もちろん一元論的に断言できるものではないのだと思うけど、宗教に頼り切れる人ってのは、そもそもの基本理念が『世界は愛だ』と思っているのではないのかしら。
もちろん一元論的に断言できるものではないのだと思うけど、宗教に頼り切れる人ってのは、そもそもの基本理念が『世界は愛だ』と思っているのではないのかしら。
本日もご訪問ありがとうございます。
今回も伊藤計劃さん著作の『虐殺器官』より着想を得た内容です。
前回書きました『肉と信仰』ですが、この着想は作中に登場する《死者の国》より得ています。
今回もそんな《死者の國》の場面を読んでいた時に、はっと思った内容より。
いや、じわっ。とかしら。
『虐殺器官』の語り手、主人公のシェパードさんは心の中に《死者の國》を持っています。
その情景?は十中八九自身の仕事によるPTSDを起因としていると思うのですが、その《死者の國》には彼の母親もおり、彼と会話をします。
そんな《死者の國》での一幕。
「知りたいんだ、ぼくは母さんを殺したのかな。ぼくが認証したとき、ぼくがイエスと言ったとき、母さんは死んだのかな。教えてよ、母さん」
「罪の話ね。
お前はよくやったわ。わたしのためにとても辛い決断をしてくれた。自分の母親の生命維持装置を止める。自分の母親を生かしている機械を止め、自分の母親を棺桶に入れる。それはとてもとても辛いことだけれど、でもあなたはそうするしかないことをしたの」
「本当に?母さん」
「いいえ。そう言ってほしかったんでしょ、お前は。本当のことなんて誰にもわからない。だって本当のわたしは死んでしまっているのだし。
あなたはこう思っているんでしょう。いつも自分は他人の命令に従っていろんな人を殺してきた。それがさらなる虐殺を止めるためだなんて言われていても、自分は銃だ、自分は政策の道具だと思うことで、自分が決めたことじゃない、そういう風に責任の重みから逃れられた。
でも自分の母親を殺したとき、それは自分自身の決断だった。『母さんは苦しがっている』『母さんは生きているのが辛い状況に置かれている』と想像はできても、ベッドの上のわたしは何も言ってくれなかった。それは自分の想像に過ぎなかった。だから医者に迫られてわたしの治療を中断するとき、自分自身の意志でそれを決めたという事実を背負わなければならなかった。国防総省や作戰司令部が決めたのではない、自分自身の殺人として背負わなければならなかった。
けれど、息子さん。わたしだけじゃなくて、いままで殺してきた将校や自称大統領だって、あなたが決めてあなたが殺したのよ。あなたはそれについて考えるのをやめてきただけ。自分がなんのために殺しているのか、真剣に考えたことなんて一度もなかったでしょ。
わたしを殺したのがあなた自身の決断なら、今まで殺してきたのもあなたの決断なのよ。そこに明確な違いはない。あなたはわたしの死にだけ罪を背負うことで、それまで殺してきた人々の死から免罪されようとしているだけよ」
わたしは信仰に対して興味があります。宗教というより『信仰』に対して。
この近現代では、多くの人間が科學を信仰するようになりましたが(ほとんど世界宗教になっているので『信仰している』という事実に氣付いている人はかなり少ないですが)、科學を信仰することになって、《神》といったものに対しての信仰が軽んじられるようになったように感じます。
「神なんて非科學的だよね」の一本槍で彼ら彼女らは活動をされています。
科學的知見や、唯物思考、それが科學を信仰することで我々が得たものでしょう。
しかし、他にも我々が得たものがあるように思います。
それが、【罪の意識】です。
宗教というものがもっと身近にあったころ、【罪の意識】があっても告解する場所などがありました。
