頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

パッケージ

 

 

大衆のほとんどは、ばかである。

 

 

 

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

どうでしょう。言い切ってみました( ¨̮ )

なかなか過激でセンセーショナルでしょう??

 

この言い切りも人間の心理を使った広告術なのですよ( ¨̮ )

 

「ル・ボン著『群集心理』強化月間」みたいになっていますが、そういったわけではありません。

昔から大衆心理について興味があったので、どうしても深掘りして考えたくなってしまうのですよね。

 

今回は人間の意識と心理とパッケージについてです。

 

 

 

 

パッケージの妙

まず冒頭に書いた『言い切り』

 

これまでにヒットしたものは言い切り型のタイトルを冠しているものがとても多いです。

特に書籍には多い。

 

その理由は、言い切っているほうが消費者の目に止まりやすく、記憶に残りやすいからなのではないかと思っています。

 

 

『食事とは、キーボードである』というタイトルの書籍が陳列されていたとします。

そのタイトルを見て「そんなわけがない」と手に取る人もいれば、「はて、どういう意味だろうか」と手に取る人もいるでしょう。

おそらくは、荒唐無稽であるほど良い。

 

『食事とキーボードはもしかすると似ているかもしれない』というタイトルの書籍が陳列されていても、物好きな人しか手に取らないと思われます。

"言い切り型のタイトルでなら手にとった人"が、言い切らないタイトルの書籍を見ても、おそらく「くだらない」と一笑に付するだけでしょう。

 

 

言い切りや断言というのは、おそらく断言していれば受け手が思考しなくて済む・受け取るだけで良い、あるいは自分に責任が来る可能性がなくなるから好まれるのではないかと感じます。

 

 

パッケージを変えただけ?

現代の日本では民主主義がと多くの人思われていますが、民主主義は果たして本当に良いのでしょうか?

本当は毒だとも言えるのではないでしょうか?

 

 

民主主義というのは、民の一人一人が権利を有する主義思想のことです。

 

全世界的に、1800年代まで王政や君主制の方法が用いられていましたが、革命が起きて多くの國が民主主義へ変わりました。

 

その革命も多くの民が一丸となったものです。

民が時の王や殿様を権力の座から降ろしたということです。

 

先導者はいたのでしょうが、革命というものは民がいなければなし得なかったはずです。

 

この民の力を恐れた?

 

 

特権階級のみが力を持って政治を指揮していると、大衆はストレスを溜め、遠からぬうちに決壊する。

決壊した奔流は特権階級などに向かっていく。

その力強さと恐ろしさを特権階級へ向けないために、民主主義を作ったのではないか。

 

ていの良い「主義」や「思想」を与えておけば、民自らがその箱に入っていき、自分と相いれないものを攻撃し、歪み合う。

そして、緊張状態なり自滅相殺などしていくことによって、特権階級に目を向かせにくくする。

 

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単純計算でも、一対一の戦力構図だったものが、合わさるのです。

そりゃあ脅威でしょう。

その『民衆の底力』とも言うべき力を恐れた。

 

 

また現在では『独裁政治』や『恐怖政治』と言われているものも、ただ単に王政や君主制を言い換えただけなのではないかと感じます。

つまり、中身は同じのままパッケージだけを変えて新商品として売り出した。

 

そして『独裁』や『恐怖』といったようなマイナスワードを紐づけてコマーシャルすることで、民主主義こそ自由の形、社会のあるべき姿という考えを刷り込んでいった。

 

 

所詮妄想ですし、昔の君主制と現代の独裁政治とは実際に違うものなのだろうとは思いますが、どうにも大衆を特定の意識方向へ向かせておきたい「意思」のようなものを感じる。

念のために注釈ですが、君主制こそがいい』とか、『民主主義はだめだ』と言っているわけではありませんよ。

 

わたしが言いたいのは「『当然や普通と思っていること』はどうしてそう思うのか、を今一度、精査・観察・思考しましょう」ということです。

 

 

それこそパッケージ

わたしはなるべく、ある事象を見たときに一方向の視点だけで判断するのではなく、全く別な方向からも観察して判断することを心がけています。

 

A→◯ 最初にこういった場所からその事象を見た時は、

A→◯←B 次に違う地点からその事象を見ようとするということです。

 

ですが、どうにも最初に見た場所から動かずに同じ面だけを拡大して見ようとする人が多いように感じる。

 

そうめんつゆのラベル正面だけを見て購入した人が「そうめんつゆを買ったが、原材料にしいたけが使われていた。しいたけアレルギーなのにどうしてくれるんだ!」と怒っているのと同じです。

正しい情報は多方から見なければ見えてこない。

 

 

パッケージは容易に我々の脳を騙しますよ。

しかし、パッケージに書かれているものも見ずに判断している人が一定数いるから、販売側としては騙している意識はないのか?

 

しかし、「これを記載すると購買に不利益が出るから、記載しないでおこう」という意思はあると思います。

成分表のキャリーオーバーとかね。

 

 

なんて偉そうに言っていますが、わたし自身がちゃんとできているかは不明です。

しかし、頭にいれておけばパッケージの罠に引っかかることは少なくなるのではないでしょうか。

 

 

誰がパッケージしたのか。誰のパッケージなのか。誰がパッケージされているのか

広告塔。CMタレント。報道。編集。

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時間軸。照明の当たり方。

 

 

 

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )