頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

言葉は看板

 

ご無沙汰しております。

本日も閲覧ありがとうございます。

 

今回は新書的な書き方をしてみました。

「タイトルに結論を書いて、内容でタイトルの意味を説明していく」というやり方です。

お付き合いいただけると幸いです( ¨̮ )

 

 

 

 

 

言葉は看板

 

最近しみじみと「言葉は看板だな」と感じました。

とてもお腹が空いていて、今にも倒れそうだという人がいた場合、レストランを前にしている状況なのにわざわざ車屋さんに行ったりはしないはずです。

 

お腹が空いていて、ファストフードのお店と割烹料理屋さんが目の前にあった場合、ファストフードが大好きな人は割烹料理のお店には入らないはずです。

 

なにが言いたいかというと、人は自分が所属しているグループに帰属するものだということです。

 

本屋さんが好きで喫茶店などでゆっくり本を読むのが好きな人は、パチンコなどの騒々しい場所には行かないでしょうし、クラブが好きな「チャラい」と形容されるような人は茶道や瞑想などの静かな活動はしないはずです。

 

 

先述のご飯屋さんの話でも、ファストフードや割烹料理、イタリアンや中華料理なども看板ありきで「そのお店がどういった料理を提供しているか」を、利用する側のわたしたちは判断します。

 

はじめに看板があった ですね。

 

ご飯屋さんだけでなく、人は様々なお店も看板を見て判断します。

「『〇〇 CLOTHING』と書いてあるからアパレル関係であろう」であるとか、「『〇〇diner』と書いてあるから食事処であろう。しかもアメリカのイメージがある料理がでてくるのであろうな」と判断します。

むしろ、消費者として活動するにおいては看板だけから判断しなければならず、わかりにくい場合は文句すら言いかねない始末です。

 

 

さて、一方人はどうでしょうか?

人は言語というトリックを覚えた結果、感情表現も自分の考えを伝える場合も言語を利用しています。

その言語があるから「その人はどういうことを考えており、基本理念がどこにあるのか。なにを大事にしているのか」をうかがい知ることができます。

 

その「話す言葉に同調して」人は集まります。

前述の話と同じで、本が好きな人には同じく本が好きな人が集まりますし、ギャンブルが好きな人はギャンブル好きが集まりますし、クラブが好きな人は同じような人同士で集まります。

同じコミュニティに属しているから話す言葉も似通ってきます。

 

スラングミームが多くあるコミュニティでは、いかに共通のスラングを多く使うかで、そのコミュニティでうまく立ち回れるかどうかが変わると思っています。

今のスラングでいうと「エモい」や「ぴえん」といったものがそうだと思います。

 

そういった特定の場でしか伝わらない言葉をいかに流暢に使えるかでグループの中での過ごし方が変化する。

 

しかし、そういったスラングや「すぐに略する文化(タピるなど)」に対して強い拒否感を持つわたしとしては、スラングばかりの文章を見ると非常に莫迦っぽく見えてしまいます。口汚く形容すると「知能が低そうな文章だな」と思います。

 

そういう方々とは最初から話が合わないんだろうな、と思ってしまうのでわたしは初めから近づかないのですが、これは言葉が看板になっているということなのではないでしょうか?

 

 

御誂え向きな言葉

 

「言葉は看板」という主張で御誂え向きな言葉があります。

『男性の同性愛者に対して使う"ホモ"という言葉』です。

大前提、認知をしていない人が多いようなのですが、男性の同性愛者へ対して使う「ホモ」というのは蔑称です。

ゲイという推奨されている呼称があります。

 

英語で異性愛は『ヘテロセクシャル(heterosexual)』、同性愛は『ホモセクシャル(homosexual)』というので「ただ同性愛の英語を使ってるだけだっつーの 笑」と詭弁を展開する方も多いかもしれません。

だったらレズビアンの方に対しても"ホモ"と言えよ。

 

レズビアンの方に対してはレズビアンというのに、ゲイの方に対してだけ"ホモ"という言葉を使うのは他意が含まれていると思われても仕方ないのではないでしょうか?

 

 

他にもインターネット(2ch)のスラングが多いですが、『老害』や『アスペ』、『ガイジ』なんてのもあります。

老害』は言い得て妙だなと感じる部分は多いですが、実生活で使うのとは別の話です。

『ガイジ』は「障害児」を揶揄し侮った蔑称です。

この言葉に関しては言語道断で、実生活はおろかネットの世界でも使うべきではないとわたしは強く思います。

あまりに相手や、相手以外の人を軽視しすぎている。

 

「ホモ」や「老害」、「ガイジ」を日常会話で用いている方と先の人生も共にしたいでしょうか?

