頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

氣の正体

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は『氣』についてです。

お風呂に入っている時に、ふと氣付いたのですが、『氣の正体』がわかったかもしれません。

 

始まりからいきなり結論となり、誠に恐縮ですが、『氣』というものは何なのか。

 

『氣』というもの、それは『熱』あるいは『体温』なのではないか、と思います。

 

 

『氣』というものは、言い換えると〈エネルギー〉ですが、この地球上でエネルギーが高い存在といえばなにか。

それは赤ちゃんや子どもたちだと感じます。

 

赤ちゃんや子どもたちの共通点はなにかといえば、体温が高いことです。

 

人間は一般的に年を取るごとに体温が下がっていきます。

小學生諸氏は真冬なのに半袖半ズボンなんて方もいらっしゃいますし、北國の女子高生さんは大雪の中、脚を出して登校されていたりします(厚手のストッキングを履いていらっしゃったりするんだろうけど)。

しかし人類は加齢と共に厚着になっていきます。

それは、加齢と共に体温が下降していくから。

 

 

また『赤ちゃん』の《赤》はエネルギー値の高い色と言われており(還暦で赤いちゃんちゃんこを着るのは、『暦が一周して新たに生まれ変わる』という意味と『赤ちゃんの"赤色の力"を宿すため』だそうです)、赤色自体も、火を表すときの色です。

そして火は、それ自体が温度の高いものですよね。

 

火力発電や原子力発電、蒸氣機関なんかも『熱をエネルギーとして』発達したものです。

 

 

他には、我々人類は全く愚かな存在なので病氣になります。

簡単なものでいうと、風邪などになった際に、発熱も共に引き起こされることがあります。

熱はそれ自体はネガティヴに感じる部分はありますが、それ自体は病原菌等をやっつけるために引き起こされているそうです。

つまり、熱を以ってして体内に入ってきた敵に打ち勝つということです。

 

 

発熱機関

『氣(エネルギー)=体温()説』を強固にする事例は、ほかにも色々とあります。

 

 

「筋トレしたらポジティヴになるよ!」なんてよく言いますが、ではどうして筋肉を鍛えたらポジティヴになるのかといえば、人体の発熱器官である筋肉が大きくなればそれだけ基礎体温があがります。

これも体温を上げたことでポジティヴに、氣分が上向きに、元氣になった、ということなのではないか、と思います。

よく考えれば、基礎体温が上がった結果に、氣分が上向きになるのは当然と言えます。

 

しかし、現代の日本では何かと言えば、飲み物に氷を入れる文化となっておりますね。

わたしはなるべく水筒にあったかいお茶を入れて持ち歩き、もし外出先で冷たい飲み物を飲む機会があった場合は氷少なめでお願いしております。

 

加齢からか、キンキンに冷えたもの(氷水で〆たおそうめんとか)を摂取すると、氣分が悪くなっちゃうもので、、、。氣分が気分になっちゃうもので、、、。。

 

 

そういえば、この記事を書いている時期は冬真っ只中なのですが、最近では『冬季うつ』なんていうものも頻繁に見られているそうです。

一般的に、冬季うつになる原因は『寒いというのはとんでもないストレスであり、それに足して精神的ストレスがあることで、脳が処理できなくてパンクする』や、『日照時間が短いためにビタミンDが体内で生成されず氣が滅入っていく』と言われています。

それはおそらく正しいことでもあると思うのですが、それよりも『寒いために体温()が奪われて、氣分が落ち込む』ということが大きいのではないのか?と思います。

 

全く崇高な自然の世界では、冬は休息の時期となっておりますが、春の時期には様々な生命が動きだします。

それも、大氣の温度が暖かくなっていくからです。

 

 

精製したことで起きた、氣の弱体化

ちなみに、敗戰の際にGHQが日本人の弱体化を画策した、とは以前に書いた次第ですが、

floodinhead.hatenablog.com

 

『氣から気に変わった時期と、小麦が本格的に輸入されるようになった時期って一緒じゃない?敗戰きっかけでGHQが日本に乗り込んできて、お米の文化ではなくて小麦の文化が輸入された。それから日本人の精神性が下がったのって何か関係あるんじゃない?『氣』の漢字が、"米"から"メ"になったのと関係あるんじゃない??』と思って、意気揚々と調べたのですが、小麦にしろお米にしろ体温を下げる作用はある模様です。

 

しかし、精米や製粉されたお米や小麦に限っての話。

つまり、玄米や全粒粉でできたパンは体を温める作用があるようです。

 

現代では「柔らかいこと」を有難がって、精製した白い穀物を食しています。

体温の低下。あれ??

