頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

1984年といま

 

ご無沙汰しております。

劇場版 鬼滅の刃の感想以来です。リピート鑑賞はまだできていませんが、他の色々な映画は鑑賞しました。

罪の声やザ・ハント、朝が来る、スパイダーバースなど。

 

『朝が来る』は二回も見ました。でもあの作品は何度も見なければいけない作品だと思います。わたしのような語彙が貧弱な輩にはとても言い表せない作品でした。

 

スパイダーバースも別の意味合いでよかったよ。

 

 

 

1984

さて本題ですが、今回はジョージ・オーウェル著の「一九八四年」という作品の話をしたいと思います。

 

 

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https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000009459/author_Agyo_O_660/page1/order/


 

この作品はディストピア小説の大名作と言われており、実際に読んだ感想としても素晴らしい大名作だと思います。

昨今の世界情勢を見ても、「いよいよ、一九八四年の世界になってきたな」という形容がされたり、現実との引き合いにされたりします。

 

この記事では内容に触れた話をするので、作品を読んだ後、または中田さんのこちらの動画を見たのちにお読みください。

 

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↓↓以下ネタバレ(中田さんの動画では触れられていない部分です)↓↓

 

 

 

 

 

 

持続可能な戰争

作品内では超大国の3ヶ國が絶えず戰争を繰り返しています。

この戰争も、もう何年も続いています。

作品のクライマックスあたりで、この戰争も八百長だということが明かされます。

 

オセアニア、ユーラシア、イースタシアの3大國は互いにいがみ合っており、そのために戰争が繰り返されていると大衆には知らされています。

土地を巡って3國が2対1の構図になって、時に敵味方が入れ替わって、戰争を続けています。

 

が、実はその戰争は3國が共謀して「表向きは敵対し合っているように見せて、裏では手を組んで戰争があるように見せている」ものだったということが判明します。

 

3國が手を組んで、表向きは戰争をすることで、「外國は敵」という意識と、「過度な緊張を永続的に与えることで大衆の思考力を削ぎ、為政者への支持を強固にしよう」としていました。

オセアニア、ユーラシア、イースタシアの3大の為政者が、為政者の位置に居続けるために手を組み、八百長で戦争戰を続けている。

 

初めて読んだ時の衝撃はすごかったです。

 

 

わたしが昨日、ピンときてハッとしてグッとしたのは、「過度な緊張を永続的に与えること」です。

 

これって今現在の「コロナ禍」の構図と一緒じゃないか?

 

 

構図とリンク

2020年に世間を席巻した「新型コロナウィルス

その猛威はいまだ衰えず、いつ終息するのか不明と言われている。

 

「だいたい終息まで3年くらいかなぁ」なんて悠長に思っていて、3年目の終わりに「あと5年延長です」と言われる。それが何度も何度も繰り返されたとしたら?

思考する体力も削がれ「まあ生きていれるだけで十分」とでも思うのではないでしょうか?

「なんだかんだで最初から対応してくれてるのはあの政党なんだから。悪くいうのもやめよう」とでもなるのではないでしょうか?

 

 

『一九八四年』の恐ろしさや現実とのリンク性は「言論統制」や「独裁政治」にあるとばかり思っていましたが、上記のようなシステマチックな構図にもあったのかと思ったお話です。

 

 

 

フィクションと現実の区別ができないなんてバカでナンセンスだよね(笑)

 

という主張は、理解できるしごもっともだとも思うんですが、フィクションが生まれるのは現実がきっかけだし、フィクションに元気をもらう人も一定数いる。

実銃を撃ち合って死屍累々な戰争の映像に「これはフィクションです」と注意書きが書かれていれば、現実の戰争がなかったことになる、その戦争で死んだ人がなかったことにされる、ということと同じではないの?と思うのです。

それってフィクションの映画を撮影するためなら、実際に原爆を落としても良いっていう考え方にも飛躍できてしまうと思うんです。

フィクションのラベルが貼られていても、被曝した土地や生物は存在するわけではないですか。

 

こういったフィクションと現実の関係性は、映画『朝が来る』を観て考えるようになりました。

あれはよくあるフィクションでは「いなかった存在」にされる側の話ですからね。

 

http://asagakuru-movie.jp/

 

ぜひとも観てほしい作品です。

 

 

 

私がこういった思考になるのには、伊坂幸太郎さんの影響、特に『モダンタイムス』の影響があるので、またいつか書いてみたいと思います。

『マリアビートル』の「なぜ人を殺してはいけないのか」の考えは一度は読んでみることをおすすめします。

 

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https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000184852 


 

 

 

ありがとうございました。

 

【劇場版 鬼滅の刃 無限列車編】東洋思想と西洋思想【解釈と感想】

 

ご無沙汰しております。

 

昨日、『映画 鬼滅の刃 無限列車編』を鑑賞いたしました。

その内容がとてもよかったので、感想と共にわたしの解釈も綴らせていただこうかと思います。

 

https://kimetsu.com/anime/

 

 

↓↓以下、ネタバレ↓↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

売れた理由

時は大正。炭焼きの家庭に生まれた竈門炭治郎(かまど たんじろう)が、鬼へと変えられてしまった妹の禰豆子(ねずこ)を、元の人間へと戻すために戦うお話です。

 

昨年あれだけ売れたのでご存知の方も多いとは思います。

わたしは売れるまで不勉強ながら存じ上げませんでしたし、売れているものへの拒否感という醜いものも持っているようですので、全く興味がありませんでした。が、今年の7月くらいに動画ストリーミングサイトにてアニメ全話が配信されていたので、とても軽い気持ちで見たら、とてもよかった。

やはり売れるものにはそれだけのパワーがありますね 笑

 

売れた要素として、「敵にも目を向けた」というのがやはり大きいと思います。

いままでのジャンプ作品は、悪役は絶対的な悪役で、悪役のまま倒されるという構図でした。

ですが、この鬼滅の刃「悪役(鬼)が、どうして悪役になってしまったのか」を描いています。

それが、パワハラモラハラをしている人にも、それをするに至った過去がある」こと、それをわかってほしい側の氣持ちと合ったのだと考えています。

とはいえ、された側は溜まったものではないと感じるのも想像に難くありません。

 

昨年公開され、大ヒットになった映画『JOKER』も、悪役はどうして悪役になったのか、が描かれていた作品でした。

 

そして、主人公がその悪役へ労りや慈しみを持って対峙する。辛かった過去をそのままおざなりにするのではなく、悲しみをちゃんとケアして解放しようとする。

罪を憎んで人を憎まずの姿勢を一貫している。

 

「辛い当たり方してるのは自分でもわかってるけど、これ以外の接し方がわかんねえんだよ。この接し方しかされてこなかったんだよ」という、無意識にしまいこみ、見ないようにした(見えなくなった)叫びみたいな感情を、フィクションを通して自己ケアする。

その『みんな声あげてないんだから自分も我慢しないと』みたいな押し殺した感情をほぐす、そんな演出をしていたから、現代でヒットしたのだとわたしは思いました。

 

 

禰豆子を鬼へと変えた敵の親玉の組織が、非常にワンマンブラック企業的階級社会

そんでもって支配の仕方が、恐怖政治的なもの。

 

ワンマンな環境というのに対して、わたしは、これまでのジャンプ作品を連想したんですよね。ワンピースとかの。

海賊という、一つの船で生きる生活のスタイルであるがゆえに、トップが気に入らないと仲間に加えないというのは、構造状、当然ではあると思うのですが、それってワンマン会社のやり方に他ならないとわたしは感じます。そういったワントップの作品がヒットしていた'00年代、'10年代だったから、堀江貴文さんのような存在が表舞台に見えたのだとも思います。

 

その、従来のジャンプセオリー、スタイルのようなものを敵の立場に起き、それに対して「いや、やっぱりそれも行きすぎちゃ毒でしょ」と異議を示した。それもジャンプ作品が。

そこにわたしは「ただもんじゃねえな」と思ったのです。

 

ちなみに、わたしはアニメシリーズと今回の映画を見ただけなので、無限列車編以降のお話は存じません。楽しみですね。

 

 

無限列車へ

さて、その無限列車に炭治郎御一行が乗り込むところから劇場版の物語が始まります。

先に乗っていた先輩隊士の炎柱 煉獄杏寿郎(れんごく きょうじゅろう)と合流した後、鬼の罠により深い眠りの世界に落ちてしまいます。

この時に炭治郎は煉獄さんにもたれかかるのですが、これは「柱に寄りかかる」ということを表現しているんですよね。

 

煉獄さんは弟との稽古、炭治郎は家族との生活、我妻善逸(あがつま ぜんいつ)は禰豆子ちゃんとの逢引、嘴平伊之助(はしびら いのすけ)は自身が隊の長となり洞窟を探検する夢。

正直とても見ていてきつかった。

 

善逸と伊之助はギャグ要素が強かったけど、煉獄さんと炭治郎は「本当に見たい望み」だったから。

善逸の夢で桃の木が出てきて、まんま桃源郷の意味なんだろうと思うんですが、善逸が兄弟弟子に怒られているシーンも桃が登場します。なにかその後のお話で触れられるのでしょうか?(夢の世界は黄泉の世界と繋がっているってこと?)

 

 

鬼が夢を使う理由。

人の見る夢は心の中心にあり、その夢の周りに無意識空間がある。その無意識空間にその人の魂の核があるから、それを壊せば廃人になる。

 

 

その役目を鬼がするのではなく(勘づかれる為)、子どもが請け負う。大人ではなく、子どもが。

ここもかなりしんどくて、自分は直接手を下さずに自分より弱い立場(しかも子ども)を使うというのは、非常に現代的だと感じて、本当にしんどかったです。

また、鬼が得意げに言っていた、

 

人間は心を原動力にして生きている。だからその心を壊せば廃人と化す。人は脆い(意訳)

 

という文句も、過労死などが顕在化してきた現代だからこそだと感じました。

 

 

炭治郎の核の破壊を命じられた結核の少年は、無意識空間に足を踏み入れます。

この時にウユニ塩湖だったから「なんでウユニ塩湖???」と思ってしまい、ちょいとしたノイズでした。😉

その空間内で透明な小人と出会い、その子らへ「炭治郎の核はどこ?」と聞いたところ頭上のお日様を指差す。その暖かさを感じ、少年は炭治郎の核を壊すことを諦める。

この一連から、悪意を持って近寄ってきたとしても、「頭から否定するのではなく、まず相手を受け入れましょうね」と言ったようなメッセージを受け取りました。

 

アニメの時から、炭治郎の耳飾りの柄などから『ヒノカミ』は火ではなく日(陽)だろうな。と思っていましたが、やはり日の神でしょうね。

後述しますが、鬼のトップが炭治郎(その耳飾り)を目の敵のごとく嫌う理由もわかります。

ずっと居たい夢の中の世界と背を向け、自分の首を斬って夢から覚めた炭治郎は、先頭車両にいる鬼と対峙します。

 

 

赤信号、みんなで渡れば怖くない

この夢というのは、現実逃避。列車はレール。

 

死の列車(現代社会の地獄)に、みんな乗っているけど、共に夢(現実逃避)という、見て見ぬ振りという共通の苦痛を共有すれば辛くないでしょ?」

 

という意味なのかなぁ、と思ったので、きっついな…とうなだれる感情と「起きて戦え!!」という炭治郎の叫びにも、うなだれました。きつい。

 

 

そもそも、鬼殺隊が列車へ乗った目的が「列車に鬼が出る」ということなのですが、夢の中にも鬼が出現します。

これがかなり厄介な部分で、夢の中の鬼を斬ることで『問題が解決した』という気持ちが生まれます。

それにより、本来見なきゃいけない根本の問題に目がいかなくなるという事態が発生する恐れがあります。

 

凶悪犯を捕まえることが解決に思われるけれど、"どうして凶悪犯になったのか"の原因(生い立ちや組織での役割)を知り、根本の問題を解決しなければ新しい凶悪犯は生まれ続ける。

そういったことを言っているんだろうな、と思いました。思いましたが、問題を解決したと思ったらその奥にもっと根深い問題が隠れてました。それがエンドレスになると考えたら、頭が疲れますし、現実逃避をしたくもなる気持ちも理解できます。

 

 

先頭車両の鬼と対峙し、死闘を繰り広げる炭治郎。

その際に鬼が「無惨様(鬼のトップ)がこいつに固執する理由がなんとなくわかった。感情を逆撫でされているような、嫌な気持ちにさせられる(意訳)」と言います。

 

鬼は太陽が沈んでいる夜の間しか活動ができません。

 

鬼を退治する方法は、専用の刀で鬼の首を斬るか、日光に当てるかしかありません。

その夜の間に悪事を行うのですが、日の神たる炭治郎(竈門家?)は存在自体が太陽のようなものなので、鬼側からすれば非常に居心地が悪いのではないかと思います。

所詮一消費者の三文推論ですけどね😉

 

 

そのあと、夢から覚めた他の隊員と共に鬼の討伐を始めます。そこの描写についてはわたしは門外漢なので感想はありません。とりあえずかっこよかったです。

 

善逸が覚醒するトリガーが「氣絶」、「無意識状態」なのを忘れていたので、善逸が活躍した時に「やられた!そうだったわ!」と膝を打ちました。

 

鬼の技で、炭治郎がひどい悪夢を見せられるシーンがあるのですが、彼にも深い罪悪感があるんだなと感じて、とても辛かった。

ですが、その夢を見せてきた鬼に対して激昂した炭治郎が言った台詞がよかった。本当によかった。

 

 

車掌に腹を刺され、手負いの状態ながらも伊之助と共闘し鬼の首を討った炭治郎。

 

首を斬られた鬼が「クソッ!俺が負けた!あいつ(炭治郎)を殺して無惨様へ献上し、より強くなるために血を分けてもらうつもりだったのに!そして上弦(トップ6)の陸へ入れ替わりの決闘を仕掛けるつもりだったのに!!……上弦って百年も顔ぶれが変わっていないんだったか…。それほどまでに上弦は強いのか…!!!」と言いながら灰になるのですが、この構図もブラック企業的だなと思いました。いつだって切られるのは末端。

また、彼の背景が描かれなかったのは残念だなと思いました。

 

 

朽ちる肉体の美しさ

炭治郎が煉獄さんに労をねぎらってもらっている時に、上弦の参(もっと強い鬼)が襲来します。

 

その理由は"煉獄さんの強さが氣に入ったから、不老不死の鬼になって共に武を極めよう"というもの。

それを断った煉獄さんは鬼の首を獲るためにすっごい死闘を繰り広げます(語彙貧弱)。

 

その戦闘中に鬼が「鬼になれば、傷も潰れた内臓もすぐに治る。死ぬこともないからずっと鍛錬が続けられるんだぞ。どうして人間の体にこだわる?」と煉獄さんに問うのですが、鬼の問いに対し「確かに人は脆く、傷も治るのが時間がかかる。腕も切れたら戻らない。だが、それこそが命の美しさ。尊さだ」と答えます。

 

このやりとりで、鬼側はネクロフィリア(死生愛)。隊士(人間)はバイオフィリア(生命愛)なのではないかと思いました。

言い方を変えると、鬼は画一性人間は多様性

そこからタイトルの東洋思想と西洋思想の話に繋がるのですが、とりあえずリンクの動画をご覧ください。

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この話で触れられているように、鬼側の画一性は一神教的な西洋思想(統治、支配)。

人間側の多様性は八百万的な東洋思想(困った時はお互い様)のような感覺なのではないかと思いました。

 

不老不死の鬼には生き続けるという一つの選択肢しかないのに対し、生老病死の人間には様々な選択肢が存在する。

 

西洋建築は「石造りで完璧に、完成させる」のに対し、東洋建築は「木造で、かつ、柱の木を一本だけ逆にして、わざと完成をさせない

東洋建築のわざと完成させない考え方は「完成させてしまうと、あとは朽ちるだけになってしまう」という思想かららしいですね。

古来から自然災害が多かった日本という土地において、朽ちることがありませんように、という願掛けの意図もあったと思います。

 

 

youtu.be

 

生の多様性を死の画一性で支配し(WW2後)、その支配の度が行き過ぎたのが現代。

ということなのではないかと思いました。相当なバイアスがかかっているとも思います。

 

 

鬼とのすっごいすっごい死闘を繰り広げたあと、煉獄さんは命を落としてしまうのですが、(多様性)の尊さを我が身を以て表す(鬼への反抗を示す)ために、鬼にはならず死を選んだのかな、と、今氣付きました。

また、鬼に誘われた際に「君とは価値基準が違う。その考え方には賛同できない」と煉獄さんは発言するのですが、その返答さえも相手を否定しておらず、距離を取っている。

そこにさえも多様性を受け入れているんですよね。相手の鬼は強いか弱いかの二択。

これも、今氣付きました。

 

 

生と死のみが伝えられること

結果、日の出に焼かれることを恐れた鬼は逃げます。

逃げる鬼を炭治郎は斬ろうとしますが、煉獄さんはそれを諌め、命長くないと察して炭治郎にお説法を説きます。

 

そこのお話と演出が本当〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜に素晴らしいほど素晴らしく素晴らしくて。

 

胸を張って生きろ
 己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと

 心を燃やせ 歯を食いしばって前を向け
 君が足を止めて蹲っても時間の流れは止まってくれない
 共に寄り添って悲しんではくれない
 俺がここで死ぬことは気にするな
 柱ならば、後輩の盾となるのは当然だ
 柱ならば誰であっても同じことをする、若い芽は摘ませない
 そして今度は君たちが鬼殺隊を支える柱となるのだ
 俺は信じる、君たちを信じる

 

 

これを話している煉獄さんの背中を朝日が照らし、後光になっているんですよ。

これから仏様になるという意味合いと、年長者が下の世代へ橋渡しするという意味合いだと思いました。

その煉獄さんに対し、めそめそする炭治郎へ伊之助が、

 

死んだ生き物は土に還るだけで、悲しんだって生き返らない。悔しくても、悲しくても、恥ずかしくても、生きていかなければいけない

 

と叱咤したのも本当によかったです。山育ちの伊之助が言ったのが、より沁みました。

 

煉獄さんがこと切れる間際に、黄泉の国にいる母親に認められるのですが、その後に煉獄さんが笑顔で旅立つのが、悲しいけど、暖かい。本当に素晴らしいシーンでした。

 

本来あるべき姿の儒教だと感じました。上記した大正という時代背景なのも大きいのでしょうね。

 

 

またアニメを見ている時から思っていたのですが、やっぱり、女性作家さんの描く家族への愛は、男性作家さんが描く愛の形とは違ったものを感じますね。

男性性の愛は『縄』や『綱』状なのに対し、女性性の愛は『布』であったり『織物』状の印象。だから、鬼滅にしてもハガレンの荒川さんにしても、包み込むようなイメージが浮かぶのですかね。

 

 

 

 

あと、個人的に「あーやっぱり」と思ったのは、

炭治郎が伊之助へ「(車掌が炭治郎を刺したことで)俺が死ねばあの人が人殺しになってしまう」と言ったのちに、煉獄さんから「君が死ぬと俺が負けたことになってしまう」と言われていて、「やーっぱり自分が言ったことは自分へ返ってくるんだなー」と思いました。余談ですけどね😘

 

 

👇二回目👇

 

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👇鬼滅の刃 考察👇

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

 

【たまご】パラサイト 半地下の家族【ネタバレ】

 

アカデミー賞は伊達じゃないね!〉

 

映画『パラサイト 半地下の家族』を観ました。

http://www.parasite-mv.jp/

 

すごい映画だなって思います。

 

 

↓↓以下、ネタバレです↓↓ 

 

 

 

 

 

 

 

Parasite - 寄生生物・寄生虫・居候

 

 

 

 

最初タイトルを見たときは「金持ち家庭に貧困家庭がパラサイトし、金持ち家庭を食いつぶし、家の長となる物語かなー」と思っていました。

違いました。

 

物語の発端は半地下住居に住む主人公家庭の青年・ギウが、留学に行く友人・ミニョクの代わりに女子高生・ダヘの家庭教師をお願いされるところから始まります。

「大學も出ていないからと」一度は断るギウですが、ミニョクのお願いを受け入れたギウは妹・ギジョンに手伝ってもらい大學の卒業証書(か入学書)を偽造します。ここからこの映画のトリックは始まっています。

 

その後、シーンは変わり仕事先の豪邸へ向かうギウ。この豪邸が主人公一家の"宿主"になります。

豪邸の美人奥さんによる家庭教師の授業試験を見事パスしたギウは、ダヘの弟・ダソンの絵を見て、妹のギジョンを上手く宿主家庭の美人奥さんへ紹介します。その時にはギウを信じきっているのでギジョンの存在を疑うことなく快諾します。

同じ要領で奥さんを上手に使い、主人公一家が豪邸へ寄生します。

 

この寄生先家庭のイケメン旦那がいかにもな上昇志向なんです。

豪邸に住んでおり、ベンツに乗り、IT会社の社長で家政婦さんを雇っている。

 

 

この作品においての「パラサイト」は貧困家庭がブルジョワに寄生するものと思っていました。

 

この作品の寄生関係はとても複雑です。

家政婦のブルジョワ一家への寄生(依存)ブルジョワ一家の家政婦への寄生貧困一家のブルジョワ一家個人への寄生ブルジョワ一家の主人公家庭への寄生

 

そして、価値基準の寄生

 

美人奥さんの「アメリカ」

イケメン旦那の「資本主義的観念・におい」

ギウの「大学に行っているかどうか」

主人公家庭の「豪邸は良い。半地下はダメ」

 

これらは全て自分で価値を見つけたもののように思えますが、それは三者の価値観にすぎません。

この映画は(作中の、そして観客)当事者が寄生する物語ではなく、価値観や価値基準を知らぬ間に産み付けられている・寄生されてしまっている、というメッセージなのだとわたしは受け取りました。

 

だからこそ、ヨーロッパ的な階級社会の価値観を植えられていないネイティヴアメリカンを、まだ幼く他者からの価値観に染まりきっていないダソンは好んだのではないかと思います。

 

そして事件の後、ギテクの照明を用いたメッセージをギウが読み取り、返信の手紙を書きます。

そこにいるのは見事成功し例の豪邸を不動産屋から紹介されているギウの姿です。

 

その姿がBTS超新星などの韓国の男性アイドルそっくりで重いパンチを食らった気分になりました。

どこまでいっても、世の中の価値基準は誰かの価値基準の手の上なのだと感じたからです。

 

その手紙では豪邸の地下室に逃げ込んだ主人公家庭の亭主・ギテクとギウが抱き合うシーンがあり、そこで暗転します。

そこで「こんな‪終わり方かぁ…」と思っていたら、半地下住居でギウが座っておりギテクへの手紙を「わたしが豪邸を手に入れるまで、どうかお元氣で」と書いて締めます。

 

ギウは半地下住居でまだ暮らしています。それを見て「平民以下はどこまで行っても平民以下なんだから」とでも言われているような感慨を受けました。

そんなラストの作品が『身の丈発言』で物議を醸した國で大いに話題になりヒットしているってのはすごくヘビーでアイロニカルだな、と、わたしは感じました。

もちろん作品自体がめちゃ面白いのもあるんだけどね!

 

 

あと最初に半地下家庭の居間のテーブルに乗った便所コオロギをギテクが指で弾き飛ばした直後にギウとギジョンが携帯の電波を得るためにトイレに行ったのはラストの比喩だったのかなとも思いました。

 

 

 

 

 

 

 

最初の〈アカデミー賞は伊達じゃないね!〉も他者の価値基準ですシニカルアイロニー

 

 

鑑賞二回目の感想

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

映画ジョーカーのラストシーンの新解釈

 

映画「ジョーカー」のラストシーンの新解釈をぶち抜く!!

 

 

前回、映画「ジョーカー」の感想と考察を書きました(読んでいただいた方ありがとうございます)。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

あれを書いたあとも、ラストシーンがずっと腑に落ちませんでした。

話題作ですし、様々な方がジョーカーという映画を評論し考察を巡らせていました。

 

 

その考察の半数以上はラストの精神科医との会話、

「ジョークを思いついた、でもきっと理解できないよ」に集中していると思います。

作中にもアーサーには妄想癖があった描写があるので、この映画はまるごとアーサーの妄想なのではないかと考察する人も相当数いました(壮大な夢オチ的な)。

 

 

でもわたしは納得がいかなかった。

単純に全部が妄想オチだと萎えるってのも大きかったけど、辻褄が合わなくね?と思っていた。

時系列的に、ラストのカウンセリング→退院して作品冒頭のカウンセリング(「入院していた頃のこと覚えてる?」のあれ)→物語の肝になる数々の出来事、なら辻褄が合いはするが、「わざわざ自分からしんどい道選ぶ?」って思うし(得てして精神疾患の方はただ生きるだけでしんどいのだけど)。

 

そしてふと思いました。

「理解できないよ」と言っている人と、その言葉を「誰に対して」言っているのか、の認識が間違っているのではないか。

アーサーがカウンセラーに対して話していると思っているから理解できなかったのだと、そう思いました。

 

あの発言は製作陣の言葉なんじゃないかと思います。

その解釈に至るには劇中の妄想も深く関係します。

 

「このお話はぜーんぶアーサーの妄想でした」

ではなく、

「”このお話はぜーんぶアーサーの妄想でした”ってしたら面白いんじゃない?」

という製作陣のメタ視点的ジョーク

だから劇中の登場人物のカウンセラーには理解できないし(製作陣の手の中だから)、カウンセラーに対して話しているもんだと思って見ている観客にも理解はできない。

あの発言はアーサーからカウンセラーに、ではなく、ホアキンから観客に話しているのではないでしょうか。

 

この解釈で考えてみるといろいろしっくりきますし、ヒースジョーカーが毎回違う傷の物語を話すユーモアとも合致します。

そして「この話は全部アーサーの妄想ってことにしようよ」と製作陣が言うのってすごくジョーカーらしいジョークに思えるのです。

 

上記の解釈も含めて、とんでもない喜劇(観客は踊らされているわけだし)だと思うし、映画(映画考察)という歯車に観客が組み込まれているのも、モダンタイムス的と言えるのかもしれません。

 

 

映画ジョーカーのあらすじと感想とネタバレ

 

 

ジョーカーを最初に観て思った感想は「凄まじかった」でした。
どういう映画かと聞かれたら「心の機微がわかる人にこそ観てほしいし、機微がわかる人にこそ観ないでほしい映画」だと答えます。感想が多いですね。

 

また、面白かったし最高!なんだけど、面白い!とも最高!とも言えないなと思いました。こういった経験をしてきた人もいるだろうからです。

 

 

 

↓↓以下、ネタバレ↓↓

 

 

 

 

 

 

 

 

アーサーくんの生活

冒頭のメイクをしながら右目から涙を流すシーンからアーサーがだいぶ追い詰められているんだなということが分かります。
そしてクソガキにいいようにされてタイトルクレジットが出てくる。こういう映画ですよ、という提示をしています。

 

 

変わってバスのシーン。男の子を楽しませているのにその子の母親に心ない事を言われる。有無を言わさないほど。それがきっかけでアーサーの障害が判明します。

ここで不憫というか悲しいのが、ラミネートカードなので目の前の相手にしか病気のことを知ってもらうことができない。

病気のことを知らない人からするとアーサーは狂人としか映らないのです。それがとにかく悲しかった。

 

 

あとムカつくのがラミネートカードをアーサーに返さなかったことです。

「てんめぇ"返して"って書いてるだろうが!!」と渡した母親に強く思いました。

 

あのカードがあればアーサーの未来はちょっとでも変わったんじゃないかと思います。

あとあの母親の下だとあの男の子もいずれジョーカー予備軍になるのではないかとも思いました。

 

 

痩せきったアーサーの背中のカットに変わります。仕事道具のブーツを伸ばしているギリギリという音が疲れきったアーサーを表しているんだと思いました。

そこでクソ同僚のランドルがアーサーに自衛のためと拳銃を渡します。そこから話はどんどん展開して行きます。

 

そんなクソ同僚ランドルが発したジョーク(不快)に笑い声をあげるアーサーですが、同僚の視界外にくると愛想笑いをやめます。
「空気読んで愛想笑いしてるじゃん…そんなことしなくていいのに…」って思いました。つらいだろうアーサー。

 


アパートのエレベーターでソフィーと一緒になった時、こめかみを撃ち抜いたジェスチャーソフィーがしたことに対し、廊下でアーサーが同じジェスチャーを、よりリアルにし返したけど、それを見せられてどうしろっていうのさアーサー。

ソフィーも返答に困っていたじゃないかアーサー。コミュニケーションが下手すぎだよアーサー。

 

 

小児病棟のシーンで楽しそうに踊るアーサーは本当に生き生きとしていた。この時間がずっと続いてくれと思った。
でもクソ同僚ランドルからもらった拳銃が落ちるハプニングで小児病棟側からクレームがあり、アーサーが所属していたピエロ派遣の会社をクビになります。でもそのハプニングで笑っている子もいたよ。
(ちなみにアーサーがクビを宣告される時に「この嘘つきめ(Liar)!クビだ!(Fire)」って韻を踏んでて、そんなとこでも韻踏むんだって思ってました)

 

 

ジョーカー性の発芽

そして地下鉄。
車内の電気がバチバチと明滅しています。これはアーサーの中のジョーカーが誕生するのを暗示しているのだと思います。

 

駅へ止まり、商社マン3人が乗車してきます(最初學生かなんかだと思っていました)。

その3人がなんとも金とセックスが好きそうな上昇志向な3人なんです(偏見)。前に座っている女性に質の悪いナンパまがいのことをして断られたら芋を投げつける。

食べ物を粗末にしてはいけない

 