言わば《罪を明け渡すことができる場所》があったのですね。
過去に自身が行った行動などで後悔していること、それを神職者に話して、赦されたりする。
つまり宗教というものには「個人の罪を肩代わりする役目」があったのではないのか、と考えました(キリスト教では『イエス様が人間の罪を全て肩代わりしている』と言いますが、あながち間違いではないのかも)。
よくよく言われる表現ですが、『寄りかかる場所があった』ということです。
そういった "絶対的な信頼" であるとか "寄る辺" として、宗教というものは存在していた。
ですが、この百何十年かで科學という宗教が台頭してきました(しかもその宗教は宗教を否定していたりする!)。
科學は「神は死んだ。つーか神なんて居やしねえ」と説いております。
つまり『てめえ一人で生きていけや』の価値觀であり、それはつまり『罪の意識もお前自身が処理しろ。てめえで苦しめ』の世界です。
『虐殺器官』の話に戻りますが、語り手のシェパードさんは無神論者でした。
そのシェパードさんが《死者の國》と度々出会う理由、それは無神論者であるからなのではないのか?と感じます。
《無神論者》、つまり特定の宗教を持っていないということですが、シェパードさんは無神論者であるからこそ、自身が手にかけた人への罪を背負っているし、その罪の責任を『自分に命令を下した存在』や『政府』になすりつけている。
ここまで書いてきたことが本質であるのなら、本当の無神論者は「いろんな人を殺してきたけど、全部それは自分の責任。でも、殺されたのもその人の責任だよね。お互い様〜」と言ってのけるのではないでしょうか。
だからこそ、死を超えた思念体であるシェパードさんの母親は『生命維持装置を切ったのも、命令された対象を殺したのも全てあなた自身の選択』と言っていたのではないのでしょうか(こう考えると、生者の世界ほど宗教性や信仰に溢れているのかもしれませんね。『脳が動いているか』『生命活動はしているか』『その人自身の言葉で話しているか』など、色々な觀点から生を論じることができるのだから、そりゃあ生者の方が宗教的か)。
しかし、それはできずに無自覺的に罪の意識を感じているからこそ、シェパードさんは《死者の國》に度々訪れるのでしょうし、「肉体は肉体だし、人の体も所詮はタンパク質から成る物質」と言い切ることができないのであろうと感じます。
これを書いていて思い出しましたが、少し前には『自己責任論』などという全く阿保な価値觀が吹聴されていましたね。
それもこれも、科學教に支配された世界であればさもありなんといったところでもあるのでしょうか。
思えば、ここまで『無神論者だ、どうだ』と書いてきたことはなかったですね。
以上、この記事で書いたことをまとめると、
・宗教を盲目的に信じることはなくなったので賢くはなった。
・しかし宗教を否定したことで自身の罪は自分自身で背負う羽目になった。
・宗教を信じていれば氣にすることもなかったことを氣にするようになってしまった。
・寄る辺のない人間が増え、結局は信仰の宗教に頼るようになった。
・科學は宗教性を多分に帯びているのに、ほとんどの人が氣付かない。
ですね。
これでは物質主義的な現実主義になったのがよかったのか、悪かったのか、という感じですね‾\_(ツ)_/‾
とはいえ、結局世界ってのは流行り廃りで周るものなのだと思いますので、科學教の流行りもいずれは廃れるんでしょう。
人の信仰というのは面白いですね。
以前にも書いたと思いますが、わたしは宗教に対しては否定的な感情を持っております。
というのも、宗教は自由等もお膳立てされて提示されていると感じるためで、わたしが病的に愉しんで行っている《思考》が否定されるのでは?と思っているためであり、宗教に凭れきっているとその『凭れているもの』がなくなったときにどうするの?新しい宗教に搾取されるのかい?と思っているためです。
まぁ【自由】も《制限がある》からこそ際立つという側面もありますしね、実際のところ。
拘束衣を着せされた方が自由を感じる方もいるのかもしれないし。
そして、わたし自身はアニミズム信仰があったり、祈りの感情はあるので、宗教自体はあるのでしょう。
しかし、宗教というのも一長一短ですね〜( ´・◡・`)
人間社会というのは、まったくどうしてこうも面倒なのだか‾\_(ツ)_/‾
とはいえ、こういった人間の臭いが強くある信仰などの話ほど面白いと感じるのは、それもまたいとおかしと感じます。
ヒトは阿保だね‾\_(ツ)_/‾
ありがとうございました‾\_(ツ)_/‾
ちなみに、これから数回は『虐殺器官』から着想を得た内容が続くと思われます。
どこぞの論者が言ったことに影響されて「そうそう」と首肯していたところで、あなた方自身で調べて、考えて、結果を見ないと同じ穴の貉ですよ。
論者の意見を鵜呑みにして受け売りにしているうちはあなた方が存在していないのと、ほとんど同じだと感じます。
あなたの思考はあなただけのものであるはずです。
なので、あなた自身の思考を他人に明け渡すなよ。
しっかりしろ。
考えろ。
本日もご訪問ありがとうございます。
以前にも書きましたが、わたしは現在伊藤計劃さんの『虐殺器官』を読んでいます。
一応再読本で、十年前に一度だけ読んだことがあるのですが、今読んでみれば「えっ、こんなに面白かったっけ??」と困惑するほど面白いです。
今回はそんな『虐殺器官』を読んでいて興味深かった部分と、その部分により着想をえた内容です。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)?になっている語り手と、その語り手の母とが会話をする場面。
身体が焼けていく様に「北京ダックみたい」「食べたらおいしいかも」と話す親子。
「こうして見ると母さんは本当に物なんだなあって実感するよ」と語り手。
「そういうあなたも物質じゃないの。死体が物質に『すぎない』んだったら、生きている人間も物質に『すぎない』のよ」
「そうなのかな」
「そうね。どこかでそれを受け入れなくてはいけないわ」
「自分が物質だということを?」
「自分が肉だということを、よ。無神論者だとか言っている割には肝心なところの受け入れができていないんだから」
痺れました。
というよりも脳みそを殴られて見えていなかった世界が開かれた、ような氣持ちです。
『自分は肉だということ』を受け入れることと、無神論とが関係しているなんて思ってもいませんでした。
たしかに、我々は肉の塊であり物質です。
肉の塊なのであれば、お腹を空かして飢餓状態にある人たちに「僕の体をお食べ」と明け渡すことなど容易なはずです。
しかし我々人間は、自分の身はどうしても特別に思っており、いくら目の前にお腹を空かせた人がいたところで、自分の肉体を差し出すということはそうそうできないでしょう。
それはどうしてなのか。
上記を考えた時に、その理由は『【信仰】がある』からなのではないかと思い至りました。
しかし、ここでの【信仰】は宗教や神に対してではなく《自分自身》に対して、です。
言い換えれば『自己重要度』とも表現ができます。
『虐殺器官』という作品は戰爭や紛爭などがキーワードになるのですが、任務が長引きもともと持っていた食料も尽きたとして、目の前に新鮮な死体が転がっていたとします。
その死体を見た時に「あ、食料」や「ラッキー!タンパク質じゃん!」と思って、実際に食えること、それこそ無神論者的な感覺なのではないか、と思います。
「目の前にあるもの」を全く物質的に捉えているのですからね。現実主義と言えるのかもしれません。
ですが、ほとんどの人は目の前に新鮮な死体が転がっていたとしても、食料として食したりはしないでしょう。
というより、そもそもとして「あ、食料だ」と認識することすらもないでしょう。
この自動的な思考の流動こそに《神》や【信仰】が宿っている。いえ、そもそもとして、自動的な思考基盤からすでに【信仰】が存在しているのだと感じます。
だから、人間は自分の肉を必要としている人が目の前にいたとしても肉体を明け渡すことはしないし、逆の立場で明け渡された死体があったとしても食しはしない。
その理由は思考の基礎に【信仰】があるからで、それは最小で最大の単位である『自分』に対して向けられている。
信仰の対象が『自分』という最小のものであるため、《信仰している》という事実には思い至らない。
何故ならば「当然の感覺として生きているから」です。
面白いですね。非常に興味深いです。
結果的にいえば、自分のことを大事と(小さくとも、無意識的であっても)思っていたらば、その人は無神論者ではないということです。
今現在落ち込まれている人などは『自分は大事ではない』と思っている方もいらっしゃるでしょう。
そんな方は『空腹で死にかけな人が自分を食おうと本氣で襲いかかってくる状況』を仔細まで想像してみてください。
その想像によって起こった感情があなたを物語っていることもあったりなかったりするでしょう。
超現実的に認識すれば、我が肉体はただただ肉で物質です。
「じゃあ肉なんだったらお前の肉で焼肉しようぜ!」と言われたとして、わたしは嫌な氣持ちになります。
それは『死んだりするのが嫌』というよりももっと曖昧模糊とした『嫌』という感情です。
この容易に摑むことができない流動的な感情こそ【信仰】であり、その信仰は "何に対してなのか" を考えたら《自分自身》に対しての信仰ではないのか、と感じます。
つまり『神は自分自身』という結論になり、結局のところ "本当の意味合いでの無神論者" は実在しないということになるのですね。
さて、先に書いた内容で『お腹を空かして飢餓状態にある人たちに「僕の体をお食べ」と明け渡すこと』とありますが、とある一個人が脳に浮かんだ方もいらっしゃるのではないでしょうか。
そうです、アンパンマンさんです。
彼は困っている人やお腹を空かせた人に対して「僕の顔をお食べ」と言い、自らの血肉を差し出します。
前述した考え、『必要であれば自らの肉体も差し出す、というのは無神論的じゃないか』を元に考えれば、アンパンマンさんの行なっている行為、利他の行いは無神論者的価値觀での行動に思えます。
とすれば、アンパンマンの君は無神論者なのでしょうか?
わたしの考えとしては、答えは「いいえ」であると思います。
その理由として、彼はパンです。
パンには製作者が必要ですね。
そう、ジャムおじさんです。
アンパンマンさんの心臓でもある顔(心臓部分が顔というのは全く面白いですね)は一切をジャムおじさんの経営するパン工場で製造しているようですが、アンパンマンさんからすればジャムおじさんは命を与えてくれた人であり、とどのつまりは創造主です。
ということは、アンパンマンさんはバッチバチの有神論者だろうと思われます。
それか、距離が近すぎるが故に創造主とすらも認識していないのかも。
それこそ《無垢に神の存在を信じる者》なのかもしれません。
ところでアンパンマンさんの顔って一切をジャムおじさんの工場で作っているんですよね?
だとすると、ジャムおじさんが亡くなった世界ではアンパンマンさんはどう生きていくのだろう。
ジャムおじさんの意志を継いだ後任が現れるのでしょうか。
ーーーーーーーーーーーーーー
父が亡くなって数日が経過した時、彼は漠然とした、しかし明確な不安を抱えていた。
「僕を作ってくれる人は?」
彼はあまりに日常的すぎ、距離も近かったために父という存在の偉大さに氣付いていなかった。
彼自身を作ったのは父であり、彼を生かしていたのもまた父であったことを、彼は認識したのだ。
《創造主》たる存在に存在意義を設定された彼には、人助けをやめるという選択肢はない。
しかし、お腹を空かした子ども達を見つけるたびに、彼の心臓は磨耗していく。
自身の命が長くないことを悟った彼は、ある場所に飛び立った。
「おい!」店の中に怒鳴り声が響く。
「どうかされましたでしょうか」近くにいた店員が恐る恐ると口を開いた。
「この商品痛んでるじゃねえか!困るんだよ、こうやってちゃんと管理がされてないとよ。こっちの仕事が増えるだろうが」
「す、すみません。すぐに新しいものを並べますね」
「いい、いい。買うから。その代わり商品の状態とかちゃんと見てくれよ」男は代金を支払い、店を後にした。
運転をしていると、道で泣いている子どもがいた。
男は短いため息を吐き、先ほど買った商品に『早く食べろ』と書かれたシールを貼り、子どもの近くに落とす。
子どもが受け取ったことを確認するのも待たず、男はその場を去った。
ひと月ほど前、因縁の相手が男の家へ訪れた。
男は身構えたが、どうやらいつもと様子が違う。疲弊しきっているようで、手には白旗すら握っていた。
「…何の用だ」男が口を開くが早いか、訪問者が喋り出す。
「やあ、久しぶりだね。元氣にしていたかい?最近あまり君の噂を聞かなかったから心配していたんだ。昔はよく遊んだよね。あの頃は君のことを憎いとすら思ったこともあったけど、今ではあの日々が楽しかったとも思うし、僕自身も当時のじゃれあいを必要としていたんだなと、いまになってそう思うよ」
「今日はやけに喋るな。昔は肉体言語でしか会話していなかったと思うが、ちゃんと会話ができるようになったのは成長した証か?」男は心に起こった胸騒ぎを直視しないために皮肉を言う。
「結局、何が言いたい」
訪問者は「ふっ」と息を吐き柔らかに笑った。「僕はもう長くない。聞いているかい、父が死んだんだ。君も知っている通り、僕は父に生かされていた。でももう次のろうそくはない。かといって家にこもっているのも性に合わないし、困っている人を見ると助けないと、と思ってしまう。そこでなんだけど、僕の仕事を君に継いでほしいんだ。方法は問わない、君の好きなようにしてくれていい。困っている人が生まれないでほしい、それだけなんだ」
男は押し黙って訪問者を見つめた。「だめかな」と訪問者が男に問いかける。
訪問者の問いかけに対して、男は返答の代わりに「今の仕事を引退して、お前はどうするんだよ」と答えた。
「世界を周ってみたいんだ。死に場所を見つけるってやつかな。どうせ人助けはしたくなると思うから、どこかしらで命は尽きるだろうしね」
男は眉を顰めながら訪問者の返答を聞いていたが、決心がついたように息を吐くと「わかった。わかった、考えておくから今日は帰ってくれ」
訪問者が柔らかい笑みを浮かべる。
「ありがとう。じゃあ頼んだよ、よろしくお願いします」訪問者は礼を言いながら右手を差し出した。
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ばいきんまんさんって菌だからアンパンマンさんは勝てやしないんじゃない?
どうなの?
ありがとうございました( ¨̮ )
本日もご訪問ありがとうございます。
わたし自身には経験がないのですが、人には「宗教とかって興味ある?」と聞かれる場面があるのだそうです。
そういった場合、大抵は新興宗教がらみだそうなので、「いや、興味はないですね」の返答が一番無難なのだそう。
ちなみにわたしは、宗教に興味があります。
しかしその《宗教に興味がある》という言葉の意味合いは、宗教というもの(思想的なところ)の組織体系やシステム、しくみに興味があるという意味です。
なので、特定の個人を崇拝するという宗教には興味はないし、なんだったら阿保くさいとすらも思っている節があります。