 

 

病は氣から

基礎体温を上げたら病氣になりにくい体になる」と、よく言ったりしますが、《病は氣から》という昔から言われる言葉があります。

これって『氣=エネルギーが下がることで、病になってしまう』ということなのではないでしょうか。

決して〈精神論〉という言葉だけでは片付けられない話になってきたように思います。

 

また言葉の記事にて以前言及いたしましたが、『昔から連綿と語り継がれる、言い継がれる言葉』というものは、それだけ『真実や、真理を内包しているもの』であるから、何十年何百年と継がれていくのです。

 

 

『元氣』という言葉も、「体温を元にして生まれている」という意味合いであると感じることができますね。

 

 

 

色々と御託をならべてきましたが、なので、皆さん。

あったかくして、筋肉つけて、食べるものに氣をつけて、落ち込むことなく生きていってください( ¨̮ )

お元氣で( `◟ 、)

 

 

ありがとうございました( `◟ 、)

胎内回帰、再誕生。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日、稲荷神社の総本山である伏見稲荷大社に行ってまいりました。

 

本当は陽が出ているうちに参拝するはずだったのですが、すっかり日が暮れてしまいました。

 

 

夢で睨まれた楼門

駅を出てお宮へ向かう道中、昔はお初詣に香川県金刀比羅宮に参拝していたのですが、どちらも山にあるからか、似た空氣を感じました。

すこし『千と千尋の神隠し』の冒頭、夜の雰囲氣もあったような氣がいたします。

 

と、そんな雰囲氣を感じながら歩いていると(本当は「さむぅ〜」と思っていた)到着。

http://inari.jp/

 

大きかった。

 

そして、この記事を書いているこの時に思い出したのですが、この楼門、いつぞやの夢で見たものでした。

 

おかしな話になるので、お読み飛ばしていただいて問題ないのですが、わたしはいつかの夢の中でこの楼門を遠巻きに見ておりました。

本心を言えば、その楼門をくぐって中に入りたかったのですが、月明かりに照らされて青白く浮かぶその楼門に劇しく睨まれていたので、夢の中では入れませんでした。

 

どうしてどうして夢の中で月明かりに照らされたその門と、電氣で照らされた楼門とを同じものだと思ったかといえば、大きさ、形、月の光からでも色彩はなんとなく判断がつきますし、その青白い光でも朱色を感じたためです。

 

いまだから?思いますが、あの睨み方は完全に威嚇だったなぁと思います。

 

 

千年鳥居と胎内回帰

さて。

本殿を参拝し、かの有名な千本鳥居をくぐります。

先述しましたが、この伏見稲荷大社は稲荷山という山に抱かれております。

そのため、奥へ奥へと歩を進めるごとに傾斜を登っていく。

山登りも一緒に行う形になるんですね。

 

そして千本鳥居は行きと帰りがあり、山を登るにつれ鳥居も大きさが小さくなっていきます。

 

この時に、はっと思いました。

 

この道は子宮に還っているのだ。

 

山を登るというのは、天に近づいていくことでありますし、天というのは神と同義であるとも言えると感じます。

また鳥居を進むに従って狭くなり、地上に降りる時には鳥居は大きくなり広がっていく。

千本鳥居を進むというのは、胎内回帰であり、また新たに生まれ直すという行為なのだと感じました。

 

実際に神社の『参道』は『産道』であると言いますし、『お宮』は『子宮』であると言いますしね。

 

 

そういえば、伏見稲荷大社には『おもかる石』という《願いを想いながら持ち上げた時の感想によりその願いが叶うかどうか》を占う石があるのですが、いざ持ち上げた時には「えっ、こんなもん?」と拍子抜けする感じでした。

