頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

旅行者

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

「読書が好き」

わたしは読書が好きです。

 

新書も読みますが、小説を主に読んでおります。

 

これということは、つまりわたしは読書が趣味であるということになりますよね。

 

現代の一般的な趣味の一つで、ゲームに興じるというものもあります。

 

わたしも以前はゲームに興じてもいましたが、どうしても全てが終わるまでに自分の中でダレてしまい、最後の方は惰性でプレイしている感覺が強くなっておりました。

 

これではゲームというものへ対して失礼でございます。

 

またよく考えてみれば、わたしはゲームをプレイするよりも、他者がプレイしているゲームを側から見ている方が好きだった、性に合っていたということにも氣付いたことから、もうめっきり『ゲームを自身で遊ぶという生活』とは縁遠い生活になっています。

 

とはいえ、携帯アプリのパズルゲームはちょろっといたします。

 

 

さてはて、そんなわたしの趣味は読書なわけですが(ギターは身体の一部になっているので、趣味よりも深いものになっております)、「どうして読書が好きなのだろう?」と考えてみました。

 

その理由は『自由』でした。

 

 

理由は自由

「机の上に、りんごが皿に盛られていた」という文章があったとします。

この文章は〈ただの指示としての役割〉しかなく、細部は自分が決定できます。

 

机の大きさや素材、りんごはサンつがるなのか紅玉なのか別のものなのか、まず赤リンゴなのか青リンゴなのか切られているのか、お皿は伊万里焼などの有名なものか大量生産品なのか。

 

その様を見ているのは一人称視点なのか、三人称視点なのか、俯瞰的に空間全体を納めている構図なのか。

 

ただ『「机の上に、りんごが皿に盛られていた」という文章があっただけ』でこれほどまでに自由さがあるわけです。

 

しかし、ゲームや映画ならば『机』も『りんご』も『皿』も〈指定された状態〉で提示されます。

 

 

「そうあんまり落ち込むなって」

 目の前できゅうりの漬物を口へ運びながら、男が言う。咀嚼とともにしゃくしゃくと軽快な音が鳴ると、男の顔がどこか河童じみた表情になったように見えた。

という文章があったとして、文章であれば『きゅうりの漬物の量や唐辛子が入っているか』や、『男の顔、どんな声なのか』、『咀嚼の音量』、『どの程度の河童じみた表情なのか』が、読者三者三様、十人十色、百花繚乱、千差万別な想像ができます。

 

ですが、映像化という〈指定〉がされるとそれらの自由性がなくなり、一元的な情報になってしまうのです。

 

 

しょうもないわたしが想像する反論。あんまり自分を卑下するようなことは言ってはいけない

「いやいや、このゲームはすごく自由性が高いのよ」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。

もちろんその通りだと思います。

 

しかしながらですね、その『自由性』は〈ゲームを作った人が規定した範囲内での自由〉なのです。

つまり毒を含ませて表現すると、『用意された自由』なわけです。

もうちょっと毒を垂らすと、『実は不自由な自由』なわけです。

 

「『自由』という言葉』がある時点で、不自由の中にいる」というパラドックスはありますが、今回はそこは必要ではありません( ¨̮ )

 

なにもゲームが好きな人と喧嘩をしたいわけではありませんので、そこは勘違いなさらず、でお願いいたします。

 

 

わたしは伊坂幸太郎という小説家さんの作品が好きで、長年ファンを興じておりますが、『ホワイトラビット』という作品で、『メタルギアソリッドシリーズ』などを監督された小島秀夫さんが解説をされておりました。

 

この解説がなんとも最高だったのですが、小島さんは「ゲームはプレイヤーに『自ら望んで行動した』と思わせる必要がある」と書かれていました。

 

ま、そういうことです( ¨̮ )

 

この『〈その人自身が望んでそれを選択した〉と、その人に思わせること』は、この現代においても非常に有効に活用されていますね( ¨̮ )

 

そんな『ホワイトラビット』も上記したような〈小説の自由性を用いた、小説でしか成し得ないトリック〉が登場する作品なので、おすすめです( ¨̮ )

 

伊坂作品で個人的に一番好きなのは、何度も言及しているとおり『モダンタイムス』です( ¨̮ )

 

この『小説(文章)特有の自由さ』というのは、落語と通ずるところではないかな、と思いますね。

落語の中で、不細工な顔のことを『松の木にお粥ぶっかけたような顔』と表現するそうなのですが、これも〈聞き手それぞれの不細工像〉があるから、多様な顔が生まれるのです。

 

 

作者の脳内

さて、タイトルの『旅行』についてです。

この話は新書の方が顕著なのですが、本というのは、筆者の考え方がピュアに出力されています。

 

夏目漱石さんの『こころ』という著書では、当時大衆に衝撃をもたらした『乃木希典氏の殉死』についてを言及しているそうです。

 

わたしは江戸川乱歩さんの作品も好きなのですが、この間読んだ『孤島の鬼』という作品では、その『乃木軍神の像が真っ二つになる』という場面がありました。

 

『こころ』での前段があった事実を知っていると、この乱歩さんの表現にもなにか示唆があるのではないか?と邪推してしまいます。

 

 

