頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

若い、古い、新しい、価値観と、のちに愛國心?

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは本が好きです。

 

去るは五年ほど前、その当時の上司に「何を読んでいるんだい」と聞かれたので、「『犬神家の一族』を読んでいます」と返答をすると、「古ー!!」と叫び、笑って口腔から裏返しになりました。

 

わたしはその上司のことを好ましく思っていなかったので、「ええ、、まぁ。。。」と返答して、裏返しになっている様を横目に読書の旅へ再入いたしました。

 

 

わたしは古典と呼ばれているものも読んだりします。

今読んでいるのは江戸川乱歩さんの『怪人二十面相』で、積ん読平野啓一郎さんの『本心』です。

『良いものは、たとえ古かろうが良い』ということを知っているからです。

 

ですが、一定数【古い】ことに対して嘲り混じった嗤いを差し向ける者もいます。

 

わたしにはこれがわからない。

いえ、当然人間なぞ他人なので、わかるはずもないのですが、だとしても【古い】が嘲笑の対象になる理由が不明なのです。

 

上記した五年前より現在まで、古典を挙げたらば「古ー!!」と叫んで笑いで肉体が裏返す反応を示す者へはモヤモヤを常に感じています。

 

 

逆に?考えてみて、【古い】に価値を置いていないということは、【新しい】にこそ価値を置いているということになります。

【新しい】とは《流行》なども含まれるでしょう。

 

また【新しい】を言い換えれば《若い》にもなると感じます。

 

 

これは偏見ですが、【新しい】を価値基準の軸に据えている人は《若い》を信奉している方が多いようにも感じる。

 

確かに、この世の中は《若い》人間ほど取り沙汰されて扱われているように思います。

その反面、「自分はもうこの年齢だから」という理由で何かをしないという選択をしている人も多いよう。

 

 

果たして、『《若い》や【新しい】=良い』で、『【古い】・《老いている》は悪い』のでしょうか。

 

一つの提言ですが、『《若い》や【新しい】=良い』という心理構造で生きるということは、『《若い》や【新しい】にしか価値がない』ということに言い換えることができます。

つまり、「自分自身には価値なんてないけど、今の自分は《若い》から価値があるのだ」と思っているということです。

それは、本当に真実でしょうか。

 

自分自身というものには価値がないとでも?

莫迦を言っちゃあいけません。

 

あ、でも自分のことは価値なし人間と思いたい人はご自由にしてください。

人の生き方を、所詮よそ者のわたしが変える資格はない。

 

 

別の例えにいらしていただきましょう。

【古い】を言い換えると『伝統』という言葉になります。

この日本國という場所にも伝統や、民自身に伝統の意識はあるでしょう。

 

しかし、主流となっている価値観は『《若い》や【新しい】=良い』というものです。

そうでなければ、こんなに毎日いろんな "消費" が紹介されることがない。

ありえないはずですよ。

 

さてこの『伝統意識』と『新興意識』ですが、これは民個々人が持つ國に対しての思想にも作用するのではないか?と思ったのがこの記事を書くきっかけです。

 

 

『伝統』とは「昔から伝わって来た有形・無形に関わらない風習や様式。またその精神的な面」という意味だそうです。

 

『伝統』を深く意識すれば、昔からの風習や様式を重んじる。

この心理は、のちに愛國心へと遷移するのではないのか、と感じます。

伝統を重んじるだけ、でです。

 

しかし、現代日本において『伝統』はなかなかに軽視がされがちで、『《若い》と【新しい】』が基調になったものがもてはやされているように思います。

 

ん? おや??

それとも資本主義という思想体系自体が『《若い》や【新しい】を信奉する形』になっているのか?

しかし資本主義大國のアメリカさんは愛國心とか言っていたよな。

 

 

今年の元日に『愛國心』についての記事を投稿いたしました。

floodinhead.hatenablog.com

 

その記事の中で「西洋は建物を建て直すのではなく古いまま使う。その理由は景觀を損なわないためであるとか、文化の保存だとか」と書きました。

 

おや、いかがでしょうか。

西洋は『伝統』を重んじているようです。

 

西洋に反して日本は『《若い》と【新しい】』が基調になった即物的なものを有難がって、「若くないものは駄目」や「古いはダサい」という価値基準で生活をしています。

その結果の、日本の愛國心です。

 

と、こんな記事を見つけました。

www.businessinsider.jp

 

この記事では日本の愛國心は七位なのだそう。

思ってたよりもだいぶ高いなぁ、と感じました(日本語で展開されているのだから、そりゃあ入っているか。あと結局自分で調べたのではないので、全面的に信用できるかについては不明)。

 

ということは、日本人は潜在的・無意識的には日本國に対して愛國心を持っているけど、それを外に出していないということなのでしょうか?

或いは日本人特有の謙遜文化で表面化していないだけ??

ありえるな。

 

日本人の謙遜によって、愛國心が資本主義的な価値観に隠れているということなのですかね。

だって資本主義的なものは派手ですからね。

売らないといけないから。

 

まぁとはいえ、『《若い》や【新しい】こそが価値』というのは危険な考えだとは思います。

どちらにせよ、自らの精神を侵しかねないと感じるからです。

 

『若い』とかっていうソフト的なインスタントではなく、経年での経験という年代物みたいなもの、《それを経験した自分》というハード的な部分こそが価値になり得るんじゃないのかよ、とわたしは考えます。

 

とは言っても、『年を取っているから偉い』のでは全くないですけどね。

特にこの現代、のうのうと生きているだけで年取れるような社会ではなおさらです。

年を喰った程度でレベルアップなんかできるかよ。阿保。

 

 

 

あと、わたし思うのですが、『愛國心=政党支持』ではないと思いますよ。

政党や政治というのはあくまでも《國を運用するための装置》であって、國というものの実態ではないと感じます。

國とは、その土地が持っている文化や風習のことだと考えます。

 

 

 

ところで日本語はよいですね( `◟ 、)

 

 

ありがとうございました( `◟ 、)

宇宙は大きくなり続けていると言いますよね。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

以前にわたしは物価についての記事を書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

最近、物価について思ったことがまた一つできたので、今回、記します。

 

どこから説明するのが良いのかわからないので、内容が摑みにくいかも知れません。

 

 

十七年

物価は上がります。

食べ物とかの消費物については収穫量によって変動しますが、本などと言った情報が乗っているものは物価変動での値下げはありません。

 

 

昨年末(2023年)に安部公房さんの『箱男』を購入したのですが、今、文庫本の定価を見て「どひえ」となりました。

680円(税別)だったのですが、わたしが読書を始めた小學生時分には240頁くらいの文庫本はせいぜい400円以内だったと記憶しています。

 

実際、家にあった平成十九年刊行の芥川龍之介氏著作『地獄変・偸盗』(220頁くらい)は362円(税別)でした。

 

どつひえ。

 

「作家によって値段が変わるのではなく、頁数によって値段が変わるのではないか」と考えているので、芥川龍之介さんと安部公房さんという《作家の違い》が値段の相違の理由だということはあまり考えにくいと思います(ともすれば芥川龍之介さんの方が一般認知が広いので、購入しやすい値段設定になっているという可能性は捨てきれない)。

が、今新潮社のホームページを見たところ定価額が407円だったので、作家による違いというのもやっぱりあるのか?と思いもしました。

www.shinchosha.co.jp

 

平成十九年は2007年なので、現在の2024年より十七年も前になりますね(愕然)。

 

その十七年の間に、物価は高騰しています。

労働への賃金もそう変わらず、國民全体の生活水準が上がっていないらしい現状ですが、今回の記事はそこに言及するものではないので、傍に避けておくとして。

 

 

物価、それが上がると、お金がより必要になります。

お金の価値というものは変わらないようにも見えますが、その実はかなり変わります。

なぜかというと、我々人間は【お金】というものを信仰しているのではなく【情報】を信仰しているからだ、とわたしは考えているからです。

 

思い直しても見てください、我々が有難がっている【お金】というものは、結局のところは所詮紙切れです。

その《紙切れ》に情報を載せたことで、情報を媒介することで、我々の生活が成り立つようになりました( "生活" の形状が書き換えられた、とも捉えることもできます)。

 

【お金】というものは、土台《紙切れ》であるわけですが、元の白紙に印刷がされて【お金】というものへ変化・進化します。

 

日本圓で最高金額の紙幣である壱萬圓札は、原価が十九~二十四圓程度、というのはよく聞くお話で、ということは9,976円が情報量やブランド料ということでしょう。

ハイブランド品と原理は同じということですかね。

 

さて、ということは壱萬圓札の上限は壱萬圓なのでしょうか。

 

その答えは、『否』だとわたしは考えます。

 

 

お金が伸びたり…

物価は上がります。

それは、これまでは千圓で購入できたものが、千二百圓かかるということです。

 

壱萬圓札を払って九千圓のおつりだったものが八千八百圓のおつりになるということです。

 

『壱萬圓札』というものは変わっていませんが、変わっているものがありますね。

それは《情報》です。

 

 

「千圓で購入できたものが、千二百圓かかる」ということは、「壱萬圓で購入できたものが、壱萬二千圓かかる」ということです。

この場合、壱萬圓札は一枚ではなく二枚必要になるということです。

 

何が言いたいかというと、『【お金】という媒介物に乗っける《情報》を、情報率さえを上げさえすれば良い』ということです。

 

これは『お金が伸びたり縮んだり』というやつですね。


www.youtube.com

 

そうすれば、大衆は二枚の壱萬圓札が必要となり、紙幣を印刷する側は19,952円の儲けとなるわけです。

 

となると『値上げを行なった企業』が悪いのか、怒りの矛先は其処なのか?という疑問が生じてきます。

 

企業は製造コストとして、材料を仕入れます。その材料を仕入れた際のお金が原価ってやつですよね。

その原価に、人件費や次の企業戰略への資金などの諸費用を追加した金額を設定し、市場へ売り流すわけですが、それは資本主義とかの商売の基本なのでとやかく言うつもりはありません。

企業としても、原価率を低くしたいというのは資本主義経済の根っこたる部分であろうと考えられるからです。

 

 

企業も「製造するための材料」を仕入れるために【お金】を支払っているのですね。

では、その材料の金額設定やらをしたのはどこか。金額設定をする理由となった根本はどこなのか。

 

 

実際には『企業が悪い』とかではなく、「そう決断するに至った《情報》に原因がある」のではないのか?と考えます(いや、『企業が悪い』という部分や場面も確かにあるとは思う)。

 

見えやすいものは『見え易い』ので目につきやすいですが、実際には奥にある見えないものが理由になっていたりするのではないでしょうか。

『有名無力、無名有力』というやつですかね。

 

 

さあさあ、これは壮大なお話になってきましたね。。

 

 

ダンシング!インテリジェンス!ダンシング!ダンシング!

さてはて、ここまで書いてきたことはあくまでもわたしの妄想である虚妄から去来したことであるので、話半分温冷湿布半分帆布船です。

 

経済やら商売について、わたしはづぶのしろうとなので、専門家の方々におかれましては上の考えを鼻ででも笑っていてください。

 

 

しかしまあ人間というのは情報に踊らされて右往左往するのが好きですね。

よく飽きないなぁ、と思ったりもするのですが、もしかしたら『情報に踊らされているとも思っていない』或いは『踊らされた記憶すら失くしている』とかなのかしら?とも思いました。

 

さて、人のふり見て我がふり直せ。自覺と自戒をしてこれからも生きます。

生きていけるのかは、また別の問題。

 

 

とってもかっこいい。

www.youtube.com

 

 

そういえばわたしが読書に没頭しだした頃と現在とで、ハードカバーの定価は二千円前後だったような氣がするのですが、ハードカバーはあんまり定価変動していないのか?