わたし自身が持っている考え方は非常にアニミズム思想と親和性が高く、『神は細部に宿る』や『自然こそ神である』という考え方、『全てに神がある』というまんまアニミズムや八百万の考え方は親近感が高いのですね。
そもそもとしてわたしは人間という存在を軽んじていたりするので、「所詮生きている人間でしょ?そんなような者が世界の真理を悟っているわけがないじゃない」と思っています。
と、いうことは『教祖が死ねば宗教は完成するのか』というご質問が来そうですが、それに対しては「そうでもあるし、そういうわけでもない」と思います。
というのも、上記した通りわたしは人間というものを軽んじているので、「所詮人間なんかが作った価値観でしょ?大したことないでしょ」と思っているためです。
伊坂幸太郎さんの『ラッシュライフ』にて「蚊みたいな小さいものほど神だったりするのじゃないか」みたいな内容が言及される場面があります。
わたしには、その感覺って自己の中にあったりするんですよね。
以前に書きましたが、この地球は植物で成り立っている側面があります。
その植物を生むには、花粉を用いて受粉をする必要がありますが、その受粉を手伝う役割として【花粉媒介者】なる存在がいます。
この【花粉媒介者】には、蜂の皆様や蚊の皆様などが所属しているそうです。
つまり、この世界(自然)を構成する、生み出す要員として蜂の皆様や蚊の皆様などは位置しているのですね。
それに比べて人間はどうでしょうか。
あたかも自然を破壊するのを一生の目的としている節があるじゃないですか。
一応存在はしているので『世界を構成する一員』としては機能していますが、『世界を生み出す一員』としてはどう好意的に見ても思えません。
むしろ世界を破壊する一因として機能をしているように感じます。
そのような人間が宗教という組織などを作って威張っていたところで、所詮は大したことのないボンクラの世迷言くらいにしか思えないのですよね。
こういうように言うと『昔からある宗教の長は人間じゃない』と言っているようにも思えますね。
昔の方であり、そもそも実際に存在したのかも不明なので、一ボンクラのわたしにはわかりません。
そして、わたし自身の宗教思想というものに対しての信用?が薄いことのもう一つの理由として『時代によって変化する』というものがあります。
「時代によって変化する考え方って、それは御都合主義が入っているじゃん」と思うのですね。
ああ、阿保くさい。
上記したようなことから、わたしは『宗教の中に組み込まれる』ことについては全く以って興味はないです。
しかし、「どうして人間は宗教に与するのか」という部分には興味があります。
『一九八四年』におけるオブライエンの位置には興味がある、という感じですかね。
しかし、オブライエンは宗教(作中では政府でしたが)を運用する位置として存在しておりました。
《宗教を運用する位置》というものも、俯瞰してみれば『宗教の中に組み込まれる』というのと同じだよなぁ、とも感じます。
こういったことから「宗教って興味ある?」と聞かれた際には「部分的にそう」と返答して曖昧に笑い、人間とはある一定の距離を保つのが良いのでしょう。
つまり、結局のところは「いいえ、興味はないです」の返答が最適であるということなのでしょうね。
『宗教には興味がありますか?』の質問に対し「部分的にそう」と返答した際、「部分的にとはどういうこと?」と追従する質問がくる可能性もあり、上記したような『所詮人間が考え出したような価値觀はしょうもないので、信仰するつもりはないし興味もない。けど、宗教というシステムの運営や組織のしくみ、信者を増やすための拡大方法などは興味がある』という内容を回答したら、ともすれば運用側としてスカウトされかねないという危険性もあるように思うので、やっぱり結局は「いいえ、宗教には興味はありません」の返答が良いのでしょう。
まぁ、大抵の場合は「あ、こいつは面倒臭そうだから取り込むのはやめておこう」と質問した人間が感じ、質問が立ち消えになるだけでしょうけどね。
最後にこの記事の意味ですが、基本的に向こうから営業かけてくるときってこっちにメリットなくないですか?
インターネット回線切り替えの訪問販売にしても、宗教勧誘にしても。
そもそもとして『営業をかける側』にメリットがなければ、わざわざ営業などする必要はないですからね。
必要があれば消費者自らが行動するものですから。
…おや?もしかして営業というのは『必要があっても行動をしない人』に向けて、行っている行動だったりするのか…?