あげく女性が逃げたら「Bitch!(クソ女)」だなんて。

わたしとしては商社マンの方が無法者に思います。

あとアーサーが女性と商社マンとの仲裁に入ったって言ってる人いたけど、わたしにはそんな描写はなかったように思う。


空氣に耐えきれなくなったアーサーが笑う。商社マンからすればナンパが失敗したことを笑ってると思う(仕方ないね)。アーサーは病気なんだと弁明しようとするがカードはない(バスの母親め)。まあ実際カードを商社マンに提示できたとしても商社マンが信じるかどうかは怪しいけどね。

到着した駅は9番外駅。


そしてアーサーの中のジョーカーの目覚め。この時に撃った弾の数は8発。

 


そのあとにアーサーが公衆トイレで踊ります。これはアーサーの中にいるジョーカーの解放や、異常性を表してもいるのだとも思いますが、動転している気持ちを落ち着かせる為の、自分の好きなことをして平静に戻るための行動だったんじゃないかなと思います。
次にソフィーにキスをするシーンに変わりますが、あれはアーサーの妄想だそうですね。そりゃメイクしたままなのに誰かわかるはずねーよな。

 

 

アーサーが口にするのは薬だけで、母親のペニーにごはんを作り、運んでいる時にテレビにトーマスが映ります。

それを見てペニーが「ウェインさんが出てるわ!」とはしゃぎ(?)ます。なんか今の政策とか自民党政権を無条件に支持してる老人世代今苦しんでる若者世代との意識のズレっぽいなと思いました。アメリカがどうかは知りません。


その番組で「顔を隠してしか活動できないなんて所詮は卑怯者だ」と言ったことにに対して、フォロワーさんが「自分の息子がバットマンになることへの皮肉」と言及していたのは目から鱗でした。

私はアメコミに聡くなく、観たことがあるのはヒースジョーカーのダークナイトくらいだから原作とか知っていたらもっと楽しめるんだろうと思います。

 

 

pogo'sでアーサーじゃない人が言っているジョークはただただひたすらに不快だった。人種差別や性差別バリバリにあった時代だからだろうけどもまじで不快だった。

ああいうジョークで本当に笑ってた時代があるのかと思うと嫌悪感しかない。アーサーがステージに立った時のホアキンの息ができなくなる演技はすごかったです。あるある。


そのあとにソフィーとの妄想デートタイムですが、露店?にかかってる「殺人ピエロ、いまだ逃走中」のピエロの絵アーサーに似すぎやない?

 


その日の夜にアーサーはペニーの手紙を見てしまい、「アーサーはトーマスの隠し子ではないか」という可能性を知ります。
ウェイン邸に行きアーサーくんはブルースくんと接する。そのあとにアルフレッドくんにアーサーくんがだいぶ邪険にあしらわれる。毎日ペニーから手紙がきて鬱陶しいいかもしれんけど「イかれた女」はダメだよアルフレッドくん…。

 


その日の夜にペニーが病院に運ばれ、失意の中にいるアーサーが屋外ベンチでタバコを吸っているところへ、刑事が商社マン殺人についての話をアーサーに聞きにきます。そこで1人がアーサーの病氣について言及します。

 

それは演技じゃないの?ピエロって笑うのも仕事でしょ?って。

本人は辛いことなのにとても信じてもらえないのってほんまにしんどいのよ。なんでこんなにつらいのにわからねえんだ!って腹立ちもするし。
でもアーサーがEXIT ONLYの自動扉にぶつかるシーンは笑いそうになりました。


そのあとマレーのプログラムでアーサーがpogo'sでショーをした時の映像が流れ、ジョーカーと紹介されます。

 

 

カオスを作る者の片鱗

翌日、デモが起きているウェインホールに向かうアーサーくん。

セキュリティが市民を殴った?かなにかで暴動が起きる。その暴動に乗じてウェインホールに入りこむアーサーくん。この頃からアーサーくんの現れるところに混沌が訪れる事になる。


トイレでトーマスといざ対峙をするもトーマスは手紙のことはペニーの妄想であること、アーサーはペニーの養子であることをアーサーに告げます。そしてアーサーを殴ります。


あの時のアーサーは孤独で愛情に飢えた1人の少年に見えた。言い方柔らかくしてハグくらいしてあげられなかったのかトーマスは。

 


その後アーサーはペニーが入院していた病院に行きペニーの診断書を閲覧します。診断書を奪って非常階段に逃げ(?)混みますが、その時の階層は7階。


トーマスの言っていた通りアーサーは孤児で、養子。ペニーは多数の精神疾患を患っていました。そしてアーサーの障害は昔ペニーが交際していた人物から受けた虐待が原因であることも判明します。


その時のアーサーが、「心ではすごく悲しくて泣いているのに、障害のせいで外に出てくるのは笑い声」という現実がすごくすごく悲しかったです。


あと診断書くらいどうだって書き換えれるじゃん。とも思ってたな。トーマスとペニーの診断医ズブズブそうだし。
映画の最初からペニーはアーサーを「ハッピー」と呼びしているのですが、そのハッピー呼びが仇となります。
看病中にアーサーをハッピーと呼んだことにより「どんな時もハッピーでいろって言われてきたけどあんたのせいでこんなことになってんだよ!」「あんたが憎い!!」となりペニーを枕で窒息死させます。


親の一言が毒にも薬にも呪いにもなるっていうことですね。


あとアーサーの気持ちもわかるけど、もし本当に孤児の養子だったとしても、育ててくれたのはペニーじゃんか。とも思う。アーサーくんの気持ちもわかるけどさ。
ちなみにわたし的にはこのペニー殺しがアーサーからジョーカーへとスイッチしたタイミングかなと思います。
あとペニーを窒息させてるシーンはとても綺麗に見えました。

 

 

ジョーカーの完成

アーサーくんがマレーのプログラムに呼ばれます。

マレーショーに出演する当日、ジョーカーのメイクをしている時にクソ元同僚ランドルがアーサーの家を訪問します。家に招き入れた時にドアにチェーンかけたので「あ、やるな」と思いました。


家に入れた時はアーサーだったのにクソ元同僚ランドルが「警察が話を聞きにきた。殺人ピエロはアーサーじゃないと言っておいたから口裏を合わせよう」と言った時に、表情が変わったのが本当に怖かったです。
ジョーカーがクソ同僚ランドルくんを殺害(やったぜ)。


ジョーカーのコスチュームに着替えてジョーカー完成。かっこいい。

 

 

ジョーカーが長い階段を踊りながら降りるシーンで「ジョーカーになったねー」なんて思ってたら病院の時の刑事に呼び止められてジョーカーがアーサーくんに戻ります。「えっ逃げるんだ」って思いました。


逃げる逃げるアーサーくん。タクシーともぶつかる。ちなみにこのシーンは一番最初のクソガキとの追いかけっことも通じています。


そしてアーサーくんは地下鉄に乗り込みます。この時に電車がきたホームが6番です。

一緒に刑事も乗り込んでくるのですが、この車内でもジョーカーが行くところ混沌ありです。

ジョーカーを追ってきた刑事の1人が乗客に発砲したことにより暴動が起きます。市民に鎮圧されてる刑事を見ながらジョーカーが「やーいやーい!」みたいな感じでダンスするシーンは心底ゾッとしました。イかれてる。かっこいい。


そのあと地下鉄からジョーカーが出てくる時にジョーカーが左目から涙を流しているのですが、なんで左目?と思って調べたら、作品冒頭の右目からの涙自分を偽っている時にでる涙で、左目からの涙自己の解放の時に流れる涙だそうです。真偽は知りません。

 

 

「報いを受けろ、クソ野郎」

局入りしたジョーカー。鏡には「Put on a happy face(笑顔の仮面をかぶれ)」と書かれています。掃除が大変そう。


そこにマレーが挨拶(?)をしにきます。ジョーカーの楽屋はエレベーター前、4階の404。
その時にジョーカーが「私のことは以前マレーが言っていたようにジョーカーと紹介してもらえますか?」とマレーにお願いするのですが、当のマレーは「そんなこと言ったか?」と覺えていません。最初からマレーにとってアーサーはイジってネタにして消費する者でしかなかったことがわかります。


マレーが「うちの番組は悪態下ネタなしの上品な番組だからそこんとこよろしく」と言うんですが、どの口が、と思う事になります。
本番中ジョーカー登場前、セックスセラピーの博士がゲストだったそうでそれに絡めたジョークで場を盛り上げます。いやそれバリバリ下ネタやん。


ジョーカーを呼び込む前の紹介でマレーが「次出てくる彼も診断が必要かもしれない」と言うのをモニターで見ながらなにか思うジョーカー。この時に「憧れでもあったマレーも結局は弱者を笑う側なのか」と悟ったのかもしれないね。

 


マレーに紹介されて登場するジョーカー。この時に画面比率が16:9から4:3になるのはテンションが上がりました。

 


ネタやってとマレーに振られ、ノックのネタ(?)を披露するジョーカー。商社マン殺しは私がやりましたと明かすジョーカー。そのジョーカーを撮すカメラは3番カメラ。
ちなみにジョーカーが商社マン殺人をやったって告白した時にトロンボーンが効果音を入れるんだけもアーサーからしたら茶化すな、って思っただろうな。

 

アーサーとしては「我慢して我慢してやっと本音を出してんのにバカにするな」って感じだと思う。

実際にマレーが「人を殺してなんになる?それが面白いと思っているのか?」といかにも(表面的に)常識人として諭そうとした時にも「おまえはスタジオを出たことはあるのか?(庶民の現状を見たことがあるのか) 俺が道で死んでいても見向きもせず踏んでいくだろう!」と激昂していましたしね。


YouTubeの感想動画でも誰かが話していましたが、マレーが「それで?それでオチは?」って言ったのはよくなかったよな。

貧困層からすれば富裕層優遇の政策をしていることも、アーサーの障害も、地続きで起きている現実で「ジョークではない」から。

 

その現実を「いや自業自得でしょw」と切り捨てられたら堪忍袋が破れるのも納得だと思う。それを加味したらジョーカーが悪堕ちしてヴィラン化するのも妥当かなと思う。
それで悪堕ちしたジョーカーはマレーを拳銃で射殺する。この時に撃った球の数は2発。

ニュース画面に映される数字も2。

 

パトカーで護送されるジョーカー。パトカーに突っ込むトラック。助け出されるジョーカー。
氣を失ってたジョーカーが息を吹き返し、立ち上がります。完全にキリストの復活を意識しているのだと思います。
そしてここでゾッと(?)したのはメイクが落ちてきたジョーカーが血を使って笑ってるメイクをしなおすのですが、これまでは真顔でも遠目に見れば笑っているように見えるメイクだったのに対して、この時はアーサーの笑顔の上からメイクをしていることです。

そのカットを入れた意図は不明ですがなんだか不穏な気持ちになりました。

 

 

そのあとに真っ白い部屋でアーサーがカウンセリング(?)を受けているシーンに変わります。ある方の考察でジョーカーの誕生譚とか全部アーサーの妄想ちゃうのって言っていたので2回目観た時にアーサーの髪を見たのですが緑の気もするし染髪する前のようにも見えます。

 

一番最後に逃げるアーサーと追いかけっこのシーンで終わるという一番コメディっぽい演出にしているのもなんだか恐ろしかったです。

 

 

これもある方の感想ですが、アーサーにはツッコミ役の相方みたいな人がいれば救われたのではなかというのも納得です。


アーサーが「人生は寄りで見れば悲劇だが引きで見れば喜劇だ」という言葉の通り、アーサーは自動扉にぶつかったりタクシーにぶつかったり小児病棟で拳銃を落としたりと、ツッコミさえあればいろいろ救われたんじゃないかと思う。


またチャップリンのモダンタイムスが今作のベースのひとつになっていることから、走りながらコーナーを曲がる時に滑ったり自動扉にぶつかったり無声活劇として見ればコメディにもなりえるという映画なのかもな、と感じました。
アーサーこそキングオブコメディだ。っていうメッセージも感じます。