しかし、わたしが基本的に文庫を好む人間なので、昔の記憶自体が曖昧である可能性は大いにあります。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

人間社会の人間生活は辛苦な氣分が多い。

 

心臓や心を鋭利にすっぱりと寸断してくれれば諦めがつくものの、心の表皮を薄く薄く削いで来やがる。しかも錆の浮いた切れ味の悪い刃物で、である。

 

かぐや姫が地球に来たのは、罪人だったから。という説があるそうですが、わたしにはこの世の中は地獄だと感じるので、やはり罪人説を推しますよ。

 

なんらかの事故によって生命体が死んだ時、その生命体の肉体から本物の血液と本物のばねや歯車が出て来た場合、我々はその生命体に対して何を思うのだろうか。

 

 

基本的にAlc.を呑むと厭な想いに苛まれるけど、今日はそういった通常が起きないので、良い酒だ。

 

久しぶりに実家以外で自分用に瓶酒を買った。

フォーエバー祈りの作品 ~追記もしました~

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

もともとは觀るつもりがなかったのですが、心機一転、映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を観てきました。

 

www.kitaro-tanjo.com

 

 

ゲゲゲの鬼太郎』についてほとんど知らない者であるところのわたし

そもそも、こちらの動画様にて映画の存在は知っていたのですが、「鬼太郎知らんしなぁ」ということで一旦はスルー。


www.youtube.com

 

ぼんやりと氣になってはいたものの、上記の理由から鑑賞は見過ごしていたのですが、元日の深夜、以前より好きで觀ていたインターネットプログラムにて下記の動画を拝見しました。

youtu.be

 

すると?どうやら?横溝の要素がふんだんに入っている?とのこと?だったので、横溝正史作品好きという理由で鑑賞いたしました。

 

鑑賞後の感想ですが、確実に觀てよかった作品だと考えます。

しかし、それは「めちゃくちゃよかったから觀て!」という熱量で薦めるものではなく「よかったねぁ…。あの作品は良い作品だったよ。」としみじみと旨さに酔うような感覺です。

 

 

煙草

あらすじなんてどこにでも書いているので端折ります。

この記事ではわたし個人が「おや?」と思った部分に対しての感想を書きます。

それとネタバレもします。

 

 

まず、主人公の一人である水木さんが東京より哭倉村へと向かう場面にて。

列車の中で咳き込む幼い女の子がいるにも関わらず、乗客である男性は本当にほとんどが煙草を呑んでいます。

ここでの場面について、鑑賞中は「まぁ、、時代もあるしね…。。。よくないけど…。。。」と思っていたのですが、鑑賞後の今思い返せば『大人の勝手によって割りを喰うのはいつも若い世代』ということの暗喩だったのかな、と考えます。

 

ちなみに、この鉄道列車で水木さんも煙草を吸おうとします。

ここで持っているのがPeaceですね。

 

わたしは非喫煙者なのですが、島田荘司さんの『ゴーグル男の怪』にてPeace缶が登場するので存じております。

Peaceは美味しいらしい。

 

さて、このPeaceという煙草は自販機などで見かけても、他の銘柄に比べて割高な価格が設定されております。

今調べたら他の銘柄と二倍近く値段が違う場合もあるそうで(ひえっ…)。

 

ちなみにこの水木さんは上昇思考を持っている人物として描かれるのですが、成り上がりと成金思想を持っている人物が、他の煙草よりも割高である高級煙草を吸っている、というのは、人物に対しての造形が緻密であることなのかな、と感じます。

 

なお、この車内では水木さんは結局煙草を吸いません。

これは『《車内で煙草をふかす》という行為を車内で行うと、【下の世代が苦しむ世界】がマジョリティかつ平和となってしまう』から、なのかな、などと邪推をいたします。

 

 

村意識

哭倉村へと到着した水木さん。

現代の日本がほとんど忘れてしまったところであろう、『田舎』の美しい風景が展開されます。

農道を歩いていると、下駄の鼻緒が切れてしまい困っている少女と出会います。

 

「お貸しなさい」とばかりに自身のハンケチあるいは手ぬぐいで下駄を修理する水木さん。

下駄を修理する際に、「肩、使ってええやで。あと足も大変やろからわいの腿に足乗せぇ」と少女に声をかける水木さん。

 

この少女は沙代さん。

 

鼻緒を修理する場面にて、沙代さんが頬を赤らめる描写がされています。

この場面は物語の冒頭も冒頭なので、単純に異性に慣れていない少女なのかな?と觀客に思わせることができると思いますが、鑑賞後に考えると『自己保身と利己に取り憑かれた村と一族の因習』の中で生活して来た沙代さんからすれば、水木さんの行動は、初めて沙代さんに向けられた利他の行為だったのかもしれません。

 

物語が進むにつれ、沙代さんは村から逃げたいために水木さんに言い寄ったのか?と思える描写がありますが、ともすれば、沙代さんは水木さんに対して淡くもあれ本当に恋心を抱いていたのかもしれません。

 

しかし、水木さん自身も「よっしゃ!ここでこの娘さんに恩をかけといたら後々都合上手く回るかもしれへんやで!」と思っていたのかもしれませんけどね。

 

 

そんな沙代さんの鼻緒を直すと、一人の少年が二人の元へ走って来ます。

これが時弥くん。

二人の元へ到着すると、水木さんに対して「あんさんが村に入ってきたよそ者かいな」と言います。

 

そうです。

村という組織、コミュニティにおいての情報伝播は凄まじく早いと言います。

わたしはそこまでの田舎で育ったことがないので経験したことはありませんが、もしかしたら現代の電脳で支配された時代よりも噂の広まる速度は速いんじゃないでしょうか。

規模にもよりますけどね。

 

この時弥くんが水木さんに話しかけた時、水木さんの肩越しに家屋が映されていましたが、あの手法はおそらく常套的、一般的な手法だと思いますが巧いな、と感じました。

 

 

千木、男神

水木さんが龍賀家のお屋敷へ向かう途中、山の上にある鳥居の姿が確認されます。

 

朱色は緑色と反対の色に当たりますが、あんなに目立つのだなぁ、という感慨がありますね。

ところで、山の上に神社の御社が建てられていることってよくよくありますが、あれってなんでなのでしょうね。

神棚とかの意味合いと同じ?

