本日もご訪問ありがとうございます。
前回記事の最後で書いたことが今回の内容です。
事の起こり 〜我知らん情報を知る。の巻〜
前回 〜飲み友達兼旧友とまた呑んだよ🌾雑記シリージ〜 を書きました。
その場で友人より聞いた情報。
数年前よりインバウンドで外國の方々が日本へ旅行にいらっしゃってるじゃないですか。
また現在日本國では万国博覧会が開催されています。
その関係でとあるサービスが初回三十分間の利用が無料になるcampaignを現在開催しているそうです。
わたしはそういったことには疎い&あまり興味がないので「へぇ〜、そんなことやってるんだ」と思いながら面白がりながら、その情報を聞きました。
広告の顔
日は跨ぎ、公共的交通的手段を利用していた時のこと。
現在読んでいる伊藤計劃さんの『ハーモニー』を広げていましたところ、目の前に広告。
ぼんやり眺めているうちに認識の焦点がだんだん合ってきました。
あぁ!
前日に友人が話していたサービスの広告でした。
わたしのブログをお読みくださっている方ならご存知かもしれませんが、わたしは広告表現が好きです。
とても興味があります。
将来的に労働へ繋げたいとすらも思ってたりします。
公共的交通的手段の壁に貼られていた広告、それがわたしの意識に飛び込んで来なかった理由。
どうしてかしら、と疑問に思っていましたらその理由がわかりました。
広告の文字が英語、広告自体もインバウンドでいらっしゃった方々に向けた構成になっていたからです。
「こんなことでお困り?そんな時はこのサービスを使ったらいいのさ!今なら初回三十分間の利用が無料!」みたいな内容が書かれていました(ちなみに日本語版の広告は色味などは同じであるものの、日本人向けの内容となっておりました。共感を重視したものというのか)。
自分に馴染みのない見た目だったから認識できなかったのか〜!と、思わず納得しました。
元々が海外からいらっしゃった方々に対してcampaignですので、それらに向けた構成にするのは至極当然でございます。
その時わたしは新しい知見を得たのです。
「広告は〈広告の顔〉をしている必要がある」
広告の根幹はデザイン
デザインと藝術には違いがあります。
これらふたつには大まかに "受け手の受け取り方" に違いがあると考えております。
デザインは発信を行う側が「こう見てほしい」「こう受け取ってほしい」という意図で作ったもの、一方で藝術はそもそも "表現したいこと" が根源にあり制作されたもの。
なので多くの場合で藝術では受け取り方は個人の自由、つまり二の次になっていると考えております。
藝術のほとんどは純粋魂の叫びですからね。
ということは広告はデザインということになります。
しばしば藝術性を取り入れた広告もありますが、往々にしてそれは制作者の自己満足であるように感じます。
しかしその自己満足も元ネタがあったりすると、同じ元ネタが好きな人には効果があったりするでしょう。
では「デザインと藝術とは対極にあるのか」と問われれば、どうやら必ずしもそうでは無いように思えます。
広告において最重要されるべきは【広告主】であり【対象となる商品】ですが、この最優先事項のデザインさえ担保されていれば藝術性を広告に編み込んでも良いと感じます。
生産地の風景と生産者の真剣な表情、商品、そして商品名。
「イーハトーヴ」という新種のお米が発売される際の広告はそれくらいシンプルで良いと思いますが、まず岩手山が最初にカット割りされタイムラプスで夜になって天の川、焚き木を背にしてひょっとこ面の男が優雅に舞い、商品名が明朝体の縦書きで表示。
恐らく広告としては攻めたものだと思います。
しかし受け手は「なんでひょっとこ?」とも「舞を踊ってる人誰だろう」や「お米の広告じゃねえだろこれ」とも思うでしょう。
実際には商品名は岩手県の作家で詩人の宮沢賢治さんから引用されたもので、岩手といえば岩手山。
天の川は『銀河鉄道の夜』を想起することができますし、ひょっとこは岩手県とも関連性がある(わたしはこの度初めて知りました)。
実は岩手という部分を強調していたんですね。
つまりこれはデザインだということです。
しかし見ようによっては藝術性も含まれています。
あるいは?あれですかね。
広告としての藝術表現はないけど、別の文脈的な藝術は合わせることができる、みたいな?
まあ広告である以上はデザインが根幹だと思いますけどね。
コピーライティングは藝術ではないもののその要素があるように思える?
いや、コピーライティングについては広告対象に対しての広告を露骨にさせない(クドくさせない)手法なので藝術ではなくてデザインか。
キャッチコピーは造形?
でも広告ってのは「こう見せたい」という意図がそもそもにある上で計画されているのだから、やっぱり『受け取られ方なんて二の次だ!好きに感じ取りやがれ!』と思っている藝術とは真逆なのかも。
《広告表現》と《広告効果》
ちなみに一口に【広告】と言っても、その中身は《広告表現》と《広告効果》とが含まれていると考えております。
つまり世に言う【広告】とは総称なわけですね。
《広告表現》は広告を広告たらしめるために行うことで「○○をするなら◆◆」「未来のために。××であれ」みたいなやつです。
フレーミングですね。
《広告効果》はその広告自体が世間に与える影響と度合いです。
"流行" や "バズってる" というのは、それだけでこの広告効果が高い情報となりますね(「流行」というのは概念となるので、付随される情報です)。
よくある炎上商法は《広告表現》は褒められるものでは無いけど《広告効果》は高い手法であるわけですね。
この《広告表現》が〈広告の顔〉となる次第なのですが、対象となる消費者が "如何に魅力的に感じる顔をしているか" がより良い広告作りには必要になるのだなと勉強になりました。
ほら、高級志向な人に高級タワーマンションを売り込む時に庶民的な要素を宣伝しても意味が無いように。
政治家の方々が庶民性を披露するのも《広告表現》であるわけですが、幾分それまでの "実績" があるために《広告効果》はあまり芳しくないようです。
そないな具合で信頼というものが《広告表現》と《広告効果》になる場合もあります。
洋服のブランドとかで『○○ by ☆☆』みたいに母体ブランドが描かれているものがありますが、これこそ "信頼が《広告表現》《広告効果》になる" の好例だと考えられます。
これは以前に書きました「余剰が少なく失敗したくないため、よく知っているものを選ぶ」という心理が由来しているのだと思われます。
よく知られた商品名を冠することで新商品の売り上げを伸ばすということもあります。
全く新しい画期的な洗剤が発明されても、出荷量は振れないでしょう。
どうやら人間は知らない超便利よりも知っている便利を取る生き物らしいからです。
そして不便感情をこちょこちょとくすぐってあげると容易に傾く。
ということは信頼性こそが一番《広告効果》が高いということなのか?
そういえば以前に「お菓子と信頼性」という内容の記事も書いていました。
我ながらよく思い出したもんだ。
なおなおなお、企業の販売戰略として既存の商品ブランドを用いずに売り出すということもありえるでしょうし、それが車内政治的な要因であることもあるでしょう。
看板もそう
〈広告の顔〉という新たな視点を得ると、街中で見かける広告たちがまた違って見えてきます。
この感覺は『広告はお花と似ている』ということに氣付いた時のものと似ているように感じます。
広告によって使われる文字フォントが違うな、だとか。
そこからシミュレーション仮説まで思索が延びていきましたが、それはまた次回に。
ちなみに広告という言葉を用いてはいますが、これは総称として使っています。
お金を発生させる、お花であるところの【広告】だけではなく、看板とかも広告の一つであると考えています。
お店の看板もそうですし注意喚起の看板もそうです。
それでは( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )