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「読書が好き」
わたしは読書が好きです。
新書も読みますが、小説を主に読んでおります。
これということは、つまりわたしは読書が趣味であるということになりますよね。
現代の一般的な趣味の一つで、ゲームに興じるというものもあります。
わたしも以前はゲームに興じてもいましたが、どうしても全てが終わるまでに自分の中でダレてしまい、最後の方は惰性でプレイしている感覺が強くなっておりました。
これではゲームというものへ対して失礼でございます。
またよく考えてみれば、わたしはゲームをプレイするよりも、他者がプレイしているゲームを側から見ている方が好きだった、性に合っていたということにも氣付いたことから、もうめっきり『ゲームを自身で遊ぶという生活』とは縁遠い生活になっています。
とはいえ、携帯アプリのパズルゲームはちょろっといたします。
さてはて、そんなわたしの趣味は読書なわけですが(ギターは身体の一部になっているので、趣味よりも深いものになっております)、「どうして読書が好きなのだろう?」と考えてみました。
その理由は『自由』でした。
理由は自由
「机の上に、りんごが皿に盛られていた」という文章があったとします。
この文章は〈ただの指示としての役割〉しかなく、細部は自分が決定できます。
机の大きさや素材、りんごはサンつがるなのか紅玉なのか別のものなのか、まず赤リンゴなのか青リンゴなのか切られているのか、お皿は伊万里焼などの有名なものか大量生産品なのか。
その様を見ているのは一人称視点なのか、三人称視点なのか、俯瞰的に空間全体を納めている構図なのか。
ただ『「机の上に、りんごが皿に盛られていた」という文章があっただけ』でこれほどまでに自由さがあるわけです。
しかし、ゲームや映画ならば『机』も『りんご』も『皿』も〈指定された状態〉で提示されます。
「そうあんまり落ち込むなって」
目の前できゅうりの漬物を口へ運びながら、男が言う。咀嚼とともにしゃくしゃくと軽快な音が鳴ると、男の顔がどこか河童じみた表情になったように見えた。
という文章があったとして、文章であれば『きゅうりの漬物の量や唐辛子が入っているか』や、『男の顔、どんな声なのか』、『咀嚼の音量』、『どの程度の河童じみた表情なのか』が、読者三者三様、十人十色、百花繚乱、千差万別な想像ができます。
ですが、映像化という〈指定〉がされるとそれらの自由性がなくなり、一元的な情報になってしまうのです。
しょうもないわたしが想像する反論。あんまり自分を卑下するようなことは言ってはいけない
「いやいや、このゲームはすごく自由性が高いのよ」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。
もちろんその通りだと思います。
しかしながらですね、その『自由性』は〈ゲームを作った人が規定した範囲内での自由〉なのです。
つまり毒を含ませて表現すると、『用意された自由』なわけです。
もうちょっと毒を垂らすと、『実は不自由な自由』なわけです。
「『自由』という言葉』がある時点で、不自由の中にいる」というパラドックスはありますが、今回はそこは必要ではありません( ¨̮ )
なにもゲームが好きな人と喧嘩をしたいわけではありませんので、そこは勘違いなさらず、でお願いいたします。
わたしは伊坂幸太郎という小説家さんの作品が好きで、長年ファンを興じておりますが、『ホワイトラビット』という作品で、『メタルギアソリッドシリーズ』などを監督された小島秀夫さんが解説をされておりました。
この解説がなんとも最高だったのですが、小島さんは「ゲームはプレイヤーに『自ら望んで行動した』と思わせる必要がある」と書かれていました。
ま、そういうことです( ¨̮ )
この『〈その人自身が望んでそれを選択した〉と、その人に思わせること』は、この現代においても非常に有効に活用されていますね( ¨̮ )
そんな『ホワイトラビット』も上記したような〈小説の自由性を用いた、小説でしか成し得ないトリック〉が登場する作品なので、おすすめです( ¨̮ )
伊坂作品で個人的に一番好きなのは、何度も言及しているとおり『モダンタイムス』です( ¨̮ )
この『小説(文章)特有の自由さ』というのは、落語と通ずるところではないかな、と思いますね。
落語の中で、不細工な顔のことを『松の木にお粥ぶっかけたような顔』と表現するそうなのですが、これも〈聞き手それぞれの不細工像〉があるから、多様な顔が生まれるのです。
作者の脳内
さて、タイトルの『旅行』についてです。
この話は新書の方が顕著なのですが、本というのは、筆者の考え方がピュアに出力されています。
夏目漱石さんの『こころ』という著書では、当時大衆に衝撃をもたらした『乃木希典氏の殉死』についてを言及しているそうです。
わたしは江戸川乱歩さんの作品も好きなのですが、この間読んだ『孤島の鬼』という作品では、その『乃木軍神の像が真っ二つになる』という場面がありました。
『こころ』での前段があった事実を知っていると、この乱歩さんの表現にもなにか示唆があるのではないか?と邪推してしまいます。
また他に安部公房さんは、表面的には非常にシニカルでエンタメな不条理作品でありながらも、自身が日々の生活で観察し感じたことを、非常にテクニカルに物語に落とし込んでいます。
もちろん伊坂幸太郎さんもその一人です。
つまり小説家という人は、現実の世でおきた出来事を、全く別なものや美しい描写へと昇華させ表現する超人たちなのです。
「作者の想い」みたいなものをある表現に込める、なんてことも往々してありますし、この一文を書くためにこの何百ページを書いたんだな、と思うこともあります。
なにをもって現実とするか、はまた別のお話です( ¨̮ )
それつまり、読書というのは『作者の脳内を旅行すること』と同じなのではないか、と思っているので、わたしは〈読書は旅行であり、読者は旅行者〉ではないか、と思ったのです。
紀行文として
それとは別に、今みたいに自由に旅行なんて行けなかった時代においては、小説は紀行文的な役割を担っていたそうです。
「小説を読んで、旅行にいった感覺を得る」ということですね。
そう考えると、確かに詳細な風景描写を読んだりすると、さもその場に自分がいるかのように思えますし、確かに風を感じたりもします。
『登場人物で話したことが脳内で〈声として〉鳴る』なんてこともあったりします。
太宰治さんの風景描写は、とてもとても、『美しい』としか形容できないようなものもあったりしますし、横溝正史さんの作品では『田舎特有の形容しがたい雰囲氣』を感じることさえあります。
余談ですが、横溝正史さんはミステリーの作家さんなので、人の死の表現が多くあるのですが、その場面・表現を読むと、どうして美しいと感じることさえあります。
あの感情は本当に謎です。その謎と触れるのも、小説を読むことの楽しさでもありますね( `◟ 、)
また、読書は『今この場所に居ながら、作中の時代へ旅行すること』もできます。
この現代に生きていると、百年前の風景に触れることなんてできませんが、小説を読むことで、瑞々しいその当時へ旅行、さながらヴァーチャルトラヴェルをすることができるのです( ´・◡・`)
そういう意味合いでも、読書を趣味としている人は旅行者なのでしょう。
電車に乗っても、みなさまお手元の安易な支配にかかりきりでございますので、読書をされている人なんてほとんどいませんが、こんなデジタル過多な時代だからこそ、アナログな読書、はたまた、古からのヴァーチャル旅行に興じることができる愉しみを知ったら良いのになぁ、なんて思います。
読書はいいですよ( ¨̮ )
ありがとうございました\(´-`)/