また他に安部公房さんは、表面的には非常にシニカルでエンタメな不条理作品でありながらも、自身が日々の生活で観察し感じたことを、非常にテクニカルに物語に落とし込んでいます。

 

もちろん伊坂幸太郎さんもその一人です。

 

つまり小説家という人は、現実の世でおきた出来事を、全く別なものや美しい描写へと昇華させ表現する超人たちなのです。

 

「作者の想い」みたいなものをある表現に込める、なんてことも往々してありますし、この一文を書くためにこの何百ページを書いたんだな、と思うこともあります。

なにをもって現実とするか、はまた別のお話です( ¨̮ )

 

それつまり、読書というのは『作者の脳内を旅行すること』と同じなのではないか、と思っているので、わたしは〈読書は旅行であり、読者は旅行者〉ではないか、と思ったのです。

 

 

紀行文として

それとは別に、今みたいに自由に旅行なんて行けなかった時代においては、小説は紀行文的な役割を担っていたそうです。

「小説を読んで、旅行にいった感覺を得る」ということですね。

 

そう考えると、確かに詳細な風景描写を読んだりすると、さもその場に自分がいるかのように思えますし、確かに風を感じたりもします。

『登場人物で話したことが脳内で〈声として〉鳴る』なんてこともあったりします。

 

太宰治さんの風景描写は、とてもとても、『美しい』としか形容できないようなものもあったりしますし、横溝正史さんの作品では『田舎特有の形容しがたい雰囲氣』を感じることさえあります。

 

余談ですが、横溝正史さんはミステリーの作家さんなので、人の死の表現が多くあるのですが、その場面・表現を読むと、どうして美しいと感じることさえあります。

あの感情は本当に謎です。その謎と触れるのも、小説を読むことの楽しさでもありますね( `◟ 、)

 

 

また、読書は『今この場所に居ながら、作中の時代へ旅行すること』もできます。

この現代に生きていると、百年前の風景に触れることなんてできませんが、小説を読むことで、瑞々しいその当時へ旅行、さながらヴァーチャルトラヴェルをすることができるのです( ´・◡・`)

 

そういう意味合いでも、読書を趣味としている人は旅行者なのでしょう。

 

 

電車に乗っても、みなさまお手元の安易な支配にかかりきりでございますので、読書をされている人なんてほとんどいませんが、こんなデジタル過多な時代だからこそ、アナログな読書、はたまた、古からのヴァーチャル旅行に興じることができる愉しみを知ったら良いのになぁ、なんて思います。

 

 

読書はいいですよ( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

無意識の意識化

 

小説家の安部公房氏は著書『他人の顔』にて、「光というやつは、自身透明であっても、照らし出す対象物を、ことごとく不透明に変えてしまう」と言っていたが、それは〈言葉〉というラベリングとも同義だと思う。

 

無意識の意識化は必要であるが、それしすぎるのはよくない。

 

無意識を意識化させるにおいて、細分化しすぎている現代だと思うが、現代人が心を病んでいるのは、この細分化が起因しているのではないかと考えずにはいられない。

 

何事も「ほどほど」と「わびさび」が必要であるということですね。

 

凡庸な帰結になってしまいますね。

 

そんなものでしょう。

2022年6月23日


本日もご訪問ありがとうございます。


今回は非常に個人的な話になりますので、拝読頂かずとも大丈夫です。

それ以前に、暇つぶしくらいにしかならないわたしの思考を、いつも拝読頂きありがとうございます。







去る2022623日の正午に、父が死にました。


本日は26日ですから、御通夜も本葬も終了しています。


5,6年ほど前に腰を悪くし、それの治療をしてからは問題は無かったのですが、去年の夏くらいから不調が出だし、202110月に検査入院をしたことをきっかけに、骨肉腫という病氣に罹っていると言うことが発覺し、そこから脳に転移し、要介護になり、寝たきりになり、と転がる様に悪化し、天寿を全うしたということになります。


昨年の10月時点では『2,3ヶ月が山だろう』との見立てだったので、実際は8ヶ月も命を繋いでいたということになります。



去年の10月に診断が出た時から、正直覺悟というか、長くはないと思っていたのですが、訃報を知った時はひどく動揺をし、狼狽をし、狼狽をしている自分に狼狽しました。


それまでは『生まれたら死ぬのは当然だし、人は生物なんだからむしろ死ねる方が自然じゃない?』なんて思っていました。

この氣持ち、考えは今もあるので、偽りではないのですが、いざ、親が死んだという事実と目の前で対峙すると、ひどく狼狽え、狼狽えている自分に狼狽えました。


所詮は殊勝なことを言っていても、強がっていきがっていただけだった、と言うことですからね。

しかも、『親が死んだ』という私事が介入しない大変な出来事の最中で、「狼狽えている自分を知って狼狽えた』なんて言っているわけです。

わたしはまだまだ自分本位で半人前のエゴちゃんですね。



御通夜を行う会場で寝ている父を見ましたが、むくりと起きて話し出しそうとすら思えるほと、見慣れた寝顔。

というよりも、そう思いたいのだろうと思いますけどね。


人は死ぬとここまで血の氣がなくなるのだ、と思ったり、あまりに現実感がなく蝋人形なのではないか、と思ったり。

それも現実を直視したくないから思うのでしょう。


本葬の日に納棺を行ったのですが、布団が除けられた父の脚の細さが痛々しかったり、組まれた手の爪の感触が、間違いなく爪の固さであったり、顔を触った時の感触が皮膚そのものであったり。

必死に脳が『蝋人形として』考えようとしているのに、『人の肌の感触』という現実が目の前で対峙させられたのはしんどかったです。


納棺する際に脛当てなどをつけますが、その結び方が蝶々結びであり、何度も輪廻するためなのか、とか思ったり、『輪廻してほしいと思っているのか、自分はまた父に会いたいと思っているのだな』と思ったり。


親戚のおじさんは自分の一身等が亡くなったかとごとく泣いてくれるし、いい人だなぁと思ったり、そんな姿を見るとせっかく泣かない様にしていたのに泣きそうになったり、せっかく泣かない様に必死に氣を張っているんだからやめてくれよと思ったり。



やっぱり「もう逢えない」と思うと、かなりつらいものがあります。


他にも、衣服などの「故人(個人)の匂いがするもの」は不意に見せられると辛かったですね。

そのままの意味としても、形容としても。

この『匂い』は『熱』と言い換えることができます。


御通夜が終わって食事をする時も、「あれ?まだ父さん座ってないじゃん」とふと思ったり、本葬前でばたばたしている中、「父さんがいないな、どこにいるのだろう」と自然と思ったり。



その度に複雑な氣持ちになったのですが、こういった感情というのは、土にじんわりと雨が沁みるように理解していくのでしょうね。


父という肉体は燃えて灰になりましたが、物質として消えたからこそ、心に染み入り、一体化していくのでしょう。



先に書いた親戚のおじさんは、父に相当世話になったらしく、嗚咽しながら「何も恩返しできてない、どうすればいいのか」とわたしに質問を投げました。

若輩者なわたしは、その問いに対して「生きていくしかない」と月並みなことしか言えませんでした。


しかし、結局はそうなのだと思います。

生きて、自分が大事だと思う存在を愛し、大切にする。

そうすることで、故人から戴いた雨を、自分という土を通して、岩清水として世界へ流す。


土砂崩れは一見災害ですが、山の上にしかない植物の種を平地まで運ぶためには必要なのです。



本葬の日は雨だったのですが、お葬式の日に雨が降ることを涙雨と言うらしいです。

天が故人を惜しんでいるということなのだそう。


あるいはわたしの祖父は父のことをとても大事にしていたそうなので、祖父が歓迎しているのか。


どちらにせよ、父は優しい人で、沢山の人に惜しまれる人でした。

正直優しすぎる人だったから、もうちょっと怒ってほしかったです。




父が死んで知ったことですが、わたしは父のことを何も知らなかったんだなと痛感しました。

正確な年齢を知らなかったのは良くないよね。


後悔先に立たずですので、考えても無駄です。

後悔するだけ、それだけやりたいことがあった、言いたい話したいことがあったということですからね。

後悔もゆっくりじっくり受け止め感じられるよう、生きていければ、それでいいと、今は思います。




皆さまへ老婆心ですが、言わないといけないと思っていることがある場合、それを言いたい人がまだ存命中である場合は、悪いことは言わないから早めに言っておくことをおすすめします。


父が検査入院をするとの一報が来たときに、何か嫌な予感がして、父に『謝らないといけないとこと』と『音樂を与えてくれたことに対しての感謝』を伝えれたからわたしは心残りはないですが、もしその予感を無視してたらとかは考えたくもありません。

検査入院から投薬治療になり、意思疎通が十分にできなくなったので、本当に直感に従って想いを伝えられてよかったと、強く思います。




わたしはギターを弾きます。

そのギターがあったから、なんとか生きてこれたという部分が多大にあります。


そんなギターを与えてくれたのも父です。


つまり、父から半分の生を受け、父に生かされて、今があると言っても過言ではないのです。





これ以上は想い出が際限なくなるので、ここらへんでお開きといたします。


ここまで読んでいただいた方がいらっしゃるなら、ありがとうございました。



そして、お父さん。

長い人生と短くはない闘病生活、お疲れ様でした。

ゆっくり休んでください。

そして地球になって、多くの慈悲を多くの方に与えていってください。


本当にありがとうございました。
















追記

624日に御通夜を執り行い、その際にお坊さんが「翌年には一周忌、亡くなってから二年目には三回忌と行われます。命日近くになると故人様を思い出していただきましたらと思います」と言った様なお節法をされたのですが、御通夜を執り行った624日はわたしの誕生日です。

なので、先の人生は誕生日が近づくたびに複雑な氣持ちになるのでしょうね。


「命日忘れんなよ」ってことでしょうか。

忘れられるかよ 


発声の音

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回の内容は少し憚れるようなものです。

 

それは呪いについてです。

 

そういったことが得意でない方もいらっしゃると思われるので、苦手な方はここでおやめください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

みなさまは蠱毒という呪術の技法をご存知でしょうか。

 

わたしはかの有名ネット怪談『リョウメンスクナ』で、初めてその存在を認識いたしました。

 

蠱毒の概要については、あまりわたしの言葉で説明したくないのと、詳しい説明は以下の動画様がされているので、そちらを拝見されるか、ご自身でお調べいただけましたらと存じます。

www.youtube.com

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一つ目の動画で、『蠱毒には、〈蠱道〉というものがある』と話されています。

 

この『道』というのは「武道」や「華道」のような『道』と同じ意味合いで、つまり、その技術を師から弟子へ、親から子へと、継承・より良いものへと精錬していく機関だそうです。

 

蠱毒にもその『道』があり、蠱毒を行う専門家は「蠱毒師」と呼称されるそうです。

 

蠱毒師。

 

この『こどくし』という発声音。

 

いつからかニュースやらで聞くようになった『孤独死』と同じ音を用いています。

 

 

わたしは言靈を信じている人間として、このリンクは何か意味合いがあるのではないか、と感じます。

 

つまり、『孤独死』として発声した言葉でも、その言葉の発声音が〈こどくし〉だから、『蠱毒師』の方にも影響が行く、といったように。

 

 

しかも、双方とも意味合いがネガティヴなものです。

この世は念が支配しているといっても過言ではない、とわたしは思っているのですが、『ポジティヴな言葉はポジティヴな想いのもとに発するからこそ、ポジティヴに作用する』のであって、たとえその言葉が"ポジティヴな意味合い"であってもネガティヴな想いの下で発したら、本来あるはずのポジティブな力は発揮されないのではないか、と考えています。

 

それの逆で、ネガティヴな言葉もネガティヴな想いで発したらネガティヴな力が増強される、そう考えています。

 

つまりAとBの言葉は同じ発声音だけど、込められている意味の性質が真逆であった場合は互いを邪魔し合うが、込められている意味の性質が同じ方向であるならば、相乗効果的になっていくのではないのかということです。

もちろんあくまで仮説の話ですけどね。

 

 

さて、『呪いの本質』というのは「念」であるとわたしは考えています。

バンドのファンが「活動当初のスタンスから変わらないで」と願い発言するのも呪いですし(生物は変わるのが普通なので、最低最悪レベルの呪いだと言えます)、「頭にあるアイデアを必ず形にしてやる」というのも呪いです。

共通しているのは『想いや念が働いている』ということです。

 

別な例として『全く健康な人に、「今のあなたはどれそれの病氣なので治療しましょう」という宣告すること』も呪いの一種です。面白いですよね。

〈病は氣から〉ってやつです。

 

これはプラシーボ(思い込み)の効果が強いと思いますが、それこそが、呪いの本懐たるところです。

 

 

と発声の音と、それによって引き起こされる効果を書いてきました。

この記事の冒頭に書いた『リョウメンスクナ』で「おや?」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

どうやら『呪術廻戦』という少年ジャンプ連載の漫画作品に「リョウメンスクナ」が引用されているそうですね。

 

この「じゅじゅつかいせん」という発声音も、あるいは?

 

 

 

もちろん言靈に対して懐疑的な方もいらっしゃるでしょうから、話半分にでも思っていただければと存じます( ¨̮ )

大衆の念を操作するために「言靈は嘘っぱち」であるとか「科學はすばらしいものだ」とのキャンペーンがされているのかもしれませんけどね( ¨̮ )

 

 

 

『発声する音』の話ではないですが、むかしからある行事でも、昔にはちゃんと意味があってしていたことでも、年月が経過するに従って、込められていた意味が"何らかの意思"で真逆なものに変えられてしまったり、『形式化』したことでその意味が忘れられたりして、本来ならなんらかの効果があったのになくなってしまった、ということもあるのかもしれませんね。

 

下記動画様の『節分の話(13:02~)』のようにね。

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少なくとも、現代日本人が病氣に塗れているのは、念の効果を軽視して即物的なものに頼りすぎているから、だと、一回の若輩者は感じる次第です( ¨̮ )

 

金を出し不幸を買っている己に嫌気はさしていないか?

 

 

ま、所詮はオカルトなので、好きな人だけお愉しみくださいませ( ¨̮ )

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

その属性があるかどうか

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

少し前になりますが、『死刑にいたる病』という映画を鑑賞いたしました。


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あんまり前情報を入れずに観たのですが、まあ、とっても、純粋な恐怖でした。

 

ひさしぶりに純粋に恐怖を感じましたし、非常に嫌な鑑賞後感情がありました。

そんな感情が強かったです。

 

原作はハヤカワ書房から出ている小説だそうです。

 

この小説は「イヤミス」というジャンルに区分される作品でして、この「イヤミス」というのは『読んだら嫌な氣分になるミステリー』のことを指します。

 

そんなイヤミスとは真梨幸子さんの『殺人鬼フジコの衝動』で出会いましたが、あまりにイヤ〜な氣分になったため、それ以来敬遠しています。

 

『人間の嫌な面』なんて、現実生活で『イヤというほど』見ますからね。

フィクションなんだから、ちょっとでも爽やかな氣持ちになりたい、というのが、わたしの感想です。

だからこそ、伊坂作品が好きなんだろうと思います。

 

 

閑話休題

 

 

んなことよりも、その『死刑にいたる病』なのですが、その内容とかの解説は下記に貼らせていただいた動画を見てください。

別にわたしがわざわざいうこともないし。


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そんなことよりも、タイトルについてなのですが、この『死刑にいたる病』の劇中でとあるシーンがあります。

 