 

「土砂崩れとか起きちゃったら大変だよな」なんて、鑑賞中思っていました。

 

 

龍賀家のお屋敷に到着した水木さんですが、豪邸ですね〜。

 

湖畔にある豪邸、お屋敷。

婚礼もお葬式もできるように大広間として設えられた和室に大勢の人間。

大勢の人間の中で遺言状を弁護士?の方が読み上げる場面。

一族と神社とが繋がりがあることなど、非常に横溝正史さんの作品『犬神家の一族』をオマージュし引用しておりました。

 

特に遺言状を読み上げた後に「うちは分家なのに!」という場面なんて、市川崑監督作の『犬神家の一族』からまんま引用しています。

 

さてはて、『先代の龍賀時貞翁が神社と繋がりがあった』という話ですが、これも『犬神家の一族』の斧琴菊へのオマージュでしょうし、この村にある神社は男神を祀っていました。

その神社が女性の神様を祀っているのか、男性の神様を祀っているのか、というのは、屋根にある千木の部分が外削ぎ(縦方向に切られて、断面が外向き)になっているか、内削ぎ(水平に切られて断面が上向き)になっているかで見分けます。

 

そういったことで、この哭倉村で祀っている神様は男神だったのですが、この村の因習と、時貞翁の野望?を鑑みても男性価値觀的であるので、御誂え向きなんだな、と今になって思います。

 

 

飲めるもの、呑めないもの

水木さんが務める血液銀行で懇意にしている、龍賀克典さんを龍賀家の跡取りにしたいがために哭倉村へやってきた水木さんですが、早々に目標は潰えます。

 

克典さんは水木さんへ「ちょっと時間を寄越しんさい」と予定を取り付け、自身が後継者になれなかったことへの愚痴を水木さんに聞かせます。

上手い酒(ウヰスキーかブランデー)を飲み、話を合わす水木さん。

 

克典さん「あんさん《M》って知っとるか?不老不死には成れんまでも飲んだら疲れなんて吹き飛ぶいう評判やさかい、えら人氣でな。ほんでこの《M》の原液をここ哭倉村で作っとるっちゅう噂や」

 

水木さん「うわさ?」

 

克典さん「せやねん!わし製造場所知らへんねん!わてなんて結局は婿養子や、そもそもがわいなんかに龍賀を継がせる氣なんてなかったんや!あんちくしょうジジイ!」

 

水木さん「(氣の毒なこっちゃな。)」

 

克典さん「でも《M》の製造工場を見つけたら、わいも龍賀に噛み付ける!どや?探すん手伝ぅてくれたら、あんさんもよしなにしたるで?」

 

 

相手が取引先の手前、話を飲み込む水木さん。

「話がわかるやつやで」ということで、克典さんが水木さんに葉巻をあげます。

その葉巻を呑み、激しく咳き込む水木さんを見て大笑いしながら上機嫌で座を去る克典さん。

 

 

場面は変わって「なめやがって!」と怒る水木さんは、克典さんからもらった葉巻を湖へ投げ捨てようとします。

その時、のちに目玉の親父となる男(劇中ではゲゲ郎と呼称されています)を見かけ、「…何しとるんやあいつ…」と思って男を追います。

この時に葉巻を胸ポケットにしまったので『捨てへんのかい!』と思いました。

 

 

ゲゲ郎さんと一件あったのち、水木さんはゲゲ郎さんへ煙草を一本あげます。

物語の冒頭に登場したPeaceでしょう。

 

物語の序盤にあった場面では『子どもたちが被害を受けることの象徴』として、克典さんとの場面では『利己行動の象徴』として煙草が描かれていて、そして水木さんはその二つに対して「のめない」の意思表示をしていました。

ですが、ほとんど世捨て人的に、利己的弱肉強食な世界に傾倒していく世の中に対して逆行しているように思えるゲゲ郎さんに、水木さんは自ら「吸うか?」と煙草を差し上げます。

 

【Peace】という言葉は「平和」という意味がありますが、利他の行動を行うゲゲ郎さんに煙草をあげた、ということ。

この時点で、「そもそも水木さんは利己でしか動けない人間というものには従うつもりなどなかったのだろうな」と考えます。

 

 

にしても、ゲゲ郎さんはいい人なんですよ。

哭倉村にやってきた理由は『生き別れた妻を探すため』なのですが、ゲゲ郎さんが話す妻への想いと恋慕がとても良かったし、本当に大事に想っているんだなと感じられました。

 

『田舎で日陰者で生きてきた俺とは対照的に都会で育った妻は、人間の愚かさも全て受けて入れて愛するような素敵な人だった』

 

 

ふにゃふにゃ

物語の中盤に、一つの見せ場であるゲゲ郎さんと裏鬼道の面々との格闘シーンがあります。

 

あれは多分満場一致で『すごい』と思うんじゃないでしょうか。

御多分にもれず、わたしもそのひとりです。

 

わたしは基本的に格闘シーンのようなアクションシーンにはほとんど興味がないのですが、あのちゃんばら含めた大立ち回りは流石に『凄い』と思わざるを得ません。

 

あの凄さは2023年に公開された宮崎駿さん監督の『君たちはどう生きるか』の冒頭にある「眞人さんが群衆をかき分けて進む場面」と同等の凄さだと感じます。

 

それまでの場面とは明らかに線や表現、タッチなどが変わり、ふにゃふにゃの線になっていたのですが、その表現がダイナミックさや派手さに繋がっているように思います。

その表現を見た時に映画の『鉄コン筋クリート』を想起したのですが、同じ感情を覺えた方はいらっしゃいますでしょうか。


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ちなみに『鉄コン筋クリート』は『クレヨンしんちゃん』の映画を想起したりもします。

鉄コン筋クリート』も素晴らしい作品なので、是非ともご鑑賞くださいましたら幸いです。

 

 

ちなみに、その格闘の場面は全て一人のアニメーターさんが描き上げたとのことらしいのですが、そんなの驚くしかないですよね。どっひゃ!

20:00~から


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あたまでっかち

なかなかに胸糞の悪い展開ののち、屋敷の最深に辿り着くゲゲ郎さんと水木さん。

そこには時弥くんがいたのですが、その実その正体は時弥くんの魂を追い出して時弥くんの肉体を乗っ取った時貞翁でした。

 

うーん、さすがは人間の行う所業です。

 

全ての絡繰を話す時貞翁の憎たらしいこと。

ネガティヴな言葉はなるべく使いたくないですが、愚図の外道で畜生ですね。

 

わたしは人間に対して期待していないので、「まぁ人間だもんね…そういった愚かな行いをするのも人間の専売特許」と思っていましたが、それでも腑がふつふつと煮立つ感覺を覺えました。

人間を諦観していない人にはかなり辛いものがあったんじゃないのでしょうか。

 

 

さて、時弥くんの肉体を乗っ取った時貞翁ですが、その見てくれがかなり奇妙なものになっています。

時弥くんの子どもの肉体に老人の頭が乗っかっているんですからね。

かなり奇妙です。

 

で、この造形について思ったのですが、これって『精神性は未熟なのに利己の脳みそだけが発達した』ということの表現だったりするんですかね。

時貞翁は「今の若者はなっとらん。これは儂がこれからも世を良くせねばならん」などと、まぁどこでだって聴けるしょうもない意見を口にします。

しょうもない(しょうもない)です。

 

 

どうやら聞くところによると、『今の若者、あいつらぁだめだ』の主張というものは紀元前から老人たちが口にしていたそうです。

2010年くらいから《『今の若者、あいつらぁだめだ』の主張》は淘汰され始め、今ではあまり聞くことがありません(残滓のように今もいるのだろうけど)。

 

そんな紀元前から言われている主張がこの近現代になっても言われているということは、人間は変わっていないということだし、ということは今は老人でも昔は若者。

「あんたも『今の若者はダメだよ』の対象になってたってことでしょ?誰も成長できてないんじゃん」ということなんじゃないの、と思います。

人間は成長できない。

 

 

ゲゲ郎さんが時弥くんに対して「いつの時代も自己保身のために改革を良しとしないものがいる」と話しておりましたが、全くその通りと感じます。これはこの現実な世界においても。

 

 

氣絶していた水木が斧を持って時貞翁のいる場所へ向かった時に、時貞翁は「会社を持たせてやるし、いい酒、いい女、いい服、なんでも充てがってやる。だからいうことを聞け」という、まっことしょうもない誘いを水木に持ちかけますが(しょうもない)、それに対して「お前つまんね〜〜やつ」と水木がNOの返事をするのも素晴らしかったです。

 

物質的なことで相手を支配してきた時貞翁であったために、「儂を殺したら狂骨が暴れるぜ」と狼狽えますが、そもそも、狂骨を収めている髑髏を割ったらいいだけじゃん。そんなこと誰でもわかる。

 

 

結局、物質主義で生きている人の底って其処なのだろうな、と思います。

自分という人間・魂一つが薄っぺらくてしょうもないから、金を積めば買えちゃう【インスタントな価値】に飛びついてそれに塗れ、それで満たそうとする。

 

また時貞翁は明言はしていなかったですが、おそらく不老不死を求める類の輩でしょう。

この《不老不死》についても、所詮はその人自身が自分のことを大した経験もしていないしょうもないものだと無自覺的か自覺しているからこそ、不老不死なんて阿保らしいものを求めるのだと思います。

死んだら自分の証明ができないから。

 

人間、いや、生物なんて老いて死ぬのが本望だろ。

 

わたしは思うのですが、『何を持っているか』になんて価値はなくて、《何かを持ったこと》で起きた感じた『自らの心の機微』にこそ価値があるんじゃないのでしょうか。

ものなんてあの世には持っていけないし、朽ちるんだしさ。

 

 

ゲゲ郎いい奴

時貞翁が堕ち、てんやわんやな地下空間。

 

搾取され続けていた幽靈族の皆さんも、狂骨になります。

この場面、彼ら彼女らの無念を想うと悲しい氣持ちもあるのですが、それよりも良かったのじゃないかと感じます。

おそらくあの状態で生きていても、それこそ生き地獄だったのだろうと思うし、それならいっそその苦しみから解放した方がまだ良いんじゃないのかと考えます。

もちろん怒りや恨みや無念もあったのだろうから、部外者であるわたしがいう言葉の一つ一つは想像でしかないのですけど。

 

 

てんやわんやな状況で、水木さんはゲゲ郎に「逃げるやで」と言いますが、ゲゲ郎さんは動きません。

狂骨になってしまった同士たちの鎮魂のためにも背負う決断をするのです。

いい奴だよ。

 

その場面で、ゲゲ郎さんは「息子が生きる世界を見たくなった」と言いますが、ここは思わず泣きましたね。

厭世をしていたゲゲ郎さん自身が自分の子の世代のために、全てを背負う決断をしたのです。

ゲゲ郎さんの半生は少ししか描かれませんが、厭世をしていた人が愛する人と出会って、その人との子どものためを想っての行動です。

 

これも子どもを駒としてしか見ていなかった時貞翁や、飯の種として、自身の利益や自慢のため、自分が成し遂げられなかった夢などのために子どもたちを私物化する昔からの【大人】に対しての叱責なのかな、と考えます。

 

たとえてめーの子どもだろうが『独立した個人』だっての。目を醒ませ。

 

 

