているように感じますが『隕石衝突』という、まぁ現実でそうそう起こりそうもないことを前提にしているから日常的な内容のお話が多いのかしら?と思います。

 

そんなお話を読んでいたら「ふらふらするのでもなく日々に寄り添って粛々と生きるのでも幸せではあるのかもしれない」と思いました。

『まあこういうゴールもあり』ってことです。


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確かにそれは幸せの一つとしてあるのだろうと思いますが、やっぱりそれは不幸せな一面も内包しているとも感じます。

 

やっぱりわたしはやりたいことがある。

曲も作りたいし絵も描きたい。本とかも出しちゃいたい。

 

そのようなふらふらした生き方をする以上は、粛々と日々に寄り添って生きるという生き方はできないのだろうと勝手に解釈をしておりますが、どちらかの生き方を優先するともう一方の生き方はできない。

一方の幸せを得るなら、もう一方の幸せは得ることができないのだろうな。と思います。

が、そうやって二極的な思考である以上は無理という話かもしれないし、別に一方を得た後にもう一方を得ることも可能かもしれない。

 

ちなみに以前にも上記したようなことを書いていました。

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成長していないね〜〜。

 

 

どうやら人間というものの多くは受け売りばかりを話している。そして「自分は今受け売りを話している」と自覺のない方が多いらしい。知らんけど

「〜〜かもしれない」や「わからないけれど〜〜じゃないか」という言い方があるじゃないですか。

こちらはどちらも曖昧さが演出されますが、どちらの方が曖昧具合は高いのでしょうね?

 

現代人はどうにも曖昧さを嫌うようです。

「揺らぎを大事にしている」と上記したとおり、わたしはむしろ曖昧さを大切にしています(曖昧さを嫌うくせに「やばい」という曖昧な言葉を多用するし、曖昧さを大切にするくせに「やばい」という言葉を嫌っている。this is 曖昧。AIMAI IN MY HEAD)。

曖昧さというか、言い切っているものに対して警戒をしているという感じ? 

 

 

 

 

ところでどうやら人間という生き物は、わたしが思っている以上に「受け売りを話している(自分では考えていない内容・言葉を話している)」ようで「 "今、自分は受け売りを話している" という自覺すらもない人」の方がほとんどみたいです。

わたしにはそう見えました。

 

「今話しているそれって自分で考えたことで自分の言葉なの?」という疑いです。

 

ちなみにわたしは受け売りだと自覺しているときは「これは誰それが話していたのだけど」と断りを入れるように心がけています。

人様の受け売りを自分が考えたことのように話して鼻を高くしているのは、わたしにはダサく見えてしまうためです。

なので「 "自分は今受け売りを話している" という自覺していない」場合は大いにあります。

滑稽ですね( ¨̮ )

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )