頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

広告の時代

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは星新一という小説家さんの作品が好きです。

 

星新一さんの作品は、その多くがショートショートと称される、短編よりも短く、数ページで読み切れるものです。

 

星新一さんの作品は、その多くに現代社会に対しての毒というか、非常に辛辣な皮肉が込められています。

よく『世の中を斜めに斬る』という表現がありますが、星新一さんの場合は『斜めからちくちくと刺す』と形容した方が適当かと感じます。

その刺激が結構手痛くて、苦笑いでの反応がやっとという具合ですから、側から観る読者は側から観ているから愉しめます。

とはいえ、口物は歪みに歪んでいます。

 

 

そんな星新一さんの作品群の中に『広告の時代』という作品があります。

今回はそちらより引用をさせていただきました。

 

その作品は〈人の行動一つ一つにまで広告が紐づいた近未来〉が舞台になっており、「他人のくしゃみを聞いたら、風邪藥の広告文句を無意識に口ずさむ」というように、『人の条件反射』を利用した広告方法で、街ゆく人々が皆、その広告テナントとして自己の条件反射を貸している、という世界です。

 

 

 

この間、電車に乗っておりました。

都市の電車ですので、至る所に広告が貼られております。

壁、自動ドア、窓、中吊り広告、その他諸々もろ。

 

「あぁ、広告がいっぱいだなあ」なんて呑氣なことを思っていましたが、そこで何か既視感を感じました。

それはお花です。

 

まず、お花というものがどうしてあんなに色とりどりなのか。

それは、周りが緑や茶色ばかりだからでしょう。

 

緑色の反対色は赤色ですが、赤色以外にも黄色や紫、桃色なんてもう色々な色がいろいろあります。

 

ではなぜお花に緑色がない(少ない)のか、という話になりますが、緑色だと目立たないのです。

 

お花というのは、元来性器でもあるわけですよね。

その性器で虫さんなどの花粉媒介者の注目を引いております。

そして注目を引いた結果、実が生ったり成らなかったりします。

 

結果、お花というものは何かというと、種を次の世代に繋げるための広告であるわけです。

 

 

さて、人間社会においての広告も性器であり、お花であります。もちろん。

色々と魅力的な宣伝文句で、我々を誘惑してきますね。

では、その人間社会での広告という性器が生み出す〈実〉はなにかと言いますと、それはお分かりのことかと存じますが、お金です。

 

そのお金という〈実〉が、その会社を後世へ繋げる〈種〉へと変わるわけですね。

いちいちと言わなくともお分かりのことと存じますけどね。

 

思い返せば世に溢れます広告たちは、我先にとでもいうように派手な演出になっていたり、衝撃的な手法を取っていたり、単純接触効果という姑息かつ堅実で効果的な方法を用いていたり、わざと反感を買う様な作り方をしているものさえもあります。

 

こういった「広告の時代」の中にある社会を、ジャングルに咲く色とりどりのお花たちと観るか(奇しくも現代社会はコンクリートジャングルと形容されていますね)ぬらぬらと妖しく光る性器が列挙する性風俗の歓楽街と観るか、それは各自の自由といったところです。

 

 

‪( ¨̮ )‬

 

 

所詮広告は広告でしかありませんよ‪( ¨̮ )

 

 

ご自身が思うようにご自由にお生きなさって‪( ¨̮ )‬‬

 

 

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