わたしの場合は絶対に嫌です。

 

 

言葉も積もる

 

 

言葉は看板だと話してきましたが、と同時に「塵も積もれば山となる」的な側面もあるなと感じます。

 

黒人(アフリカンアメリカン)の友人がいたとして、その友人へ「クロンボ」や「ニグロ」という言葉を愛称として使っていた(どちらの呼び方も蔑称ですので絶対に使ってはいけません)。

そんな関係がある程度続いた頃に「ちょっとこの用事済ましといて(ちょっと手が離せないから申し訳ないけどお願いできないかな、という前置きなしで)」と、ふと頼んだことがきっかけで、黒人の友人が「いつもニグロとか言ってくるけど、お前人のこと使用人か奴隷とでも思ってんのか」と激怒されることがあるかもしれません。

 

愛称として言っていた側は愛称のつもりでも、言われている側は必ずしも好意的に取るわけではない、という例えですが、これも言葉が引き起こした結果です。

 

差別意識が含まれた言葉」を日常的に使う人は、人間関係で常に「この人とは関係を考え直した方がいいかもしれないポイント」を自ら貯めていて、それが臨界点に達した人は何も言わずそっと離れていきます

「ちょっと使う言葉を見直した方がいいんじゃないかな」なんて、よっぽどの間柄でない限り相手に提言したりしません。そっと関係を解消するんです。

 

その結果「差別意識が含まれた言葉を多用する人は、差別意識が含まれた言葉を多用する人」と集まることになりますし、「綺麗な言葉遣いを心掛けている人の周りには、綺麗な言葉遣いを心掛けている人」が集まることになります。

 

これは因果応報とも言いますし、類は友を呼ぶとも言うのでしょう。

 

この同じ人が集まるのも、その人が発した言葉が看板となり、その看板を見て同じ看板を持った人が集まったのでしょう。

 

わたしは乱暴な言葉を使う人の近くに居たいとは一切思いません。

 

 

 

話し方と使う言葉

 

 

「この前行った店で接客にきた店員が、ずっとこっちを舐めた態度とってたからマジでムカついた」

 

という文章も、話し方と使う言葉次第で、

 

「この間入ったお店で接客についてくれた店員さんが、終始こちらを侮った態度をしていて本当に不快だった」

 

と言い換えることができます。

 

どちらの方が理性的、理知的に感じますでしょうか。

前者の方が親しみやすくて好きと感じられるのならそれもいいと思います( ¨̮ )

身の振り方はご自身で決定されてください。その人の生ですからね( ¨̮ )

 

 

言葉は自分を創っていますよ( ¨̮ )

話していることはブーメランで、言葉は看板です( ¨̮ )

 

以上、自分への戒めも込めて。

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

 

 

 

youtu.be

名作たる所以

 

youtu.be

 

ご無沙汰しております。

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

近況

最近、鬼滅の刃を描いた吾峠呼世晴さんの短編集を購入しました。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

こちらの過去記事にて『吾峠さんの絵は繊細憂いがとても含まれている(優しい絵)』と評しました。

 

 そして今回短編を読んだのですが(鬼滅本編は未読)、『過狩り狩り』のタイトル明け一コマ目からびっくりするほど絵が上手い引き込まれる上手い

「おにぎりを差し出す老人の手」というコマなのですが、老人のしわがれ具合やごはん粒のふっくら具合など、とても無駄がない。のに、情報量が多くて隙がない。

 

なんというか、「ふらっと立っているだけに見えるのに、攻め込む隙が全くない武術の達人」みたいな感じです。本当に絵が上手い画集買おう。

 

そして全体的連載される前だからか話にも絵にもパワフルさやエネルギッシュな勢いみたいなものも感じます。

 

他のジャンプ作品はほとんど知らないのですが、吾峠さんの作品は「自分が知らない他人にも、ちゃんとその人の人生や生活がある」のをしっかり描いているように思いますね。

わたしの知っているジャンプ作品が偏っているので分析が間違っていることはあると思いますが、他のJ作品は「独善的」で自分を中心に世界が回っていると思いすぎている描き方をしているように感じます。

 

