頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

複雑化できるか、それを愉しめるか。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日『頭のいい人が話す前に考えていること』というビジネス書を読みました。という記事を書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

安易な言葉とニュースピーク

その書籍の中で『安易な言葉を使わないようにしよう』と書かれていました。

『やばい』『エモい』『すごい』などです。

 

この意見には完全に同意です。

もとから同じようなことを記事で書いてきましたからね。

 

安易な言葉というのは、それだけで樂ができるので思考をしなくなりますから。

現に今がそうじゃないですか。

 

人間は怠惰な生き物と言いますが、怠惰になりたくて樂な言葉を用いている人間ばかりだと感じます。

まぁしょうがない部分もあります。だって思考するのって疲れるし。

 

あ、そういえば『一九八四年』で描かれていた「ニュースピーク」という言語政策も、言葉を簡略化するものでした。

その言語政策を行なっていた理由も、"市民が思考しないようにするため" で、その先には『政府が統治をしやすくするため』というのがありましたね( 多数派が思考を放棄すれば、まともな、"自分で思考する人" を『頭のおかしい人』や『面倒臭い人』として認識し、淘汰しようとしますからね )。

『考える人間』を減らして、阿保ばかりにすると、選択肢を与えてくれる者を、自ら求め、信奉するようになるから。です。

 

 

これは簡略化ということだと思います。

 

簡略化について言語に限った話として上記しておりますが、これは何も言語に限った話ではありません。

 

 

簡略化

『安易な言葉を使わないようにしようね』の項を読んでいる時だったのか、それは失念したのですが、今日とは言わず、ここ十数年ずっと、電車の内外問わず けいたいでんわ に掛り切りな方をよく見かけますね。

 

各々必要があってにらめっこをしているのだと思います。

ここ最近ではなんでもかんでも けいたいでんわ で行うことができます。

しょっぴんぐ、しらべもの、各種娯樂享受、交通手段の支払い、正直テクノロジーとは密な付き合いをしないようにしているのでそれくらいしか知りません。が、今では「そんなこともできるようになったの?!」と驚くような機能が増えたりしているのでしょうね。

そのうちきゅうりとか切れるようになったりしそうです。

 

 

ここで勘違いしてほしくないのは、『 けいたいでんわ を使うな』と言っているのではありません。

わたしだって けいたいでんわ を使って調べ物をしたり取るに足らない「それ必要?」と思えるようなものを見たりします。

 

わたしが苦言を呈しているのは、その程度です。

 

「MAJI何回言ってんだよ。聞き飽きたわ」と思われることでしょう。

うるせえ、何度だって言うよ。

これは本当に重要なことなので。

 

 

現代では けいたいでんわ でなんでもできますが、これも、これこそ《簡略化》なのではないのかと感じるのです。

簡略化をするとどうなるのでしたっけ、阿保になって思考を放棄するのですね。

 

現に今もその片鱗はとてもあるじゃないですか。わからないことがあるとどうされますか。検索します。

わたしも検索します。阿保なので。

 

思考を放棄して阿保が極まった状況が『なんでもAIの決定に従おう!』なのかしら、とか思ったりします( 最近ぐーぐるけんさくをしたら「AIさんの答え」が表示されるようになりましたね )。

 

 

簡略化に飽きたり本能的に潜在的に危機感を持っているから、サウナやキャンプが流行っているのではないか、とすら思ったりしますが、ちょっと思ったことなので実際のところは知りません、存じません。そもそも本当に "識る" なんてできねーよ、所詮人間だろ。

 

 

これから世界は簡略化していく流れとなるでしょう。

《簡略化》のわかりやすい例として、けいたいでんわ を挙げました。

 

電車内に話は戻り。

『頭のいい人が話す前に考えていること』というビジネス書を読んでいるときに、ふと周りを見るとみなさま一様に けいたいでんわ とにらめっこをしております。

「おいおいみんな けいたいでんわ ばっかり見てんなおい」と思いました。

思えば「おいおいみんな けいたいでんわ ばっかり見てんなおい」と思って十年くらい経過したと思います。十年は経過していません。

 

最近では電子書籍なんてものも出ておりますね。

わたしは完全に紙派なので、わざわざ紙の本を購入しております(知識ってみちゃくみゃ愉しいよね!)。

 

「おいおいみんな けいたいでんわ ばっかり見てんなおい」と思っている時に感じたのですが、この《簡略化》が推し進められる世の中で【複雑化】をできる人、【複雑化】できることが、これから生きる上で非常に重要となる、重要となっていくのではないのでしょうか。

 

恐らくこれからの世の中は《簡略化》がどんどんと進んでいくでしょう。

丁度、本屋さんで『簡略化こそが最強の生存戦略だ!!!』みたいな題名の書籍が陳列されていました。

〈言い切り形〉・〈断定した書き方〉の方が脳みそに容易に浸透する(『わかりやすい』)ので、そりゃあそういう書き方もするよな、ビジネス書だろうし、と思いましたが、どうにも鼻白んではしまいますね。

『自覺なくアホになれ!!』と言っているようなものでしょうからね。

このように、世界は簡略化に傾いていくでしょう。

 

 

【複雑化】を愉しむ

『調べる』と一言に言っても複数の方法があります。

「ふくざつ」という言葉でも、インターネットを使って調べるのか辞書を引くのか。

 

前者は樂です。後者は面倒です。もしかしたら辞書を買うところから始める必要があります。

この『面倒さ』こそが必要なのではないか。

面倒なことを〈面白がれる〉か、〈愉むこと〉ができるのか、その心がけや意識がとんどでもなく重要となってくるのではないのか、そう考えます。

 

電子書籍ではなく本屋さんに足を運び、購入する。

実際の紙の手触りを感じる。

目当ての本ではないものと出逢う。

 

 

で、この "面倒を愉しむ" や、わざわざ《複雑化》しようとする、考えるって、いつぞやから言われだした『丁寧なくらし』ってやつなのではないでしょうか。

 

 

お後がよろしいようで。

 

 

よろしいのか?

 

しーらね。

 

お好きに生きてください。

 

 

ところで、なんか勉強とか資格系の書籍は紙のものを用いてる方が多いように感じます。

「そういうところは紙なんだ。それって『勉強してます感』を出したいだけなんじゃない?」と思ったのですが、それは単純に勉強・資格系の書籍は圧倒的に紙の本の方が多いという理由があるのかもしれないし、「勉強といえば紙の本」という確固たる無意識が勉強を行う側にあるからなのかもしれません。

また『 けいたいでんわ を用いる=取るに足らないもの見ている』という偏見がわたし自身にしっかとあるために、"電子書籍で勉強している" という考えがなかったのかもしれません。

 

ほら。阿保でした。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )