本日もご訪問ありがとうございます。
えーとご無沙汰しております。
特に色々はなかったのですが、色々とあったので(いや、むしろなかったから?)更新がありませんでした。
生きていますし、『NSA』の下巻がとっても面白いです。
今回の記事は以前に書いたことの清書です。
昔、ある先輩が話していました。
「人間関係ってさ、ジャブを打つみたいな感じじゃん。ちょっとだけ失礼なことを言ったり、踏み込んだことを聞いて相手の反応を見て、距離感を図る」
これは以前に『甘噛みコミュニケーション』として記事にしたことですね。
今読んでみると「何言ってんやこいつ」と思いますね。「Maji おまえ何言ってんの」な性分。
その持論を聞いたときは「はー、そんなもんっすかねえ」と思っていました(そもそも思ってもいなかったかも)。
数年を経て思うことですが、わたしはその考え方、対話方法は好きじゃありません。
なんというか、その接し方って個人的に誠実ではないというか真摯ではないように感じるんですね(個人の価値觀であるため、どっちが良い・悪い、ではない)。
そんな感じで数年が経過し、多くも少なくもない対人を繰り返すことで思ったことがあります。
確かに、『ジャブを打つ対話』をしてこようとしている人は、いる。 ということです。
しかし、惜しむらくは「相手がジャブを打ってきていること」が、わたしには見えてしまうのですね。
ある日
労働の場にて、わたしが八十八ヶ所巡礼さんのことを話し、共に労働を行なっている人がご自宅で曲を聴かれたとのこと。
そのときは『幻魔大祭 Single Ver.』を聴かれたそうです。
その方から聞いた感想は忘れたのですが、曲の説明?を求めらたか何かでその当時『幻魔大祭 Single Ver.』をデモ版だと勘違いしていたわたしは「デモ版?」とかと説明をしました。
そしたらば「デモ版の曲をあげんなって感じですよね〜」とその方が話しました。
どこかわたしの出方を伺っているような印象があったように記憶しております。
またある日
弟と車に乗っていました。
わたしと弟は後部座席にいます。
走行中、あるものを見てわたしは驚きました。
そのあるものとは、仏具店の駐車場に立っていた仏像です。
その仏像は印相をしていたのですが、右手の思惟手が藥指ではなく中指だったのですね。
『思惟手は藥指』と思っていたので、「思惟手の中指版があるんだ!」と無學なわたしは驚いたのです。
と、驚いたわたしを見て、弟が「どうしたの?」とわたしに質問をしました。
それを受け、わたしが『思惟手の中指版もあるんだね、知らなかったびっくり』を説明したところ、「え、中指ってこういうこと?」と言いながらわたしに向かって中指を立ててきました。
もうこれはジャブとかじゃないですね。
ただのストレートパンチです。
しか〜し!
正直上記した二つとも、釣り針が大きすぎています。
特に後者はルアーですらありません。
The 針
It's 針
This Is 針
そんな具合です。
というわけで釣り針が見えてしまったため「ノンノン、そんな見え透いた釣り針ではダメですよ??」と内心に思いながら相手の打ってきたジャブやらストレートやらを受け流します。
わたしを怒らせたいならもっと巧妙にしないと。
と、いうのがこの数週間くらい前までです。
で、この間の記事『人は』に繋がります。
もしかしてなのですが、「わざと釣り針をバレバレに見せていた」のではないでしょうか。
わざとゆっくりジャブを打ってきていた、ということです。
どうしてそんなことをしていたのか、というと、喧嘩がしたいからです。
喧嘩なんてしない方が良いとは思うのですが、『喧嘩するほど仲がいい』という言葉のとおり、仲が良くないと喧嘩にすらなりません。
あと、怒らない人って超然としている印象がありますが、その超然感と共に「不氣味さ」もあるように感じます。
なんというか、『怒る』って生物っぽいからです。
いくら失礼なことをされていても怒らないというのは「人間ができているなぁ」と感じると同時に、底知れなさに畏怖の念と共に不氣味さを(まだまだ若輩者のわたしとしては)感じます
その不氣味さを払拭したいがために、ジャブを打ってくる。
『相手が人間なのかどうか、確認したい』がために、わざと喧嘩に繋がりそうなことをふっかける。
ということなのではないのか、と思い至りました。
相手様の希望を(それに付き合うか否かは別として)考えられなかった。考えられていなかったのに『ノンノン』などと得意氣になっていた。
わたしはとんでもなく未熟者だったのだ、と知りました。
「ウワー、ちょう未熟者じゃん」です。
自分自身が未熟者である、ということを知れたので儲けものだと氣持ちを切り替えます。
精進します。
ウワー。
えーと、考えすぎ、ではあると思います。
ウワー。
ありがとうございました( ¨̮ )