 

 

 

感想

わたし不幸事を共有しようとする日本人の気質が嫌いです。


誰かが勇氣をもって”今こんなことに悩んでいるんだ。こんなことが辛いんだ”と打ち明けたとして、それに対して「みんなそうだよ。そこを我慢してみんな生きている。だからそんな弱音言ってないで大人になれ」なんて、救いがなさすぎるじゃない。悲しすぎるよ。

もし相談した人が理解をしてくれず、そんな風に言われたら「誰に言ったって無駄なんだ」と思って心を閉ざしてしまうかもしれない。実際アーサーはそうだったのだと思う。
わたしは不寛容にはならないようにしたいです。

 

最後に、ジョーカーはやっぱりカリスマがあるのだと思います。
アーサーじゃないと貧困層のカリスマアイコンにならなかったと思うし、不満を持っていても自分からは絶対に行動できない人、しない人もいるだろうしね。

 

 

👇ジョーカー 新解釈👇

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

ありがとうございました。

八方美人は他者を殺す(かもしれない)

 

 

八方美人という概念があります。

わたしは嫌いな考え方ですが、自分の他人に対しての関わり方を思い返すと、自分も八方美人だと気づきました。

 

八方美人という言葉には『非の打ち所がない美人』という意味と『誰にでもいい顔をする』という二つの意味があるみたいです。

わたしは後者のみの意味だと思っていた。

賢くなれましたね。

 

 

タイトルのお話ですが、ここでの八方美人の意味合いは上記後者のネガティブな意味合いでの話です。

 

明らかに不可能だろうと思われることを、友人が長い時間をかけて叶えようとしているとします。

 

それに対し八方美人の方だとその人に嫌われたくない気持ちや、その方を嫌な気持ちにさせたくない思いから本人の気持ちではなく、その友人が言われたいであろうことを考えてその人に対して話すと思います。

 

もちろん不可能と思っていたことでも、おだてた結果、友人が成し遂げたなんてこともあり得ると思います。

 

ですが大抵の場合は不可能なことに固執して、当人の時間を無駄にしてしまうと思います。

 

それならばさっさとその幻想を潰して、できることをその友人に提示したほうがいいのでは?と思うのです。

 

例えるならば、容姿がよくないからモテないと悩んでいる人に「そんなことないよ〜、きっと好きになってくれる人がいるよ〜」と夢を見させるより(もちろんそのままでも好いてくれる人が現れることはあると思いますよ)、思った通りに「確かに君の容姿は非常にまずい。それならコミュニケーション能力やその他の能力を伸ばして見てはどうか?」と提言をするということです。

対策やプランB、プランCを相手に与えた方が人に好かれる割合が上がると思うので無理だと感じたなら早めに言った方がいいのでは?と思い至りました。

 

またいつか書くのでしょうが、わたしは日本における努力信仰嫌いです。

 

努力などしても叶わないものは叶わない。意味のない努力をするのならその時間を他の自分にあっていることに使いましょう。という次第です。

 

八方美人の方は、他人のご機嫌伺いをしたが故にその人の時間を無下にしてしまい、結果、何もできないまま何をすることをできなかった他者を殺す(かもしれない)というのがまとめになります。

 

とはいえ、八方美人と呼ばれる方は相手の立場に立って鑑みることができるという素晴らしい能力を持っている。

 

なんてこと言ってもほとんどの人間なんて「自分に関係ないから適当なこと言っとこ」って方がほとんどだと思いますけどね。

 

人には期待しないが吉です。

 

上手、下手

 

わたしは音樂が好きです。

わたし自身もギターを嗜みます。10年ほど弾いていますが、そこで不思議に思うことがあります。

 

www.youtube.com

 

米津玄師さんの「Lemon」を弾く前に、フリとしてムックちゃんが最初にチューリップを弾くのですが、ある程度深く音楽を聴いたり楽器を弾いてたりすると出音一発目で奏者が上手いか下手かわかるんですよね。

 

この動画でもわかるんですけど出音が『上手な人の音』なんです。

『上手な人がわざと下手に弾いてる』感じなんですよね。

 

正直なぜそう感じるのかはわたしには不明なままなので不思議でなりません。

 

ピアノなら鍵盤を押すときの力加減や音符の長さ、音を出したときの拍の出し方と言うんでしょうか(「四分の表なのか」や、「八分の裏で何拍分鳴らすつもりなのか」など)。

 

それもキャリア次第かなとも思います。

ビギナーなら、「どの音の次にどの音を持ってきたら気持ちいいか、不協和音になるか」を理解していないのである種でたらめに弾いている部分がありますが、中級者やある程度のキャリアがある人なら考えていずとも指の形や手グセで決まった形などがあったりします。

押す力も自然といい音がなる力加減でセーブしていると思います。

 

この前「ギターは難しいか」と聞かれましたが、『何も考えなければ簡単』で『音の繋げ方や積み方を考えながら弾くと難しい』と思います。

 

C(ドミソ)のコードにどの音を足したらどう響き方を変えるのかを考えると難しいです。6度のラなのか7度のシなのか。

その分楽しいんですけどね。

 

 

最近一番好きなギタリストの方の演奏映像を見ていて気づいたのですが、コードを弾くときは均等に指に力がかかっているけど、フレーズを弾くときは力のかけ方が動きます(当然です)。

 

ですが押弦している指でなく別の指に重心が置かれていたりすることに気づき、大変興味をそそられました。

 

その人のフレーズを自分で弾いていても指の重心が変化した指の形の力点となるはずの場所と違う指にあったりします。

 

「ギターは弦を押す手より弾く手の方が大事」や「弦を押すときはいかに力まず押すか」と言われますが、この重心移動がいかに力まず押弦するかに繋がっていくのかと感じた次第です。

 

わたしはギタリストですが、ベースの方が好きだったりピアノっていいよねと思ったりします。ピアノ弾けたらいいよね。

もちろんギターの良さもあるし大好きですよ。

 

ところでsteinway & sonsのピアノっていい音するよね。