ずっしりとした重量はありましたが、だとしても「そんなに重くないね」という感じでした。

 

おもかる石があった辺りだと思うのですが、なんだか日本酒の匂いがふんわりするなぁと思いました。

誰か酒盛りされていたのかしら。

 

👆の写真のあたりとかが特に日本酒でした(日本酒でした?)。

この段々の先に行きたかったのですが、行ったら絶対に良くないこと起こるな、と思ったのでやめました。

 

 

千本鳥居の帰りで右に曲がれるところがあり、そっちにふらりと歩を進めていたのですが、あるタイミングで異様な寒氣を感じた境界がありました。

言うなれば直感というやつです。

冬の夜の山なので、そりゃあ寒いものですが、おそらくあの寒氣は冬のものだけではないと思います。

 

しかし冬の山の匂いは良いものですね。土の匂いです。

落ち着くし、それでいて背筋が伸びる感じ。

 

 

お狐さんの品定め

「ここまで来たら稲荷山も登ろう!」と決起し、急遽登山に。

伏見稲荷大社はその山全体総てではあるのだとは思いますが、稲荷山に入る境界?門?となる場所が明確にあったように感じます。

その境界から『伏見稲荷大社への参拝』から『稲荷山への参拝』に変わるんだろうなぁ、と思っているのですが、この稲荷山への参拝に変わる境界に、いわゆる狛犬のようにお狐さんが左右に鎮座されていたのですね。

 

たしかその境界には石の鳥居があり、もちろん一礼して通ったのですが、この時にはっきりと『見られている感覺』を覺えました。

なんというか品定め?をされている感じですかね。

「こいつはどんな人間だ?」「こいつはこの山に入っても大丈夫な人間か?」と見定められているような感じです。

 

そんなこんながありながらも、頂上まで登り、お猫さんがいらしったのでお猫さんを眺め愛で、下山しました。

 

「『神』の字が渦なんだな。渦か、やはり螺旋なのか」と思ったりいたしました。

 

これはワンポイントアドヴァイスなのですが、稲荷山はDr.Martinで登るものではないです。

 

 

思ったこと

そういえば、中腹の売店?に、新年だからか『紅白ソフト』というソフトクリームのポスターが掲示されていました。

「紅白か、日本人は紅白が好きですよね。縁起がよいから。紅白なますや紅白まんじゅう(紅白まんじゅうって今でもあるんですか?わたしが遠ざかっているだけ??)。そういえばいちごのショートケーキも紅白を模して生み出されたものだそうですしね。あ、巫女装束もそうだわいね」とか考えている時に、わたし、ッピーンと来ちゃった。

 

スプーン印のお砂糖って、あるじゃない。上白糖の。

あれってずっとあるけど、あれがずっとあるのって、〈紅白だから〉なんじゃないかしら。

旭日章の時代から日本の國旗って紅白だし、紅白弁当なんてのもあるわ。

それほどまでに日本人は『紅白の縁起』を重要視しているし、親しんでいる。

 

だから目についたら、手に取っちゃう。

日本人の潜在意識をうまく使った広告方法ってわけね、天晴れだわ!

 

 

その他には「漢数字には難しいのと常用とがあるけど、『拾』が『十』に変わったのってGHQの影響とかあるのかなぁ、あいつら日本文明と日本語を解体しようとした背景あるし、『十』ってキリスト教のシンボルマークだしな」とか思ったりしました。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

そんな伏見稲荷と稲荷山の参拝記録です。

 

 

一度でいいから不思議なこと体験してみたいのですが、きっとこういうのって物見遊山的な観光氣分で欲したらいけないんだろうな。

ヒトにはヒトに適した世界ってのがあるんだろうし。

 

 

 

 

不思議なことでいえば、神社と逆(逆?)になりますが手相で仏眼という相があるのですが、その仏眼が昔よりも育っているような氣がいたします。

完全に仏眼ができたらどうなるのでしょうか。

 

 

参拝したのが夜だったために御朱印をお願いできなかったので、また行くつもりです。

玉置神社に行きたいんだよな。

 

お呼ばれしたい( ¨̮ )

 

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )v

大・大衆広告ツールSNS

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

もう一ヶ月前になるのですが、ある中華料理やさんに行きました。

 

そのお店はいわゆる町中華的なお店ではなく、商業施設に入っている綺麗で大きいお店です。

 

行った時間が土曜日の夜ということもあって、店内は混雑し、行列すらできていました。

 

いざ順番が来て入店し、座席に着きます。

 

満員の店内はがやがやと賑やかでありながらも、店員さんはきびぎびと配膳やお客さんを席に誘導しています。

そういった状況から、ある種の格式や高級感的な雰囲氣すら感じました。

 

さて、料理はすでに注文していたので、出来上がった料理を待つのみです。

 

わたしが頼んだのは炸醤麺(ジャージャー麺って読むんですって!)と小籠包。

 

しばらく待っていると炸醤麺が到着しました。

 

味はおいしかったですが、この記事で書きたいことは味ではないので割愛します。

味はおいしかったです。

 

 

炸醤麺をおいしいおいしいと思いながらお箸を進めていますが、一向に小籠包が来ない。

「あれ?どうしたのだろう。もしや忘れられている?まぁでも忙しそうだもんなぁ」なんて思いながら待ちますが、確かに来ない。

 

そろそろ炸醤麺が無くなりそうだったので、店員さんに注文を伺うと、どうやら注文が通っていなかったそうです。

 

所謂いつもの『申し訳ございません、すぐにお持ちいたします』の後に、いざ小籠包が到着しました。

 

料理を持ってこられた店員は口を開きます。

 

この小籠包は形があまり良くないのでお作り直しも可能ですがいかがなさいますか」

 

そう言われたわたしはあまり理解ができません。

 

形が悪い?でも小籠包の味には影響しないんでしょ?

 

あまりにも自分の感覺にない申し出だったので「え、冷えているとかですか?」とちんぷんかんぷんな返答をします。

しかし、状況としてまずいのは《形が悪いこと》だけ。

 

わたしは中身が一緒なら氣にならないので、「かまへんかまへん!(いえ、このままで大丈夫です)」と返答しました。

 

すると、店員さんは「でしたら、こちらの小籠包はサービスとさせていただきますね。新しい伝票を書いてきます」と言い、席を離れました。

 

 

棚からぼたもち、田中からぼたんえびです。

 

注文した料理がサービスになるなんて経験したことなどなかったので、なんだか狐につままれた氣分でした。

 

 

「日頃からちっっっちゃい善をしている(落ちているゴミをゴミ箱に入れたり。本当はそのゴミを出した本人の鞄に転送させたい)からかね〜☆」などと太平樂に思いながらも、どうして店側は《料理を無償提供する》という決断をしたのかを考えました。

 

 

現代は超SNS社会です。

そんなSNSで『どこそこのお店は注文した料理も通ってなくて待たされた挙句、出てきた料理も形が悪かった』などと書かれたら、悪評は立たずともネガティヴマーケティングになりかねません。

そういった事態を防ぐための手段としての《料理の無償提供》なのではないか、と思います。

 

料理が無償提供されたら、『どこそこのお店で食事をしたが注文が通ってなくて待たされて出てきた料理も形が悪かったけど、料理をサービスしてくれた♪』と書けばリカバリーが効きます。

 

そういった大・SNS時代に対応するための判断だったのではないかなぁ。と夢想しました。

 

 

そう考えると、現代は我ら大衆の全員が広告を背負っているということでありますね。

このブログもちょっとしたことで炎上をする可能性があるということです。

 

今の時代はなかなか恐ろしいですからね。

 

 

そういえばアメリカのキム・カーダシアン氏という方が、《どんな人種にも対応できるカラーバリエーションが特徴の肌着》を『KIMONO』という名前で売り出す、という発表をして大炎上をしたことがありましたね。

「死ねどす」が生まれた一件です。

 

あれもSNSを利用した《炎上マーケティング》です。

 

炎上マーケティングはお金のかからない宣伝方法ですもんね。

 

 

 

さて、そんな中華料理屋さんですが、どこにある何という名前か、とかは明かしません。

阿保くさいですしね。

 

 

ありがとうございました( ˊᵕˋ )

ガチャガチャとおひとりさま推移

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

ガチャガチャという文化があります。

 

最近ではソーシャルゲームにも起用されております。

もはや説明不要ではありますが、わたし自身の説明能力という意味で挑戦するために、説明します。

読み飛ばしていただいて一切支障はないと思います。

ガチャガチャというのは、いろいろなカプセルが入ったケースに既定の金額を投入し、丸いレバー?を時計回りに回したら中のカプセルが攪拌されて、結果、手元に落ちてくる、というランダム性とギャンブル性と運の要素が含まれた、愉しい遊戯です。

 

カプセルに何が入っているかというと、様々。

 

そのコンセプトに沿った品物(大抵の場合はおもちゃやキャラクーグッズ)です。

ちなみに、その遊戯には呼称が様々あり、『ガチャガチャ』や『ガチャポン』、『ガシャポン』と言ったりもします。

「ガチャ/ガシャ」はいずれもケースの中でカプセル達が攪拌される様や、丸いレバーを操作する音から来ていると推察され、「ポン」はカプセルが手元に落ちてくる様が、さながら「ポン★」と音が鳴るようであるから、という音声語だろうと思います。

 

そのカプセルに入っている品物が、ここ最近(わからんけど5〜8年くらいの間に?)色々なもののミニチュアが増えてきたように思います。

 

 

その流れに対して「なんでかなぁ〜」と、思ったりは正直しなかったのですが、ついさっき理由が分かったやもしれないので、今回この記事を書いている次第です。

 

 

日本はいつからか國民の未婚率が上がり、そんな未婚の方のことを『おひとりさま』と形容するようになりました。

 

そんな『おひとりさま』の方々が日々をどう過ごしているか、というと、そりゃその人それぞれですが、大抵の方は趣味事に没頭従事されているのでしょう。

 

自己探求や修行のために結婚はしない、という意志でおひとりさまでおられる方は、かなり稀有な方でしょう。

 

 

さて、そんな趣味ですが、お人形さんを自作したりされる方、自身が子どもの頃にお人形遊びが好きだった方が成人してから改めて樂しんでいる方が多くいらっしゃるのではないか、と思ったのです。

 

そんなお人形さん遊びをより愉しむための『あらゆるミニチュア』なのかなぁ、と思い至ったわけですね。

 

なので、《ガチャガチャの中身にミニチュアが増えてきたこと》と《日本國における『おひとりさま人口』》とは相関関係があり、その数の推移がそれぞれに比例しているのではないのか、ということです。

 

 

ひとりの酔狂な推測なので、もちろん当てにしないでください。鼻で笑ってください。

 

 

 

 

子どもの頃に好きだったことを成人してから再度愉しむというのは、ある意味では幼児退行的でもあるし、ミニチュアを作るってことは、ある種で箱庭療法的になっている、ということでもあるのですが、それはまぁ別の話で…。

ゲームの『どうぶつの森』もまんま箱庭療法ですしね…。

 

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬

比喩と現実感

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

この間、TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく』で活躍する、結束バンドのアルバムを聴いた感想を書きました。

 

アルバムの感想は以前に書いた次第ですが、このアルバムを聴いていて氣付いたことがありました。

 

 

なぜか対立構造

 

結束バンドのロックは、所謂「ロキノン系」とカテゴライズされる部類のものだと思います。

 

わたくしごとになりますが、『その人の音樂的嗜好を決定づける』と言われる思春期にはL'Arc~en~Cielや、ムックやcali≠gariDEAD ENDPlastic treeなどを好んで聴いていました(敬称略)

 

所謂、世間一般的に『ヴィジュアル系と形容される類のロックです(ラルクV系じゃない、というタブーは重々存じております。日本のヴィジュアル系の文化は《歌舞伎起源説》と《BOOWY源説》、《X JAPANhideさん起源説》があるが、ラルクDURAN DURANthe Cureなどの洋樂のニューウェイヴ、ゴシックロックからの系譜ですからね。ファンの皆様怒らないで わたしはギタリストの中で一番kenさんが好きです)

 

 

なぜかロキノン系とヴィジュアル系は互いを軽視しているきらいがあり、わたし自身、そんな思春期は確かにロキノンは合わないなぁ、と思っておりました。

でもASIAN KUNG-FU GENERATIONチャットモンチーBEAT CRUSADERS9mm Parabellum Bulletは当時から好きでしたよ。

 

知らん人間のつまらない自分語りですが、今もなお刊行されているGIGSというバンド雑誌を買っていた高校生時分にはSCANDALNothing's Carved In StoneRADWIMPSなどの皆様がよく特集されていました。

上記したバンドはロキノン系バンドと言えば、的な方々でもあります。

 

 

長らく「どうしてヴィジュアル系ロキノン系とは相容れないのだろう」と思っておりました。

 

その理由が、結束バンドのアルバムを聴いて少し分かったかも知れません。

 

 

けいよう!

 

『結束バンドのロックは、所謂「ロキノン系」とカテゴライズされる部類のものだと思われる』と、前述しました。

 

ロックという音樂を、〈ロキノン系〉たらしめている要素とはなんなのか。

 

それは歌詞における形容、比喩、メタファーが大きいのでは、と感じます。

 

 

結束バンドの歌詞には、『エリクサー(ギター弦)』や『スワイプ/スクロール』、『あのバンド』、『教室の隅』などの【"特定のもの"を示している言葉】がよく使われています。

 

"特定のもの"を示している言葉】を使うことで、曲の世界が自分の暮らしている世界と地続きになっている、という、ある種の『錯覺的効果』を得ることができるのですね。

 

その錯覺は、現実感や生活感がある言葉を用いているからこそ、もたらされるものであろうと思います。

 

 

それに対して、ヴィジュアルロックは比喩が多い。

多い。

 

そしてその比喩が分かりにくかったりもする。

 

比喩が多いことにより、もちろん非現実感が強くなるわけですが、ヴィジュアルロックを好む方は、音樂に現実感ではなく非現実を求めているのではないか、と、わたしは思うのです。

 

それは(わたしの憶測、妄想ですが)現実から逃れるために音樂に触れているきらいがあるように感じるからです。

 

だから現実感を謳っているロキノン系の音樂は相容れない。

「現実が辛いから非現実の音樂に寄り添ってんのに、どうしてわざわざもっと辛い想いをしないといけないのよ。ふざけんじゃないわよ、黒い球体ぶつけるわよ」となるのではないでしょうか。

あくまでわたしの妄想です。

 

どちらのロックのバンドも、大抵は愛や恋といった平易なものを歌っていたりするものなのですが、その対象に対しての切り口と表現が違うために相入れることができない(なんだかレゲエとヒップホップの関係と似たものを感じます)

 

大抵の人が愛だの恋だのという事象を経験するものでしょうからね

そういった事象はポップなのです。

 

だから、事務所の看板、稼ぎ頭になるバンドは恋愛的〜な歌を良く歌う印象があります。

 

確かに、king gnuさんの『白日』は《恋愛の曲に見せかけた書き方》をしたためにあれだけ売れたのだろうと思いますしね。

あくまで酔狂な妄想と憶測と思ってください。

 

 

比喩は自己満足と映りかねない

ロキノンロックとヴィジュアルロックの違いは比喩があるかないか、その程度、と書きましたが、その比喩によって、それぞれのフォロワーが相容れなくなっている側面もあるのではないか、とわたしは思っております。

 

ストレートな表現を好むロキノンロックのフォロワーはヴィジュアルロックの歌詞に対して「難解な比喩を使っているだけの自己満足」を感じ、ヴィジュアルロックのフォロワーはロキノンロックに対して「ひねりのない幼稚さ」を感じる。

あ、偏見です。

 

 

ちなみにわたしは『音樂』という高尚なものに愛だ恋だのの下劣なものを持ち込むなよ、と思うタイプです。

一番面倒な種族ですねˊᵕˋ )

 

 

そういった歌詞の妙があるから、完全にギターロックな音をしている凛として時雨ロキノン界隈でも特異な存在として異質な立ち位置にいるのではないでしょうか。

特異/異質、は、もちろん褒め言葉です。

凛として時雨の曲なら『illusion is mine』が特に好きです‪( ¨̮ )‬

 

