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先日久しぶりに映画の『JOKER』を観ました。
何度目だよって思いますが、何度目なのでしょう。
おそらく十回は観ていると思います。
以前『同じ映画を十回観れる人間は、無職の才能がある』という言説を拝見したのですが、果たして、実のところいかがなものなのでしょう?
さて、この『JOKER』ですが、やっぱり良い映画ですね。
『凶行に走る人にもその人の経緯があり、切り捨ててはいけない。わたしたちの延長上にある話なのだ』ということが描かれておりますからね。
と、アーサーくんがマレーの番組に呼ばれ、樂屋で軽い打ち合わせをするシーンがあります。
ここで、アーサーくんは「呼び込むときは『ジョーカー』と読んでくれ。この前マレーがそう呼んでいたのが氣に入った」とマレーに対して話します。
この時に「あ」と思いました。
アーサーくんをばかにしていた同僚、アーサーくんの馘を切ったホイト氏、アーサーくんをからかったウェインの商社マン、アーサーくんの病氣の原因(だと言われている)の虐待、アーサーくんを取り合わないウェイン家、笑い物にするために自身の番組に呼んだマレー。
その全てが外的要因です。
もちろんアーサーくんが一番最初の要因を作った可能性はありますが、その多くはアーサーくんが多くの者から虐げられた結果です。
それに、マレーに対して「ジョーカーと呼んでくれ」と言った。
その理由は『マレーが以前にそう形容していたのが氣に入った』から。
ここで「ジョーカーといった存在、またそれに類似した存在は、我々が創り出しているんだ」と思いました。
無感情、
不寛容、
無関心、
自己責任主義由来の切り捨て、
自己を保全するための嘲笑、
意味のないものに意味を持たせたことによる歪み、
意味の不用なものに意味を持たせすぎた為に起きた格差と差別意識、
それらを無意識のうちに思考するように設定された我々と、染脳教育。
上記しただけでも氷山の一角でしょう。
これらを用いて、我々は今日も知らない誰かを下手人へと近づけているやも知れないのです。
正直なところ、これに氣付いた時は中々にヘビーでした。
だって『自分も凶悪な下手人を創り出す一端を担っている。つまり、自分が下手人を創り出したのと同義』ということですからね。
もちろん「『何にでもなれる存在、切り札』としてのジョーカー」という意味合いだという可能性も大いにありますし、わたしが上記した説と、どっちもかもしれません。
もちろん、どっちもないかも。
そしてアーサーくんを移送しているパトカーに救急車が突っ込み、その衝撃で意識を失っていたアーサーくんは暴徒の救出により、イエスかの如く『復活』を遂げ起き上がります。
我らが痛めつけて創り出したジョーカーを、復活させたのも、また我らということです。
以前のジョーカー評でも言及しましたが『ジョーカーが自分の血糊で口元のメイクをするシーン』は、やっぱり心の底から恐ろしいと感じますね。
あの演出を最初に見たときは、
やっぱり適当ではなかった。
つまりはあの対比が素晴らしいな、ということです。
今氣付きましたが、わたしは寒暖差というか、AとBの対比がくっ
わたくしごとですが、甘辛の味付けとかも好みではないですしね。
全く狭量で余裕のない生きものでございます。
そして、アーサーくんがジョーカーとして覺醒した後は、どうしてああも煌びやかで輝いているのでしょうか。
今回は取り止めのない話になりましたね( ˘ω˘ )
ありがとうございました( ¨̮ )