時ちゃん、そして "利益" に弄ばれた人たちに対して

てんやわんやの末、水木さんは助かって、物語は現代へ戻ります。

旧哭倉村の跡地に記者の山田さんと鬼太郎さんらが集まり、『最後の狂骨』と対峙しますが、その時に目玉おやじさんが氣付きます。

 

その狂骨は時貞翁に魂を抜かれた時弥くんだったのですね。

それに氣付いた目玉おやじさんは「世界一の電波塔が建っても人間は愚かだし、貧困も無くなっていない。申し訳ない」と時弥くんに謝罪をします。

「何か言いたいことはないかい?」と鬼太郎さん?が時弥くんに言いますが、その問いに対しての返答が「忘れないで」でした。

ここの答えがあまりに悲しかったので、泣きましたし、今も泣きそうです。

嫌だったよなぁ。一人の横暴のせいでみんな苦しんでるんだもんな。悲しかったよな。

 

この場面で思ったことがあります。

それはダムのことです。

その昔、村としてあったものも、ダムの建設のために今では水の底にあるなんてのはざらにあるのでしょう。

きっと『日本の発展のため』などと嘯いて開発をしていたのでしょうが(工事をしていた "人" は悪くないです)、生まれ育った土地に二度と行くことができないというのは、おそらく相当に悲しいことなのだろうと思います。

 

ダムにかかわらず、そんな "利" に惑わされて弄ばれた人たちへの鎮魂をこの場面で感じていました。

 

そんな悲しいを感じて亡くなった方々には、どうか来世では幸せに生きてほしいな、と願うばかりです。

 

 

雑記

ここでは端書みたいな内容を列挙いたします。

 

 

地下空間にて巨大狂骨とゲゲ郎さんが闘う場面、狂骨の色の塗りが日本画とか浮世絵っぽい手法で表現されていたのと、狂骨の姿が歌川国芳さんの描いた『がしゃどくろ』を想起しました。

 

水木さんさぁ、灰になった沙代さんに手を合わせるくらいはしないといけなくない?

彼女も無念で亡くなったんだしさ。

 

そうだ、この作品ってPG12指定でなかなかにグロテスクな表現やしんどい描写とかもあるのですが、鉄パイプの場面だけは「えぐ…」となりました。

なんとういかコミカルにしている風にもしているように感じたのですが、だからこそ、コミカルっぽくしているからこそエグさが際立つみたいな感じです。

 

閉鎖的な空間で育った人が外の世界に行きたいと思いを馳せるのは、当然といえば当然だと思いますが、横溝作品を思うと『女王蜂』っぽかったか?と思います。

 

 

最後に

はぁ、長い、

わたしの感想は大抵長くなる。

 

しかし、觀て良かったですね。これは今年ベストかもしれません。

 

鬼滅の刃』といい、わたしはやっぱり願いや祈りの込められた作品を好むみたいです。

「誰が至強か」なんてしょうもないものは見ていられないです。

 

敗戰以降に、より顕著になった日本國の利己主義ですが、利己主義って結局自己満足でエゴなんだな、と感じます。

『誰が至強か』なんてものを決めたところで、畑は耕せないし作物は実らないのです。

 

『誰が至強か』なんて阿保なことは少年の頃はしても良いと思いますが、いい加減に利他の精神を覺えなさいなって。

現時点での考えですが、おそらく人間は利他で祈って愛を与えるしか方法はないです。

 

しかも愛は与えれば湧き水のように溢れますからね。

でも自身の愛を自分のために独り占めしようとすれば、愛は枯れます。

不思議なものですね。

 

 

水木しげるさんの作品も読んでみよう( ¨̮ )

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 


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2024/01/15 追記 ~二回目鑑賞しました~

はい。

二回目鑑賞してきました。

 

一回鑑賞したら良いかな〜と思っていたのですが、皆々様のご感想を聞いて「えっ!そうだったの??!」と思った箇所を確かめたかったためですね。

 

とりあえず、一回目の感想(上のもの)に対して、ニュアンスが違ったかも?と思ったところを追記として書きます。

 

まず、列車内での煙草の場面。

あれ、水木さんは少女の咳に氣付きながらも、煙草に火を点けようとしたので「吸うんかーい!」と思いましたが、やっぱり結局は吸いませんでした。

しかし、あそこは少女を思いやってというよりも『吸う機会を無くした』という感じでしたね。

あの場面の後に吸っていたかも知れませんしね。

 

また、ゲゲ郎さんに「死相が出ておまんな」と言われたとき、水木さんの背後に浮かぶ影の皆様ですが、戰爭にて従軍された方々なのですね。

 

 

ゲゲ郎さんが狂骨たちの依り代になることを決心しますが、この場面は「友が生きる世界を見たくなった」と言っていたのですね。

『息子(のちの鬼太郎)が生きる世界』ではありませんでした。記憶ってのも曖昧だ。

 

あとゲゲ郎さんは厭世の人ですが、厭世の人だったからこそ《昔からの恨み》の依代に進んでなったのかな、と思います。

そうなると、「息子が生きる世界」でもあながち間違っていないんじゃない?と思いますが、それはわたしの都合の良い解釈でしょう。

 

 

横溝作品へのオマージュについて。

初回鑑賞時、『地下から繋がる洞窟がある』はなんかの作品だったな、と思いながらも思い出せなかったのですが、確かに『八つ墓村』だったような氣がします。

八つ墓村』も四、五年前に再読して以来なので、大分と記憶が曖昧です。

 

次女の丙江さんは長女の乙米さんよりお金をせびっている?様な描写がありますが、これは上記にて引用した『犬神家の一族』の松子さんが自身の母親にお金を渡している場面のオマージュなのかな、と感じます。

 

また上記にて『女王蜂』について少し触れましたが、この『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』が《親の罪を子が背負う》という話になっているのもオマージュなのかも?と感じます。

 

 

日本人形について

冒頭の列車の場面にて。

咳をしている少女が日本人形を抱えていました。

 

鬼太郎たちが居た哭倉村跡地にも同じ日本人形がありました。

これであの少女が哭倉村に来たことがわかります。

 

