本日もご訪問ありがとうございます。
わたくしは先日三十二歳になりました。
年齢とかはそこまで関係しないとも思いますが、三十余年も生きていれば自分の考え方というのは自然固まってきます。
皆さまは『常識は二十歳までに身につけた偏見だ』という言葉を聞いたことがございますでしょうか。
アルベルト・アインシュタイン氏が発言したらしい言葉ですが、実際はどうかわかりません(目の前で聞いたわけでもないしその当時生きていたわけでもないし)。
「常識は二十歳までに身につけた偏見」
なかなか鋭い視点だと感じます。
己がそうだった、という伏線回収(笑)
ところでわたしは少年ジャンプのアンチをしております。
今現在の考え・結論でいうと「幼稚か否か」を断定している時点でわたしも同じように幼稚なのですが、最近考えも変わってきています。
ひと月ほど前に書いた酒場にて。
場にいた方々がジャンプ黄金期と言われている時代に思春期を過ごされた世代が多かったので、自然とその当時の話になりました。
わたしは少年漫画はほとんど興味がない人間だったので、聞くことに徹していました。
その際に「全員が全員わたしが好きではない少年漫画好きではない」ということを認識しました。
その人ごとは良い人だし情に厚い、ということですね。
つまりはわたし自身が世界を狭く見ていたということです。
「ひとりひとりは良い人たちだけれど、集団になると頭のない怪物だ」とのチャールズ・チャップリン氏の発言を引用すれば悲觀的に捉えること(「所詮少年漫画好きは云々〜」などなど)ができますが、それはあんまり意味がないというか、精神的な面になるので考えたって仕方がないよなと思います。
〈無知ほど断定したがる〉との内容記事をつい数日前に書きましたが、まさに自分自身がその無知だったということですね。
まったくお笑いです。
空が青くて綺麗ですね。
ちなみに例外的に『鬼滅の刃』は好きです。
わたしは「その人がどうしてそうなったのか」を描いている作品が好きなので、『ダンダダン』も好きです。
安心したい生きもの。
〈無知ほど断定したがる〉とはどうやら人間が持っている特性の一つのようですが、常識というものもこれなのか?と思ったりします。
なぜ断定をするのかと言えば、考える余地を排除して『A=B』みたいな意識固定をするためだと考えています。
そしてその断定は偏見と表現することも可能であり、その偏見は大衆化すれば常識へ変化することもある。
その常識へと変化した偏見が根っこになって世界が組み上げられていく。
この常識化という意識変化、および意識の固定は、それぞれが安心したいために起きるのではないか?と考えています。
このあいだの記事でも「人間は例外を前提にして考えたくない(疲れるから)」はずだと書きました。
よく『○○好きに悪い人間はいない』という意見がありますが、大抵の場合でそんなわけはないと思うんですよ。
ほとんどのものに良い人も悪い人もいるだろうし、良い人でも悪氣にやられることもあります。
そういったことからヒトは個人的にでも偏見を常識化するのではないか。それはつまり人々は安心したいということなのじゃあないかしら。と考えています。
一週間ほど前に『これからのわたしの人生には冷笑主義は邪魔だ』という内容を書きました。
わたしにとって無意識定着していた冷笑主義。
"無意識にあった" ということは、それはその人にとって常識です。
この常識 / 偏見ってものをぶち壊していくのが、これからの人生なのではないか?と考えました。
おそらくですが自分の中にある常識に則って生活していくのはそれで充実しているのでしょうし樂しくはあると思うのですが、常識 / 偏見をぶち壊そうと考えて生きるよりも生活を送るにおいての愉しみは少なくなると思うのです。
人間とは生物上安心したい生き物だと思いますが、わたしはその意識だと浮き浮きしない。
そのような難儀な生き物ですが、わたしは常識を疑ったりした方が向いているのでしょう。
ちなみに先日の誕生日より冷笑主義で生きないように心がけて生活しておりますが、明らかに生活が面白いです。
三十二歳はまだまだこれから道半ば
一昨日高校時代の担任教師と食事をしたのですが、その際に「三十二!まだまだなんでもできるじゃん!わたしがイギリス行ったのが三十六の時だったし」と聞いたので三十二はまだまだ若造です。
そりゃそうだ!
٩( ᐛ )و
(و ᐛ )و"
「常識は二十歳までに身につけた偏見」
その常識・偏見をばりばりと剥がして生きていくのがこれからなのだ!
ありがとうございました( ¨̮ )
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