主人公の青年がとあることで手を怪我し、傷口から血が流れている場面で、青年に好意を抱いている女性がその血を認めて、舐める、というシーンがあります。

 

そのシーンを見てわたしは「その性癖いるの?(キャッキャ)」と笑っていました。

同じ劇場にいた人からすると危険人物とでも見えていたかもしれませんね。

 

しかし、実際にその場面を見たり、自分がされたりすると、確実に幻滅したりドン引きするでしょう。

ドン引きする自信があります。

 

そんな自信は要りません。

 

 

と、どうして「実際に自分の血を舐められたら、わたしはドン引きするのだろう?」と、いつものごとく内観をしてみました。

 

それで思ったのですが、わたしは血の味やにおいが得意ではありません。

 

「そんなのみんな得意じゃないだろう」というお声が聞こえてきそうですが、このいろんな感性・価値観がある星地球では、自分と違う人も存在しております。

 

つまり、『血の味が好きな人』も、『人の血が好きな人』も存在しているのではないか、と感じます。

現に『血の味が得意でない人(わたし)』が存在しているので、真逆な人もいるのだと思います。

 

また別に『好きな人の血だから大丈夫』という人もいるでしょう。

これは『死刑にいたる病』でも言及されていましたね、「好きな人の一部を持っておきたい」というあれです。

 

ちなみにこの考え方にもわたしは理解できかねます。

だってそんなの枷じゃん。イラネ。

 

 

つまり、〈それ〉が自分の中にない要素であったからドン引きするのだと感じます。

『自分の中にない要素』ということは、「理解ができない」ということにもつながりますものね。

いや、他人なんて理解できるわけないんですけど。

 

理解はできないけど、理解を示すことはできる、みたいな?

 

 

自分の中にない要素であるから、ドン引きし、断罪し、意識をダウンサイズするのだろう。

という、なんとも凡庸な結論。

 

ちなみに、この『死刑にいたる病』を観たときには「邦画も結構無骨なのできるんじゃん!」と思いました。

何様か。

 

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

勘違い

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

以前わたしは『言葉』の話の記事で、「言葉って結構残酷に淘汰されるのではないか?」みたいなことを書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

また『長い期間残っている言葉というのは、ある種真理の一端を含んでいるのではないか』とも書きました。

その氣持ちは今でも変わりません。

 

その時には言及していなかったのですが、「やばい」という言葉はなんだか知らないうちに、結構な間残っていますよね。

つまり、『「やばい」という言葉』にも、ともすれば〈真理が含まれている〉のではないか?と思っていました。

 

 

結論から言いますと、違いました。

 

 

単純にいろんな物事に対しての形容詞を知らない人間が増えただけだったのですね。

 

おいしい、危険、あぶない、善くない、良い、素晴らしい…。

 

上記した言葉だけでも、一切難しい言葉ではございません。

そのほかにも、「やばい」という言葉が代用されている言葉は多くあります。

 

上記した「決して難しい言葉ではない言葉」ですら、使えなくなった現代人です。

 

だからこそ、「単純に現代人の知力が低下した」から『やばい』という言葉が残っているのですね。

 

全く愚かだと感じます。

 

 

また、現在は『評価主義経済』というものへ移行していると言われています。

この『評価主義経済』というものを端的に説明しますと、「いい性格でみんなから好かれる人間が得をする」みたいな感じです。

 

後出しジャンケンになるので、クソだせえですが、わたしも2017年くらいから「将来的には、その人が持っている宗教性(この人と一緒にいたいと思うような感じ)が重要になってくるな」と思っていたので、なんら不思議ではないですね。

後出しジャンケンになるので、クソださいですけどね。

 

www.youtube.com

こちらの動画の6:00~6:30でも言及されていますが、『外見が良ければ、内面も好いはずだろう』などと本氣で思っているのなら、本当に現代人は知力が低下しきっているのだろうと思います。

 

面が綺麗でも内面が地獄の如し人間もいますし、面は地獄でも内面は桃源郷な人間もいます。

汚いものや部分に触れたからこそ見出す綺麗さもありますし、綺麗を求めるが故に生み出される汚く醜いものもあります。

 

『綺麗は汚い、汚いは綺麗』なのです。

汚いは汚い一辺倒、綺麗は綺麗でしかない、みたいな薄っぺらい世界じゃないんですけどね、世界って。

 

しかしどうやら、それが理解できない人間が増えているみたいです。

聞くところによると、ですので実際に見たわけではないですけど、知性が減っていっているように感じます。

 

スマートフォンもとい、携帯電話や機械に依存・支配されてきた、ここ十数年は緩やかに人類白痴化が進んでいたように思いますが、ここ二年くらいでその速度が早まってきたような氣がします。

 

二年前にはなにが起こったのか。

 

 

そんな現代人こそが、『やばい』と、わたしは感じます。

 

 

 

とまぁ、果たしてこうやって『大衆の知性は確実に減っている』と断言しているわたしも、確実に知性が目減りしていっていると思います。

 

『断言する』ことは、視野が狭いことの象徴ですからね。

 

ほら、こうやって断言していますしね( ¨̮ )

 

結局『自分にもあることしか、氣付くことができない』んですよ、結局。

 

ほらまた断言した( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

【八十八ヶ所巡礼】魔界の沼沢地にいる魔族の有難いお説法【幻魔大祭2022】

 

ご無沙汰しております。

 

ご無沙汰しすぎたかもしれません。

 

いや、そんな御託はいいのです。

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

行ってきました『幻魔大祭2022』!!


