本日もご訪問ありがとうございます。
前回は『裏表意識のアホらしさ』を樂理と交えてご説明いたしました。
今回はその視点のお話と、現代の學校教育の愚かさとその弊害を書いていきます。
強制から生まれるゴミ
わたしは文科省的な教育はてんでだめでした。
國語は好きだったのでそれなりでしたが、決して上位ではない。
読書大好きな完全文系人間でしたので、理数系はまっっっったくの非常にまずい出来でした。
今やってみたら理解度は上がっているのかもしれないけどね。わたしが拒否感を感じていた理由は『強制されていたから』でしょうから。
ですが、音樂(ギター)には非常にのめり込んだ。
2007年に始めたので、今年で15年目ですね。
その『好きでやっていたこと』で、前回書いたようなことを見つけました。
『何かを突き詰めて造詣を深めていけば、他の事象ともリンクする場所・事象がある』とは、わたしがギターを長い間弾くことで見出した法則ですが、この法則は森羅万象に共通されると考えています。
華道を極めた結果、相撲との共通点を見つけることもあると思いますし、武道と農業は似ているところがあると思い至ることもあると感じます。
こういった視点はある種の『境地』なのかもしれませんが、この程度のことは、本来誰でもわかることだと思うのです。わたしが理解できたくらいですからね。
この『共通性を見つけること』がどうして大事かというと、『自分も相手も同じもの』という当然の真理を自分の腑に落とすことができるからです。
その当然の真理すら見出すことが出来なくなっているのは何故なのだろう?と考えた時に、やはり日本のアベレージ教育が原因であると感じるのですね。
つまり「オール3」を目指す教育方針です。
当然の真理を理解できないその理由
わたしは「音樂や自分が氣になった事柄は5だけど、ほかは全て1」みたいな人間だと思います。
ですが、その音樂がきっかけで「物事に裏表なんてなくて全てが多面体」という当然の真理を理解したわけです。
しかし、現代を生きる多くの方はどうやらそれが理解できていないようで、『悪いことをした人間は問答無用で悪だ』と決めつけています。
これは「オール3」を推奨している現代のアベレージ教育が原因に他ならないのではないか、と思うのですね。
何度も何度も何度も何度も嘆いているように、悪を為したのはその側面だけで、善良な面もあり、悪を為すにもそれに至った経緯があるというのに。
その経緯の可能性をわからない(想像できない?)のは、「オール3」のアベレージ教育が原因じゃないかと思うのです。というより、それが原因としか思えなすぎて、その考えを肯定する事象ばかりが意識に入ってくる。
わたしのよくない部分が出てしまいますが、そういった多面的多角的な視野を持たせないようにするためのアベレージ教育であるようにすら思えてしまう。
しかし、この「よくない部分」というのもある一視点からの意見でしかないのです。
もちろん『平面的にしか見えなくなる』のは副産物の可能性もありますしね。
一は全 全は一
それに一つのことを極めるというのは、極めるにおいて他の要素が必要になってきます。そのたびに必要な要素を習得するのですが、それが汎用性の高いものだったりする。
そうして世の理みたいなものを知っていくわけです。
もちろん偏りは生まれます。それは仕方ない。
あと、「こういう現象があるのですよ」と教えられるよりも「これはどういうことだろう?」と自分で疑問に思って調べる方が、その人の身になるに決まっているだろうに。
その疑問を摑むためのきっかけを提示するのは重要ですけどね。
その『疑問を産む機会』を殺ぐためのアベレージ教育か?
うーんなんとも言えない。
流石に飛躍しすぎだとも思うし。でも飛躍だとも一蹴できなくもある。
うーん。
とにかくは『一を極めれば全と繋がる、全は他の一とも繋がっている』ということです。
みんな地球上で生まれたことですからね。
これも具象から抽象を抜き出すこと、別々の具象の共通点を見出すことです。
ね?簡単にだれでもできる面白いゲームでしょ?
なにが言いたかったかというと、『オール3』のアベレージ教育は思考力と洞察力を殺ぎかねないクソな教育方針ってことです。
このわたしの考えも『一方に聡くなった結果、同じ分だけアホになった』ということの証明なのでしょうね。
ありがとうございました\(´-`)/