頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

変な話をします→つまり通常運転。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

今回は不思議なお話です。

日々の生活でぼんやりと「◯◯したいな〜」だとか「◯◯食べたいな〜」だとか思うことってございますかと存じますが、ふとした瞬間、そのぼんやり希望が叶うことってありますでしょうか?

わたしは不思議となぜか結構な頻度であります。

 

「たこ焼き、食べたいな〜」と思っていたら差し入れされたり、「みかんジュース、あるいは果物のジュースが飲みたいな〜」と思ったらそれも差し入れされたり、「あの料理に野菜ジュース使いたいけど、今日飲む分とかも考えたら足りるかしら」と案じていたら、その野菜ジュースの商品が差し入れされたり。

他にも割と頻発していたりします。

 

そんな上記の出来事を友人に聞いてみても「そんなことないない」「ひえ!思考が読まれている!」との返答が返ってきました。

 

 

ふしぎ( ´・◡・`)

 

 

そして、つい昨日も同様の事象がありました。

労働先の方が誕生日だったとのことで、ケーキが差し入れられたのですが、案の定「ケーキ食べたいな〜」と数日前にぼんやりと考えていました。

わたしがぼんやり望んでいたケーキは、いわゆるショートケーキ的な白雪のような生クリームで装飾されたものです。

そして差し入れられたものは白雪のようなショートケーキでした。

 

差し入れられて場の空間がお目出度い雰囲氣。

ケーキが切り分けられて労働に勤しむ全員に行き渡り、「糖分♪ 糖分♪ 」と浮き浮きしながら口に運び「おいしい〜」と糖分に浸っていた時に『あれ?』と思いました。

その引っかかった理由の一つは上記した 『〈白雪みたいな生クリームのケーキが食べたいな〜〉というぼんやり希望、叶ってるじゃん』ということなのですが、もう一つ極めつけがあります。

 

わたしは先日出雲大社さんと石見銀山さんに行きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

石見銀山のカッフェ屋さんでぶどうをいただいたのですが、そのぶどうがとても美味しかった。

サラダにぶどうが入っています。

 

「ぶどうおいしかったな〜。また食べたいな〜。高いけれど自分で買ってみるのもありだな」と思っていたのですが、ご想像の通りです。

ケーキにぶどうが乗っておりました。

 

 

なにこれ??MAJI?????

 

 

という感想が素直なところです。

十年くらい前から〈願ったことがひょんなことで叶う〉という事象には遭遇していたのですが、"一度に二つの願いが叶った" というのは正直今回が初めてです。

 

「ケーキ、有難いな〜美味しいな〜」と思いながらも、頭の中では『???』という感情が錯綜していました。

どういうことなのでしょうか。

 

これが《思考の現実化》ってやつだったり《引き寄せの法則》ってやつなのか?

 

 

 

ケーキ事変があった最中、考えました。

「どういう関連性がある?」

 

そう考えた中でたどり着いた共通点として、下記があります。

  • 自分で叶える余地がある事象である
  • 純粋にぼんやりと考えていたことである
  • ぼんやりであるが故に、もたらされる "その時" までは願いをすっかり忘れている
  • 他者からもたらされる

 

共通点を挙げたからってどうなのだという話でもあるのですが、これを応用すれば『いかに無謀じみたことでも自分自身で叶えられる余地のあるものであれば、人様を通じて自分へ願いを由来させる』という事象へと転換することも可能なのかも?と思います。

しかしそれは人様他所様を利用しているということになるので、わたしの本懐ではない。

いかに〈自分は神である〉という事実があったとしても、"自分が神だってことは自分以外の人様も神だってことじゃん" という事実も厳然としてありますからね。

floodinhead.hatenablog.com

 

あとこれまでの経験で「これ、してほしいな〜、叶ってほしいな〜、誰か願い叶えてくれないかな〜」と他力本願で願ったことは叶った試しがないので、結局のところ『手前えでやれ!』ということなのだろうな。

 

それに懸賞などの応募は【送る】という行動を取らないと当選も落選もありませんからね。憶測推測の範疇でしかないですが、"願ったことを忘れる" ということが《応募する》という行動と同等の意味を成しているのかもしれないし。

そう考えると強い願いは念が篭っているからこそ重くなり、"波動的に重い願いは叶いにくい" というスピリチュアル的言説は整合性が確かに合ってきます。

強い願いほど忘れることができず覺えている( =意識にある)からです。

だから「もういいや」と執着を手放した時こそが《応募した》ことになるのかもしれません。

逆に強く願っていたことだから、重いからこそ速度が出て早く願いが叶うということもあるのかも、しれません。

 

 

まあ普段から行なうように心がけている善行(落ちている塵芥の類を正しい場所に捨てたり、酒に呑まれ潰れた人の子にお水をお供えしたり)に対しての返礼ということも可能性もありえます。

『与えよ、さすれば与えられん』ってやつですかね。

知らねーですが。

 

 

しかし "行動なくして結果無し" というのは事実でしょう。

 

そういえば「なし」という音一つでも【無し】と【為し】と【成し】といったように色々な意味を持っているのですね。

行動無くして成功は無い、為すことで成功が成される。

 

 

 

 

ぺ。

 

 

 

ありがとうございました〜。

 

お好きに生きて〜。

 

 

 

ちなみに石見銀山のカッフェ屋さんでいただいたおぶどうはパッツプリパツプリの新鮮なものでしたが、昨日いただいたぶどうは少し熟れたもののためにパッツプリ・プリパツではなく、少々残念な氣持ちにはなりました。

がそう思うと同時に「有難きを預かっている身で贅沢な奴め」と反省いたしました。

まだまだわたくし解脱へは遠そうです。

 

( ´・◡・`)