今回も最高だったので、感想を熱量多めでつらつらと御託並べます✌︎

 

👇前回の幻魔大祭👇

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

開演

客電が落ちスタート。

おなじみのオリエンタルなSEが流れます。

 

なんとも絢爛なセクションのあと、ベースが基調となったセクションでメンバーの皆様が登場。

 

青い照明で逆光になっているので、登場しても表情は見えない。

 

Kenzooooooooさん→Katzuya Shimizuさん→マーガレット廣井さんの順番で登場されたのですが、マーガレット廣井さんの一升瓶を煽る姿、逆光になってシルエットのみで見た「一升瓶を煽るマーガレット廣井さん」が途轍もなくかっこいいと感じました。

 

また、前回の『幻魔大祭1205』では「魔族の大猫の腹の中で、貴様らの皆様と一緒に溶けて渾然一体となる」と感じたのですが、今回はまた違った感想を持ちました。

 

オリエンタルな空氣を持ったSEと、青い照明。そして逆光になって表情が見えない状態、から、「魔界の沼沢地にいる、魔族の有難いお説法を聴くのだ」と、今回はそんな風に感じました。

 

 

霊界ヌ~ボ~♨︎

ライヴ一発目の曲は『霊界ヌ~ボ~♨︎』

 

まさか聴けると思っていなかったので、この時点でわたしの魂は解脱。そして現世に帰ってきました。

 

殺風景グローバルグルーヴ

『八+八』に収録されている曲(特に後半の八曲)はとっつきにくい印象を持っていたので、正直なところそこまで好きではなかったのですが、実際の演奏を目の前で観て印象が、がらりと変わりました。

 

超かっこいい!

ベースの動き方がえぐい!

えぐいベースラインで、えぐい運指なのに演奏が安定している!えぐい!

 

そして、やっぱり初期の曲の方が弾きまくって、叩きまくっている印象があるのですが、その各々が各パートのベストを更新しようとしている様は、やはり『JAZZ』でした。

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幽楽町線

この曲も初めて聴いた時は、そこまで鮮明な印象ではなかったのですが(逆に鮮明な印象すぎたのかも)、いつのまにかKatzuya Shimizuさんが鳴らす踏切音を聴くと「キター!!!!」と思うようになりました。

やっぱり人間は慣れる動物ですね。

 

そんな『幽楽町線』はなんといってもKatzuya Shimizuさんのなっがいギターソロが目玉の曲ですが、わたしはそんなKatzuya Shimizuさんではなく、ベースをひたすら、職人のごとくリフレインして弾き抜くマーガレット廣井さんを見るのが、なんというか乙を感じて好きなのですね。

実際に、もはや職人だろと思うような表情をしてベースを弾かれるので、観ていて愉しい。耳が愉しいのは当たり前。

 

今回もギターソロの間はマーガレット廣井さんを観ていたのですが、Katzuya Shimizuさんのギターソロ行脚は、センター→上手→下手→センターとohenroします。

 

ステージングの常識的な部分として、定位置が上手にいる人が下手に行ったら、定位置が下手の人が上手に移動します。

 

なのでKatzuya Shimizuさんが下手に行ったら、下手のマーガレット廣井さんが上手に行くのですが、その上手でマーガレット廣井さんがしていることというのが、ギターソロohenro3をしてセンターに戻ってきたKatzuya Shimizuさんの音にワウをかけるというものです。

 

ギターの機材をよくご存知でない方のためにワウ・ペダルというエフェクターをご説明いたします。

まずエフェクターというものは、樂器の音を変化させるものです。

歪み系や、空間系などの種類があり、ワウ・ペダルもそのうちの一つ。

 

八十八ヶ所巡礼と親交が深いとの噂の、人間椅子のギターヴォーカルである和嶋慎治さんは、このエフェクターを愛しており、自作もされています。9mmの滝さんも自作されています。

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そんなワウというものは、足で踏んでグイングインと押し込んだり戻したりして、音を変化させるものなのですね。

変化する音が「ワウワウ」と聴こえることから、ワウと名付けられたそうです。

 

ちなみに、皆様おなじみ『仏滅トリシュナー』で使用されているワーミー・ペダルというエフェクターも、同じように『ペダルを押し込むことで音を変化させる』ものです。

曲の冒頭でギターの音が高くなったりしているのがそれで、ワーミー・ペダルと使うとスペーシーな音になります。

 

このワーミー・ベダルはRage Against The MachineのTom Morello氏や、元The White StripesのJack White氏なんかも好く使用されております。

ちなみにこのエフェクター話で引用させていただいたギタリスト様は、全員変態です。

もちろん樂器弾きに対して『変態』と形容するのは褒め言葉なので、褒めております。

 

東京事変のギタリストである浮雲さんも好きです。

 

 

そんなワウ・ペダルをマーガレット廣井さんが踏んでいるのですが、プレイと関係ない踏み方をしていて脱帽しました。というよりきゃっきゃと笑いました。

だって自分の中で絶対的なプレイの素地・スキルと絶対的なリズム感がないと、そんな芸当は出来得ませんからね。

正直ワウって弾き手自身が踏む場合でも難しかったりするし。

 

そんな、職人マーガレット廣井を垣間見た瞬間でした。

実はずっとおんなじフレーズをリフレインしながら弾き続けるのってむずかしいんですよ。それはそれで愉しいんですけど( ¨̮ )

 

 

OH! SOJI!

