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身体性
最近池田晶子さんが書かれた『14歳からの哲学 考えるための教科書』を読み直しています。
やはり哲學というものはまったく面白いものです。
そしてこの書籍を読み直していて思ったことがあるのですが、それは『哲學を考えるというものは身体性を取り戻すということだ』ということです。
体幹
ここで一つの例え話なのですが、人体には体幹というものがあるそうです。
その体幹をしっかりと鍛えないままでスポーツなどの身体活動をすると、怪我をしかねないので危ない、そうです。
この『体幹』という考え方はまったくそのものが"身体性"ですが、この身体性こそ哲學を學ぶということ、自分の頭で考えることだと思いました。
つまり哲學を學び専攻することで、人間がつい忘れがちな身体性を取り戻し、身体性という心の体幹を鍛えることで様々な心的・体的な怪我を防ぐことができると思いました。
現代の人間は色々なことに追われ、色々と考えています。
仕事のことや生活のこと、今日食べる食事や明日の予定、etc…。
こういったことは身体性から離れた考え、想いです。
ここで、
「まだ来ていない未来のことや考えてもしょうがないことをどうして自分は考えているんだ? いや、まず『考える』とはなんだ? いやいや、そもそも『自分は考えている』と思っているが、その『自分』というものは一体全体なんなんだ?」
と考えること、それが『身体性を取り戻す』という行為なのです。
この「『大前提の根っこ』を今一度考えること」こそが『身体性を取り戻す』という行為なのです。
心的疾患増加の理由
今生きている"現代人"と呼称される人々は、この『大前提の根っこ』を疎かにして、目を向けないまま生活をしています。
だから精神的に疲れたり氣を病んだりしてしまうのです。
考えてばかりの生活を送っているが、その『考えている自分』とはまずなんなのか。
『考える』とはなにか。『自分』とはなにか。
その『自分』が「生きている」場所、「生まれて来た」場所、「死んで還る」場所はどこなのか。
"現代"と言われる時代を生きている人は意識的にか無意識的にか、こういった身体性の問いを見ないように・避けるようにしています。
そういった生命の根幹、『身体性という体幹』を無視して生きているうちは苦しむしかないでしょうね。
自然に背いて生きているわけですからね。
とはいっても、その辛苦もその人自身が『望んで』選んでいらっしゃるのですから、部外者であるわたしには口出しする権利はありません。
いくらその人が苦しもうと、『苦しみたくて』やっている、『苦しみたくて』その身体性から自らを遠ざけていらっしゃるのですからね( ¨̮ )
毎度言っていますが、お好きに生きて( ¨̮ )
いやぁ、春めいて来ましたね。
この『身体性』のお話は今後何度かしようと思っています。
「春めいてきた」というのも身体性のお話に繋がって来ます。
ありがとうございました( ¨̮ )