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先日『頭のいい人が話す前に考えていること』というビジネス書を読みました。
おそらく昨年にプレジデントやら東洋経済オンラインやらの記事でたまたま知った書籍です。
そちらの記事で氣になったので購入し、一年近く積ん読になっていたのですが、この度読んだ次第です。
その感想と、そこから考えたことが今回の記事内容なのですが、書籍自体の内容は至極当然というか、大して新しい発見もない取るに足らないものだったと個人的には感じます。
そもそもいつも考えていることですし、このブログでも何度となく言及しているような内容でしたからね。
まぁ、ある種わたしの考えは "やっぱり" 正しかったんだな、と、再確認する要素としては有用だったかな、と思います。
勘違いはしないで欲しいのですが、わたしは自分のことを『頭がいい』なんて思っていません。
再三言っておりますが、自負自信なんて持っちゃダメなんだよ。そんなものがあると成長をしなくなる。しょうもねえ奴にしかなんねえ。
とはいえ、「あ、そういうことなんだ!」と腑に落ちた部分はありました。
書籍の中で『思考を深くしろ』と言及されているのですが(完全同意)、その『思考を深くする』ための練習として、言語化と語彙の量を増やしましょうね、と記されています。
言語化の練習として、『読んだ本や觀た映画の内容をあらすじ的にまとめて、最後に感想を書く』というものです。
現代では色々なものの評価サイトというものがあり、まったく「消費者だなぁ」と思っている次第なのですが(自戒も含め)、そういった場で【あらすじ】を書いている人は多くいます。
前回の記事にも書きましたが、わたしは作品を觀たら『自分自身がどう感じたか』を記すように心がけています。
わたしがレビュー等で【要約されたあらすじ】を書かない理由は『誰でもできるから』です。
「誰でもできることを、どうしてわたしがやんないといけないの?」という感情から、レビューというものでは百を感想で書いているのです(そもそも要約してあらすじを書くことが下手なせいもある)。
ましてや、要約してあらすじを書いている人に対して「なんで誰もがやってることをわざわざ追随してんの?」とすら思っておりました。
しかし、レビュー等にて【あらすじ】を書く人というのは(『頭のいい人が話す前に考えていること』でも言及されておりましたが)、どうやら『いかに自分の言葉で要約して字数に収めるか』を価値基準に置いているみたいです(パズルみたいな感じ?)。
以前、あるネットの記事にて「通勤時間に觀た映画をいかに要約し、わかりやすいあらすじを書くか、それを考えるのが愉しい」との意見を見て「そんな人もいるんだなぁ」と《住む世界の違う人》として認識していたのですが、価値基準が違ったら、そりゃあ住む世界も違うよね、当然だね。と感じます。
ところでそういった作品に触れた際の、要約してあらすじを書くのか、完全に感想だけを書くのかの違いって、『0から1を生むのが得意な人』と『1を10に発展させるのが得意な人』との違いと相関関係ありそうだな、と思います。
言わずもがな、要約してあらすじを書く人が『1を10に発展させるのが得意な人』です。
わたしは本が好きなのでよく読むのですが、基本的には小説を読みます。
なので、ビジネス本はまぁ手に取りません。
昨日友人とAlc.を喰らっていたのですが、その酒場で『頭のいい人が話す前に考えていること』についての話をしました。
そこで思ったのですが、そもそもビジネス書ってのは「答えを提示する類の本」であるように感じます。
わたしは哲學も好きなのですが、哲學的なお話って「問いを提示する類のもの」ですよね。
これも、そもそも求めていたものが違ったのです。
『問いを求めている』のに【答え】を提示されても、求めていないのでピンとこない。
それだけだったのです。
あと書かれている内容も至極当然な、ちょっと考えれば誰でも思い至るような内容だったし、すでに知っていたし。
ま、好きに生きたらいいんです。
ありがとうございました( ¨̮ )
『Lark's Tongue In Aspic』がかっこよすぎますね。
いま帯を見て愕然としました。
【対峙】に「たいじ」と読み仮名が振られていたのですが、現代人は【対峙】すら読めないんですか…?
ちょっとありえないですね。