 

ゲゲ郎さんが捉えられ、龍賀家の地下にある病棟?に入る際、脇のゴミ置場に少女が大事そうに抱えていた日本人形が棄てられていました。

ということは、彼女も《M》の製造に利用されたのだろう、ということがわかるのですが、少女の咳が持病の喘息などからくるものだったとしたら。

「哭倉村に来たら娘さんの咳もきっと良くなりますよ」などと唆され、やって来たのだとしたら。

これは邪惡ですよ。流石にこれは看過できない。

 

「娘の咳をどうにかしてあげたい」という親心で頼ったものに騙されていた、というのは、あまりに非道すぎてこの仮説を思い浮かんだ時、思わず絶句いたしました。

あくまでも妄想です。

 

ですが、《M》への贄を村の外からの人間にさせ、村の人間は「村の外から贄になる人間を集めていた」とのことですので、そりゃあ首謀者じゃないにしても同罪だよ…。。と感じます。

 

そして、あんな吹きさらし雨ざらしの廃村で日本人形は朽ちていませんでした。

地下に居た、とはいえ、人の出入りがない場所は大氣の流動がないために物の朽ちるのが早いと言います。

それなのに朽ちて居なかったというのは、時弥くんと一緒で彼女も「忘れないで」と思って居たからなのかもしれないな、と感じました。

 

業の深い話だな…。悲しい。

 

 

それと、ゲゲ郎さんが村の子どもたちから石を投げられますが、村の人間はゲゲ郎さんが幽霊族の者であることを無意識的に搾取対象と認識していたから、石を投げたのか???と、全くな深読みをしたりもしました。

 

 

などが二回目の感想でした。

一回目を鑑賞した後、『墓場鬼太郎』と『ゲゲゲの鬼太郎』のTVアニメ第六期一話を觀ました。

墓場鬼太郎』の絵のタッチが最高に格好良かったので、原作漫画も読んでみようと思います。

あと、原作鬼太郎が可愛くて癒しだったので、それも氣になる。

 

あと、鬼太郎さんは本当に通ってこなかったのですが、鬼太郎さんって結構人間に対して冷たいんですか?

おやじさんが思っていた以上にお茶目だったのでファンになりそうです。

 

たんこぶ作ってるおやじさんとか可愛すぎでしょう。

 

 

改めて、ありがとうございました( ¨̮ )

 

少年ジャンプの幼稚性 PART Ⅱ

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

以前わたしは、少年ジャンプというものの幼稚性についてを言及いたしました。

floodinhead.hatenablog.com

 

「幼稚だなぁ」という想いは未だ変わらず、『幼稚だなぁ』への意見がより深まっています。

今回は、そんな《幼稚性》についてを書きます。

 

しかし、何かに対して幼稚だと思っているということは、わたし自身にも幼稚さがあるということの証明なのですけどね。

 

 

基本理念(会社か?) ~仲間意識編~

少年ジャンプの基本理念に『努力』『友情』『勝利』があるといいます。

そして、わたしはその理念に《仲間意識》というものがべったりと貼り付いているように感じます。

 

《仲間意識》

嫌な言葉ですね。

仲間じゃないと助けたりしないということでしょうか。

意識が狭いと個人的に感じます。

 

実際、コミュニティは「コミュニティ内で共有されている常識」を知らない人に対して非常に排他的であるように感じます。

 

しかし、"コミュニティ" というものは、必然的に仲間意識が強固になっていくものなのでしょう。

それはもう仕様がない部分だと思います。

ですが、わざわざコミュニティ外にいる人を排他する必要はないはずではないのか?とわたしは感じます。

 

お分り頂けますでしょうか、《仲間意識》が『仲間はずれ』を生んでいるのです。

まったく皮肉ですね。

それとも、「自分が所属するコミュニティの外にいる者のことなど知ったこっちゃない」という姿勢なのでしょうか。

 

そういった姿勢で切り捨てるのは、ある意味では美しい思想なのかもしれませんね。

確かに、コミュニティの外にいる存在は、ともすれば危険分子である可能性もあるのでしょうし。

 

ですが、わたし個人としては『仲間だけ助ける』という価値観は、ぬるい意識だと思います。

見知った人だけ贔屓にする、というのは、あまりに視野が狭い。

しかし、許容できる量が『仲間分』だけの器なのかもしれませんね。

 

 

基本理念 ~努力編~

以前、酒場で出会った四十代くらいの方がお話ししていたことがあります。

「目の前にあるもの、それが自分に乗り越えられるかわからないけど、乗り越えるためにも頑張るしかない。努力を行うしかない。結局は少年ジャンプに帰ってきて、やっぱり少年ジャンプはすごい」というような内容でした。

 

そのお話を聞いていたわたしなのですが、そんな当然のことを今更得意満面で主張されても、と思っていました。

そもそも、努力なんて自分で努力だと思ってするものじゃないし、努力なんて呼ばれているものを他人にひけらかすものでもない。とわたしは考えています。

 

『ひけらかすこと』「ひけらかしたいという想い」が念頭にあるのだとすれば、その努力と呼称されているものは、自分のためにしているのではなく、他人からの評価のために行なっているということになる。

つまり、主としてある行動原理の軸が『自分のため』でなく『他人のため』にあるということになります。

 

 

この『他人のため』という行動原理自体は問題はなく、毒性もありません。

「自分の子や後世を生きる人たちのためにできることを考える」という行動は『他人のため』という利他が元になっているためです。

 

しかし、「自身の努力をひけらかすこと」については、『他人のため』に行なっていることを『自分のため』に行なっていることだと思い込んでいる節があるように感じるのです。

 

何方だったかが仰っていたらしいですが、「努力を努力だと思っているうちはまだまだ」と同じですね。

所詮努力なんて他者評価だし。

 

 

【他者からの評価】で勉強をしたり、仕事に勤しんだり、そういった方は往往にして何時の時代にもあるものだと思いますが、そんな方々ほど精神的に参っていく人が多いように感じるのも実際です。