 

『時計の針』を表現する際に「兄弟が追いかけっこをしている」とも「二人の心は近付いて離れて」とかとも表現できますし、「舞台の上であなたが動けば、空の色は変化して」とも表現できます。

まぁくどいし奇を衒い過ぎてて癪に触る表現ですけどね。

歌詞にはある程度の共感は必要。

狂感できない。

 

 

こうやって言及すると『ロキノンロックとヴィジュアルロックの違いは歌詞の書き方だけ』みたいなふうに思えるなぁ。

そうなると音は全部一緒なのかよ、という話になるし、ギターロックとメタルとフォークとヴィジュアルロックは歌詞の書き方でどうとでもできるって話になってくる。

 

そんなわけないし、実際に音の違いはある。

 

音の違いで言うならばなんだ

空間系を多用するのがヴィジュアルロック?

やっぱり魂?

はたまた、やっぱりそのみてくれ?

 

うーん、まとまりがない。

 

 

好きなままでいりゃいい

あ、ここまでのべつまくなし色々と偉そうに書いてきましたが、どっちが良い悪いではなく、それぞれの好みであって好きなんなら良いじゃんって話です。

 

少なくともはっきりしているのは、『これはよくてあれはだめ』といったような村意識じみたものでしょう。

良いものはジャンルに関係なく良い。

良くないものは自分が好きなジャンルにあろうが、良くない。

 

わたしはそう思います。

現時点ではね‪( ¨̮ )‬

 

好きを誇って!

 

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬

多喜

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

年が明けましたね。

2023年です。

 

年が明けた、なんて言っても、カレンダーなんてものは人間が勝手に作ったものなので、いつもの生活とはなんら変わりないわけです。

 

ということで、氣張らず氣負わず頑張らず、それぞれのペースと時間軸で生活すりゃあいいです。

わたしはそう生きますよ。今年も。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

そんな殊勝でわかってんだかわかってないんだかみたいなことを言っている者でも、お正月は感じます。

 

おせちも食べます。正月太りも覺悟の上で酔狂な数日を過ごします。

われは腐っても細胞が巡っても、肉体があると思っているぼんくらな人類ですからね。

 

 

元日、起きておせちを頂きながらおせちのカタログを見ていたのですが、そちらではいわゆるお煮しめのことを『煮多喜』的な言葉で表現していました(『煮る』と『炊く』がほぼ同義であることは承知です。責めないで)。

うろ覺えですが、『炊き』を『多喜』と言い換えていたのは覺えています。

 

「多い喜び」です。

 

 

おせちの具材にはそれぞれ意味が込められているそうです。

そういえば日本という國は、年越し蕎麦にも意味をつける宗教性です。

 

その意味づけがどうとか、阿呆らしいとか、意味ないとかいう話ではないですよ。

 

 

その『多喜』という表現を見た、その一瞬間は、少々鼻白んだ考えが浮かんだのですが、その時に考え直しました。

 

お煮しめに使われるのは、里芋や人参、椎茸、鶏肉、筍、こんにゃくなどでしょう。

その食材がちゃんと収穫できたこと、調理をできたこと、それを食べること、一年という区切りですが、大事に至らずに日々を過ごせたこと、『美味しい』を感じられて感じられること。

 

それらって、全て『喜び』なのではないでしょうか。

そんな喜びを多く感じたり、そんな喜びが多くあること。

それは平易な言葉になりますが、幸せなことであると思います。

 

つまり、人生みたいなものを送れるこということは、実は、喜びの多いことなのだろうな、ということです。

それを実感?するまでには(本当の実感はまだなのでしょうけれど)、ちと時間がかかりすぎていると思いますけどね。

 

全く好い人生だと思います。

 

 

晦日にたこ飯を作ったのですが、それも多幸飯ですね( ¨̮ )

 

 

 

 

しかし、年をとると煮物とかの美味しさがとても実感できますね。

生きるってのは、まぁ悪いものでもないのでしょう。

 

 

 

と、いうことで、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

この年末年始ですっかりハマった曲です。

www.youtube.com

 

#アチョイ