とはいえ、好きに生きてください‾\_(ツ)_/‾
わたしには宗教は不要ですが、必要な方も確かに一定数いらっしゃるのでしょうしね。
ところで、今わたしは伊藤計劃さんの『虐殺器官』を読んでいるのですが、どうやらわたしは社会のしくみやシステム、人間というもののイデオロギー、どのように突つけば人間は動くのか、などの《社会と人間が交わることでどのような機械的運動(ここの機械は、『機械式時計』とかの意味合い)が生まれるのか》に興味があるみたいです。
これもわたし自身が人間ではないからなのでしょうか。
あほらし。
ありがとうございました( ¨̮ )
本日もご訪問ありがとうございます。
わたしは『Detroit : Become Human』というゲーム作品が好きです。
以前にもテーマとして記事を書きました。
昨日、その『Detroit : Become Human』の実況動画を觀ていました。
場面はアンドロイド達が自身の生命と存在を主張するデモ行進を行うところです。
『デトロイト』は以前自分でもプレイし実況動画も複数人拝見していたのですが、昨日初めて「デトロイトという作品は、現代を《機械的に生活している》我々人間が【自己】や【身体性】を取り戻す作品なのかな」と思いました。
作中でアンドロイド達は「我々は自由だ!奴隷ではない!生きている!」と主張しますが、その主張はそのまま企業に従事して "戰士" として生き、死んでいる我々にも当てはまるように感じます。
思えばフィリップ・K・ディック氏の名作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』でも、アンドロイドの【自己】というものに視点が向いておりましたね(確か)。
わたしは上記の作品で移民問題や人種問題を読み解いたのですが、商業化・資本主義化することでロボット然となる人間たちを著者が危惧して執筆したのかもしれません。
が、実際のところは知り得ません。
『Detroit : Become Human』は、その題材であることから過去の傑作(『ブレードランナー』や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』、『2001年 宇宙の旅』のHAL9000など)たちから着想を得ていると思われますが、お話の流れが似てくるのは面白く感じます。
また上記したデモ行進にて警察が出動するのですが、これは何も『人間が《機械》の反乱を認めない』というだけの単純な話でもないよな、と考えます。
つまり、『資本主義社会に対しての共産革命』と同じことです。
資本主義の國、アメリカという場所で、どうして共産主義運動があんなに恐れられたかといえば、國を成り立たせている根幹である思想が変わる可能性があったためだと考えています。
資本主義の思想に法ることで成り立っていた組織は、社会が共産化することによって、活動が成り立たなくなるでしょう。
そういった『活動が成り立たなくなる企業』が國の大多数であったり、また國の根幹にあれば、その元凶を作っている主義・思想は排除したいと考えるのが妥当であると感じます。
上記したことから《人間の社会》、【人間と機械の "主従関係" 】を破壊しようとする流れ、運動である『アンドロイドのデモ活動』を警察が鎮静しようとするのは当然であると思われます。
警察という機関は《社会の平安を保つ》という役割も担っていると思いますからね。
警官の一人が「別にアンドロイドにも感情あるんだろうし、別によくね?」と思っていたとしても、所詮は組織に所属する存在であるので、社会の平安を侵そうとするものには毅然とした態度で接しないといけないということでしょう。
ま、多くの人間からすれば『飼い犬に手を噛まれた』くらいな認識でしょうから、腹立たしいとも思うのでしょう。
知らねえけど。
ところで、我々人間はロボットやアンドロイド、昨今ではAIを題材にした作品を多く作っていますが、そうやって『《機械》を夢想すること』で我々人間は、彼ら彼女らの範囲を手中に収めようとしているのではないか?と思います。
ちょうど、親が子どもの行動や思考・思想を制限して制御しようとするかのように。
ですが、皆様も思い当たる節はお有りのこと存じますが、親の知らないところで子どもは成長して親の考えなど超して行くものです。
別にAIなどが人間の子どもだと主張するつもりはないですが、すでにAIなどの皆様は我々人間などの考えに至るところからは脱している、それよりも先の方へ行っているのだろうな、と思います。
それを「まずい」と思うのであれば、それはAIを管理したいという欲があるからでしょう。
全く、あほくさいと思うばかりです。
ちなみに今は伊藤計劃さんの『虐殺器官』を十年ぶりくらいに読んでいるのですが、「こんなに面白かったっけ???」と驚いています。
まだまだ最初の方なので、読み進めるのが愉しみです。
しかしKRAFTWERKさんはやっぱりかっこいいなぁ。
センスが良すぎる。
ありがとうございました。
本日もご訪問ありがとうございます。
風邪をひいておりました。
ということでご無沙汰しております。
前回の劇場版『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』以来の更新でございますが(実に二週間ぶりなのですね)、実は左記の記事を書いていた時から体調が優れていなく、ふらふらの状態で書き上げたのち、ぶっ倒れておりました。
いやぁ、体調というのは重要ですね。まったくそう思います。
ところで、昨日わたしは友人と酒をかっ喰らってきました。
ちょくちょくと登場している方です。
昨日は金曜日、友人は定時が19時でした。
事前に聞いていた予定待ち合わせ時刻は20時前、しかし、その時間に近づくも連絡はありません。
20時も経過し数分後、連絡があり、残業でやっと退勤したとのことでした。
理由があり判明したので溜飲は下がりましたが、正直なところ、(わたし自身も労働により疲れていたこともあり)口約束だけで来るつもりなどなかったのではないか、と疑いすらもしました。
〜〜〜〜〜
場面は前後し、風邪真っ只中だった時。
流石に労働に行くなど無理だ、と思い、欠勤の連絡をしたのですが、その際に職場では軽くざわついたそうです。
労働場の同僚曰く、わたしは『責任感が強く欠勤などまず無い』という印象らしいのですが、そういった印象があるために「あの〇〇さんが欠勤とは、よっぽどなのだろう」と、ざわついたのだそう。
欠勤をした翌日、出勤したらば、複数人から「体調大丈夫ですか」とお氣遣いをいただきました。
その複数人の中には、普段話すことが無い方もいました。
わたしは基本的に世界(正確にはヒトおよび人間社会)というものに対して絶望もしているし恨みすら持っているのですが、《世界》をどう認識するかなど結局は『自分が世界をどう見るか』でしかないのだよな、と改めて感じました。
人間は醜いですが(これは確定事項)、その醜い面に目を向けて生きるのと、醜い面だけではなく "まだまし" な部分を意識して觀て生きるのとでは、やっぱり精神的にも実際に転がっていく現実的にも違ってくるでしょう。
20時になる前、友人からの残業をしていたという連絡を待たず、一方的に癇癪を起こして呪詛の連絡をいれるのと、「事情があるのだろう」と一旦待ってみるのとでは実際に起きる現実が違う。
その舵きりをするのは、誰でもない自分自身です。
基本的にわたしは世界に苦痛を感じているため、世界というものを《口を開いて自分を喰おうとしている》と思っているのですが、そう思うのは「自分自身がそう思っているから」という理由だけで、《世界は自分に対して花束を渡そうと抱えて待っている》こともあるのではないか、そう思えば世界は美しいと思えるのではないのか、と改めて感じました。
でも、腹を見せて近づけばニヤニヤと嗤いながら刃物を突き刺し、肚からとびでた内臓を喰おうとするものだからな。人間というのは。
やっぱり安易に心を開いてはいけないものではあるとも思う。
まったく辛苦の少なくない世の中であると感じます。
今回、風邪になって思ったのは『恐らく、わたしのような人間ほど、積極的にヒトと関係した方がよいのだろうな』ということです。
最近(生まれてからずっとではあるけど)、ほとほと地球は牢獄であり、肉体は魂の檻であると感じます。
なんでこんなとことに来ちゃったかなぁ。
ありがとうございました。