歌い出しのマーガレット廣井さんの歌が上手すぎて、思わず声が出ました。

 

この曲の前にMCで話していたことと、この曲は関係あるのかしら?ないな。

 

 

そういえば、やっぱり樂器の出音というのは、その奏者のパーソナリティが出ると思うんですよね。

Katzuya Shimizuさんの音は、どこか煌びやかさを感じるし、マーガレット廣井さんの音はひねくれているけど人の好さがどうしても漏れ出しているし、Kenzooooooooさんの音は一本氣というか「御託はいらねえ」みたいな感じするし。格好とリンクしているのでしょうか?裸一貫みたいな。そこ?

 

ていうか、八十八ヶ所巡礼の皆様は魔族なんだから「人が好い」じゃないか。

「魔族が好い」?「魔が好い」?

 

 

 

 

 

 

 

 

魔ーガレット廣井…。

 

 

女性問題ト賭ケゴルフ

この曲も『殺風景グローバルグルーヴ』と同じように、そんなにピンときていなかった曲なのですが、実際の演奏を聴くと印象が、がらがらりと瓦解しました。

超かっこいいし、八十八ヶ所巡礼を好きな貴様らの皆様が『初期の曲好きが多くて、初期曲人氣が高い』その理由がわかったような氣がします。

 

あとやっぱり初期の曲はベースの運指がえぐい。それを弾ききるマーガレット廣井さんもえぐい。

 

 

慧光

曲を通して、金色の照明で逆光になっており、表情が見えなかった。

ですが、それがまたこの曲の神秘性?じみたものと、魔族の有難いお説法を感じました。

曲が終わりに近づくに従って音に深いリヴァーブがかけられ、その「朦朧感」みたいなものから、よりお説法を感じました。この場合は魔族っていうより、仙人かな?

ちなみに泣きました。歳をとると涙腺がゆるくなるのは本当ですのね。

 

 

もし本当に魔族にあの三人がいるんだとしたら、冤罪か陰謀かなんかで、はめられて魔界に追いやられたんじゃねえかなぁと、思います。

「しょうもない悪事をそそのかす」ってのと、「貴様らと貴様らのご両親の健康と幸せを願っている」って発言から、魔族とはどうも思えないんだよなぁ。

 

MAJIの悪魔的なものたちは、善行と称して、その行為を他者にさせますしね。

 

まぁマーガレット廣井さんの照れ隠しでしょうと思っております。ファンの純粋な幼稚です✌︎

 

 

鬼畜

この曲はお初お目にかけたのですが、まず、『重い』ですね。

ドラムのビートが重い。

重厚ではなく、ただただ、重い。

 

それに冷静に冷静な怒りをひしひしと感じ、非常に怖かったです。

 

しかも音作り自体も不要なリヴァーブを削いだ音にしていたため、その『冷静な怒り』を直に感じるような感じがして、目を合わせられないような恐ろしさを感じました。

 

 

この曲にはKatzuya Shimizuさんのクリーントーンでのアルペジオが二回ありますが、一回目は指弾きなんですね。

二回目はピックで弾いておられました。

 

その事実を踏まえ、改めて音源を聴いてみると、確かに一回目は指弾き特有の丸みがあり、二回目はピック弾き特有のエッジというか「コリッとした質感」が聴いてとれます。

 

そして、この曲で本当に最高だったのが、Katzuya Shimizuさんのギターソロです。

樂曲timeでいうと、3:30~のセクションなのですが、もちろん生演奏なのでプレイは変わります。

そのギターソロで「ッンッキュゥーン」みたいなチョークダウンのフレーズをKatzuya Shimizuさんが弾かれたのですが、それがあまりに最高だったので思わず目を閉じ、天を仰ぎ、「あぁ…(恍惚)最高…(恍惚の先にある恍惚)」となりました。

 

文章ではあのプレイの素晴らしさを表現できないのが心苦しいばかりです。

若輩者の不徳と致すところでございます。

 

 

IMNY

聴けると思わなかった!!!

だいすき!!!!

正直不意打ちすぎて、にやにやしてたって記憶しかないです。あと樂しかった記憶。

 

本当に『エイトビイトな人々』が聴きたい。八十八ヶ所巡礼さん、後生だから聴かせてください…。

 

 

ohenro3

この曲も初期の曲ですが、初期の曲はその当時から演奏し続けている分、曲が完成以上の成熟をしている印象があります。

その成熟があるからこそ、一朝一夕では生むことができないグルーヴを勝ち取っている曲だと感じます。

この『エンジンが回ってドライヴするようなグルーヴ』って、生み出し、勝ち取るの案外むずかしいんですよね。

熟練と熟達が必要になりますからね。

 

曲最後のキメもしっかりユニゾンしてて最高!

 

 

幻魔大祭 (Album Version)

この曲までは『お説法をする魔族』と『それを聴く貴様らの皆様』、つまりある種の隔たりがあったように感じます。

 

ですが、この曲がその『垣根を壊した』感覺がありました。

いうなれば「無礼講で酒を飲んで踊ろうぜ!」とでもいう感覺なのですが、この喩えはあまりに俗臭くていやですね。

 

やっぱり幻魔"大祭"なので、生者も亡者も夢も現も現世もあの世も、大猫の腹の中で融け合って一体となる。そんなお祭り、と形容しましょう。うん、その方が粋ですし、魂も活き活きします。

 

曲のアレンジも『犬が吠えた』までは、デモ版っぽいBPM-3,4のアプローチで、そのあとは爆発するようなテンポアップという「幻魔大祭1205」の時と同じアレンジでした。

 

この後から『怒喜怒気』→『JOVE JOVE』→『M.O. 8』と続いたのですが、その様たるやまさに渾然一体どろどろに溶けた大猫の腹の中だったと記憶しております。

人の記憶ほど信用ならないものはないですけどね( ¨̮ )

 

 

金土日

アンコール明け、マーガレット廣井さんがおしゃべりされましたが、別にBIG CATじゃなくてもマーガレット廣井さんは猫よね。

 

あとあと、この金土日リズムMCの時にマーガレット廣井さんが「大猫の腹の中で貴様らも融けて渾然一体になってる」みたいなことを仰られていたのですが、これってわたしが『幻魔大祭1205』をレポした時の表現じゃない…?

もしかしてマーガレット廣井さんわたしのライヴレポ読まれたとか…?

 

実際のところは『大猫の腹の中』なんて例えは誰でもできる凡庸なものなので、わたしは関係ないのでしょうが、わたしのレポを見たのだと思っている方が氣分よく生きれるのでそう思っておきます✌︎  幼稚な純粋✌︎

 

難攻不落の氣分次第なんだから、すこしでも氣分よくするのは大事。

やってる意味のないことが大切〜。

 

 

怪感旅行

『金土日』で「最後なんだ」とマーガレット廣井さんが話していたので、MAJIで「アンコールは一曲か…」と思っていたので、この曲が来た時は本氣で嬉しかったです。両拳を天に突き上げ、ぴょんぴょん跳ねたくらいです。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

こちらの記事で書いた通り、この『怪感旅行』は「"清濁すら愉しみ"と受け入れた覺悟」を感じますし、しかもその覺悟が湿った?固まったものではなくて、軽やかさすら感じるので、大好きなのですよ。

 

そんな大好きな曲を生で聴ける悦び!

愉しくないわけが!魂が悦ばないわけが!ないのです!!

 

この曲への想いを認めているときに思ったのですが、ただただ何かに対して『大好き』と言えることや、そう思えるものがあること、出会えたことってのは、とんでもなく幸せなことなのでしょうね。

 

お父さんお母さん、過去の自分、今の自分、八十八ヶ所巡礼の御三方や御三方の先祖ご両親、そしてそれらを産んだ地球ありがとう( ¨̮ )

 

 

いつもライブの最後の曲ではエンディングに各メンバーのソロ回しがあり、そのあとにマーガレット廣井さんとKatzuya Shimizuさんが背中合わせになって演奏するパートがありますが、その時にマーガレット廣井さんは「思わず出てしまうはにかみの表情」を浮かべます。

その顔がね!ファンは好きなんです!!

 

皆様御元氣なまま、御健康なままで!!!!

 

 

ノリ方と体癖

さて、ここまでで5500文字以上書いているわけですが、今回の『幻魔大祭2022』でおやと思ったことがありました。

 

それは音樂のノリ方です。

 

まっすぐ上下に乗る人がいると思えば、左右に揺れる人もいるし、腰を捻って左右の肩が前後に動く人もいました。

わたしは足で四分音符を取りながら上半身で前後に揺れるというノリ方(ベーシストが顎と首でグルーヴ摑む感じ)なのですが、同じ音樂を聴いているはずなのに、ノリ方が本当に十人十色なわけです。

 

この『音樂のノリ方』も体癖が大きく関係していそうだな、と感じました。

 

 

 

ということで今回のレポートはここら辺で終わりです。

 

次のライヴは6/26に同じくBIG CATで公演されるMUCCさんのワンマンです。

 

そしてそのお次は、7/18 W Studio REDです。

実はわたしはマーガレット廣井さんとKenzooooooooさんと同郷なのです( ¨̮ )

正直一切必要ではない情報ですね( ¨̮ )

 

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

音樂最高\(´-`)/

 

 

 

 

 

プレステ

MCでマーガレット廣井さんが「今日は我々も酒をしこたま飲むから、貴様らも飲もう」と仰っていたので久しぶりに500缶のビールを煽り、バーにも行きました。

そこでとても良い出逢いがありましたので、ここでマーガレット廣井さんに感謝を。

 

あとYesのドラムであるアラン・ホワイトさんが亡くなったのですね。

Yesは難解なプログレなのに、なぜかキャッチーという不思議なバンドでよく聴いているので、なんだか寂しいですね。

『Fragile』のもはや宗教ですらある空氣、雰囲氣。初めて聴いた時の困惑は忘れられません。

素晴らしい作品を生んで下さり有難うございました。

あの世でも愉しくドラムを叩いてくださいね。