 

精神的に参るのは【他者からの評価】に依存しているからだと、わたしは感じます。

「君は駄目だね」と言われでもしたら、自分自身の価値がなくなるとでも勘違いしているからですね。

ですが、他人などに「君は駄目だ」などと言われようと、果たして自分の価値がなくなるわけがないのです。

 

 

勝ち負けなんてものをつけるのもナンセンス、だと感じますが、これは特に個人的な価値観が強いでしょう。

でも、『誰が至強か』なんてことを決めたところで、お米や麦は育ちません。所詮は自己満足です。

 

『爭いが生むのは勝者でも敗者でもなく、戰災孤児だけ』ということでもありますしね。

 

 

結論 うるせえな、てめえ自身が必要だと思うことをしろ。他人に惑わされるな

ここまで色々と少年ジャンプについて批判を行いましたが、つまり、『視野が狭いこと』と『価値基準の程度が低い』と感じるために好きになれない、幼稚に感じる、ということですね。

「努力とかいう氣持ちの悪い意識を棄てて、お前自身が必要だと思うことをしろ。他人から認められたいなどと思うな」と、「汝、隣人以外も愛せや。《仲間意識》なんてものがあるから爭いが生まれるんだよ」ということです。

 

 

しかし、少年漫画というのも基礎道徳的な役割を担っていたりもするので、必要ではある、と感じます。

ですが、それもあくまでも『少年』と括られる年代まで。

二十歳をとうに過ぎた、【大人】を自称する人さえもが、未だに少年ジャンプを有難がって読んでいるというのは、それこそ幼稚性の証明なのではないでしょうか。

 

 

まぁ、結局のところ、どうだっていいし、どうぞ好きに御生きになれ、という感想。

 

 

ちなみに、一応わたしも昔は少年ジャンプの作品を読んでいましたよ。

『ワンピース』もアタバスタ編までは娯しんでいましたし、空島編が終わるまではなんとか読んでいました。

空島編で中だるみを感じてしまってから離れました。

 

そんな『ワンピース』は少年ジャンプという漫画雑誌の看板を背負っています。

背負っているからには、基本理念の『努力』『友情』『勝利』をなぞらえているわけですが、その立場などから敬遠をしておりました。

 

が、以前も書いたように『正しく嫌うため』に、今、コミックスの第一巻から読み直しています。

東京に行った際に漫画喫茶のお店で読む程度なので、非常に牛歩ですけどね。

今はバラティエ編でクリークが食事をして復活したあたりです。

のんびり読んでいきます。

 

しかし、基本的に少年漫画って技とかが派手になって行って、インフレーションして、飽和するじゃないですか。

あの流れになると冷めてしまうんですよね。途端に興味がなくなる、というか。

「それって後出しでなんとでも言えるやん」というか。

 

 

あ、再三言っておりますが『鬼滅の刃』は好きですよ。

鬼滅の刃』に関しては祈りですからね。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

『意識』に《入れる》

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回の主題は【自信】についてです。

わたしが何度も言及していることですね。

 

「まーた言ってんのかよ。解散」なんて、まぁ、思わず。

 

 

わたしは、自信という言葉が嫌いです。

もう言い切ります。

これはこのブログにおいて何度となく書いていることです。

 

『自信という言葉が嫌いな理由』も過去に書いたと思いますが、改めて記します。

 

『自信という言葉が嫌いな理由』は「自信を持っているか、否か」という話において、『《自信が無いこと》を前提にして考えられている』から、です。

『物を持つ』ということは、そもそもがそのものを持っていないから持つことができるはずです。

であれば「自信を持っている」ということは、そもそも《自信なんて無い》ということになります。

言葉というものは面白いですね。

 

《自信が無い》から、他のもので埋めようとする。

その埋めようとする他のものが大概体外的なものだから、色々と歪みが出るのだと感じます。

 

そもそもが、「存在している」という時点で自信などは不要なはずですよ。

 

 

『自信を持っている/自信が無い』と形容されますが、この言葉自体もおかしいと感じます、「持っている」の反対は「持っていない」ですが、「無い」の反対は「有る」です。

つまり、『自信を持っている』の反対は『自信が無い』ではないのです。

まったく、悪どい。

 

 

そして、『有る』ということは「持っている」のではないので、初期設定が《持っていない》ではないのですね。

 

そういったことたちが、巧妙に隠されていることや、それに氣がつかないようになっている構図などひっくるめて、わたしは【自信】という言葉が嫌いなのです。

 

 

 

はて、ふと思いました。

「まず【自信】という言葉が『意識』に《入った》ことがいけないのではないか?」

 

昔、聞いたことがあります。

「肩こりという言葉ができたから、肩こりが生まれた」

「トラウマという言葉が生まれるまで、トラウマというものはなかった」

実際のところは、上記と同じようなもの、似た性質のものは言葉が生まれる前までにもあったと思います。

 

しかし、そういった言葉たちが生まれたことで、その事象が結実化した。

 

これが、【自信】という『意識』にも通ずるのではないかと考えています。

【自信】という価値観を知らない人に、【自信】という価値観を『意識』に《入れる》。

すると、その人は「自信があるか、ないか」という状態に変わります。これは洗脳と言えるかもしれません。

 

 

【自信】という価値観を知らない方が確実に生きるのは樂になると感じます。

ですが、現代では【自信】という価値観が『意識』に植え付けられた人がほとんどでしょう。

なぜでしょうね。

資本主義や利潤が絡んでいるのかな??

 

 

【自信】は、個人的に近現代的な考え方だと感じます。

しかし、残念ながら【自信】という言葉が日本でいつから用いられているかについては知ることができませんでした。

ですが、わたしはそもそも「【自信】という言葉は、西洋的な価値観なのではないか?」と微弱に考えています。

いつからこの価値観が日本に入ってきたかについては、憶測であっても言及いたしませんけれどね。

 

 

ありがとうございました。