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坐・酒場
わたしは昨日お酒を飲んできました。

高校時代から知り合いの、最近では八十八ヶ所巡礼さんのLIVEにも共に行くほとんど飲み友達然としている友人です。
その友人が会社の同僚さんから聞いた酒場の料理が美味しいらしいのでどうだと誘われ、ソイホイついって行った次第。それがことの顛末です。

🌾ちなみに今回の内容は超雑記です。
その酒場ではテレビモニターでスポーツが流れていたのでそれも肴にJOVE JOVEと五臓六腑へ原酒掛け流しをしたりして、それはそれは樂しい回でしたとさ。
酒を呑んだ時と音樂を聴いた時に反応する脳領域が同じだといわれます。
この内容については十年近く前から存じておりましたが、摂取する飲料と音という波動、成分が違いますのでその謎は依然としてありました。
「へあー、そえなんだ」的な意識。
その謎なぞの泡bubbleが弾けたか、解消したのは酒呑みの嗜みであるNewton別冊の酒回を読んだ時です。
なんでも酒はアルコールによる身体的作用の他に、〈同じ場を共有する〉という行為における心理的作用もあるそうです。
にんげん〈同じ場を共有する〉という行為や行動をすると親近感を抱きやすいのだそうですが、『酒を酌み交わす』という行為と『音樂を聴く』という行為がにんげんにおける同調性をあげるのだそうです。
考えてみると「同じ釜の飯を食うと仲良くなる」なんて言いますが、それも〈同じ場を共有する〉という行為を行なっているからなのでしょう。
となるとスポーツ觀戰をしながらビールを呑むというのも同じということですね。
知らないことを知ると「あ!あれもか!」というひらめきがあるので良いです。
その昔、宗教儀式で酒が用いられていたそうですが、それも同じ文脈でしょう。
もちろん酩酊状態になることで贄などの恐怖心を曖昧にさせるという理由もあると思います。
そのあとはラーメンとチャーハンを頂き、満腹すぎてぐぇぐぇ言いながら街を徘徊し、アイスを食して解散しました。
🌾サシ飲み
ロボットゲート
全然終電はありましたが、何せ食べ過ぎ。
そして歩くのも好きなので徒歩にて帰路につきました。
普段わたしは世界と自己とを隔絶をするためにイヤンフォフォをつけて歩いています。
ですがこの日はなんとなくイヤフォンフォをつけず帰路を歩きました。
酒を飲んだあとは結構そういうことがあります。
夜半の徘徊。
別名深夜のおさんぽ。
〜たのしい〜
別に逍遥(しょうよう。あてもなくぶらぶら歩くこと)をしているわけではないですが、それでも夜半の徘徊は二割り増しで面白く感じます。
そんなとき『ロボットゲート』という文字を見かけました。
「ロボットゲート?」
と不思議がって見ると、その実態がわかります。
左右の支柱間に鎖がつながっており、その鎖が上下することで車が出入りできるというものがあるじゃないですか。
ロボットゲートとはそれでした。
「それってそんな名前だったの?!」と思わず驚きました。
そしてもう一つ驚いたのは『ロボットゲート』の文字が書いているところは何度も通ったことがあったことです。
「案外見えてないものだね〜」と思いましたが、それよりも感じたのはイヤホンをしていなかったからだな。というところです。
大変有り難いことにわたしは目が見えます。
なので視界を元に行動をするのですが、常にイヤホンをつけていると脳みその感知領域が割かれるんだな。
冷静に考えればごくごく当然ではありますが、いざ体験しないと認識できませんでした。
良いことを知りましたね。
五感全てで体験したいなら、たとえ一つであっても閉じてはいけない。
またひとつ賢くなりました( ¨̮ )
自己染脳
以前わたしは『見たものをそのまま受け取れられなくなっている。勝手に脳みそが違う言葉をつけている』ということに危機感を感じました。
ですがつい今朝に思いました。
「悪い言葉や悪くなるんじゃなければ別にいんじゃない?というよりも使いようによっては化けんじゃね???」
そりゃあ被害妄想的に変容してしまうのは良くありませんが、『〜〜が良い』というのに対して『〜〜がとても良い』と思うくらいなら別に誰かに迷惑をかけるわけでもないので別に問題ないよね、と思います。
しかもこの世は『自分が世界をどう見るか』にかかっていますし、正直それでしかないと言っても過言ではありません。
昔から「自己洗脳、して幸せになっちゃおうぜっ!」との主張を耳にしていますが、良い意識になるために言葉を付け足すのは悪いじゃなくむしろ良く、その改変は自己染脳になって自分の人生も好転していくかもしれない。
「それ、いいと思う!」じゃなくて「それ、とてもいいと思う!」と感じ取るくらいだったら自分の氣分がよくなる程度だししていいじゃん。
もちろん改変しているという自覺はしながら。
別にいいじゃん。
迷惑とかかけてなければ。
また見る人を選ぶ作品を…
帰宅。
満腹のため數十分の苦しみを越え、『光が死んだ夏』の第二話を觀る。
作品のサイトで読んだ部分とちょっとその先の内容でした。
構成が原作とアニメとで若干入れ替えているんですね。
好きな映像表現は「登場人物が感情表現をしている場面の次のカットで周りの人間は全然ノってない。だから当事者の周りだけ感情表現されている」ところです。これ伝わんねえなたぶん。
二話でいうと「こわいこわいこわい」の部分です。
しかし『タレにつけた生の鶏肉』と表現された場面は凄まじかった。しわたし自身もすごい顔をしていた。
ここ数年でしてなかった顔だった(多分『不安の種』を読んだとき以来の顔だったと思う。あるいは三好一平さんや夜馬裕さんの怪談を聴いたとき)。
ともすれば吐きそうだった。
もしかしたら満腹だったら吐いてた。
あと『く』がふっつーにちょー怖い。
比喩表現としてすごいなと思ったのは『蟬が羽化をするか、しないか』の場面です。
あそこの心理描写の比喩は純粋に巧いと思いました。あれって原作でもあるのでしょうか。
おそらくあの比喩描写は主人公のよしきさんが自覺したり意識したりしていないのが、"すごい" と思います。
謂わば神視点の比喩なんですよね。
そんな〈蟬の羽化〉という比喩はある主婦の方から声をかけられることに関係しているのですが、主婦の方に話しかけられたとき、よしきさんの目に星が生まれております。
ヒカルさんがいなくなったからか家庭環境が関係しているのか、それは不明なのですが主人公のよしきさんの目は初登場時から死んでいます。
隈もすごい。
"目が死んでいる" ことは目の中に星を書かないことで表現することができます。
そんな目が死んでいる高校生の目に星が生まれる。
〈蝉の羽化〉と相まって巧い表現だなと感じます。
この表現を今したことで、今後、似た感情が表す際に類似の別表現もできるようになります。
果たして表現はされるのでしょうか。
たのしみですね。
そしてそういった諸々のことを考慮して、こう思います。
「これは…觀る人を選ぶなあ 苦笑」
ぜひ。
次は『広告は広告の顔をしている』という内容を書こうと思います。
ありがとうございました( ¨̮ )