吾峠さんの作品は、「知らない人・町ですれ違った人にもちゃんと生活がある」ということを描いていて、その知らない人と自分が交わった時に新しいお話が紡がれていくという一期一会を描いている作家さんなのかなと感じました。

 

それと全編通して、とっても優しいですよね。

慈愛アガペーに溢れている。

『肋骨さん』とかすごく良い話です。大好き。

 

この日本にも「自分の損得ではなく、他者のことを想えるちゃんとした人間」が増えてほしいと切に思います。

 

あと思ったのですが、吾峠さんの絵はちゃんと体の肉を描いていますね。

吾峠さんしかり、『とんがり帽子のアトリエ』の白浜鴎さんしかり、『ブルーピリオド』の山口つばささんしかり、わたしは「ちゃんと体の肉を描いている絵」が好きなのかもしれません。

三者とも女性作家さん。男性作家さんは「骨と腱」を描きがちな氣がします。

 

あと吾峠さんは江戸川乱歩さん好きそうですね。

 

 

さて本題です。

最近わたしは『はてしない物語』を読みました。

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https://www.iwanami.co.jp/book/b254872.html

 

物語終盤の話ですのでネタバレ注意です

 

 

 

 

 

コレアンダーさんが主人公の少年にたいして、

絶対にファンタージエンにいけない人間もいる。

いけるけど、そのまま行ったっきりになる人もいる。

ファンタージエンに行ってまた戻ってくる人もいる。

そしてそういう人が両方の世界を健やかにするんだ。

 

ほんとうの物語は、みんなそれぞれはてしない物語なんだ。

ファンタージエン(魔法の国)への入り口はいくらでもあるんだよ。

そういう魔法の本は、もっともっとある。

それに氣づかない人が多いんだ。

つまり、そういう本を手にして読む人しだいなんだ。

 

それに、ファンタージエンにいってもどってくるのは、本だけじゃなくて、もっとほかのことでもできるんだ。

きみは、これからも何人もの人に、ファンタージエンへの道を教えてくれるような氣がするな。そうすればその人たちが、おれたちに生命の水を持ってきてくれるんだ。

 と話します。

 

 

この「ファンタージエンへの入り口がいくらでもある」というのは、おもしろく見ようっとすれば、おもしさが拓けるという「面白いこともなき世を面白く」の精神ですし、「ファンタージエンに行ってもどってくるのは、本だけじゃなく色んなことでもできる」というのは「自身の創造性を自分で狭めるな」という意味、ファンタージエンに行って戻ってきた人が、両方の世界を健やかにする」ファンタージエンに行った他の人たちが、おれたちに生命の水を持ってきてくれる」というのは、一度でもなにかに没頭した経験がある人にはその没頭を下の世代へ繋げてほしいという著者の願いを感じました。

ゲーム好きな人がゲームクリエイターとなって、新しいゲームを作り若い世代を楽しませてほしいといったような感じですね。

 

あと『モモ』の時にも触れられていた「具体性の高い"用途が決まっている"創造性を必要としない遊びばかりをしていると、抽象性の高い物事への対応力が失われ、具体性の奴隷になる危険がある」という著者エンデ氏の主張も『はてしない物語』の中に感じました。

わたし自身も、具体性の奴隷となることに対しては大変危惧を感じています。

事実、その具体性の奴隷になってから久しいと思います。

 

 

マトリックス

 

マトリックスという映画があります。

内容は

主人公のネオはコンピュータープログラマーだったけど、その世界は仮想現実で、本当はAI(機械)に人間がカプセルの中で栽培されていて人間の精神だけを仮想現実内で生かしていた。それをエネルギー源にAIは生活していた。

とまあざっくり説明するとこういった感じです。

 

「人間の精神をエネルギー源にしていた」のメカニズム?は、怒りや悲しみ、喜びといった感情は時としてとてつもないパワーを産みます。

 

「むかしバカにしてきたやつらを見返すために大成してやる」というのもエネルギーです。

「自分が悲しい経験を多くしてきたから、他の人には同じ経験をしてほしくない」というのも「好きな人(守るべき存在)がいるから過酷な仕事も頑張れる」というのもエネルギーです。

 

 聞くところによると、あらゆる感情の中で怒りから発生した原動力(エネルギー)が一番強いそうですね。

 

これを見ると感情がエネルギーとなっていることがわかりますね。

なので人間の精神を仮想現実の世界で生かし、それをエネルギー源にするということの説明はつくと思います。

 

スピリチュアルなお話になりますが、地球外の場所には感情という概念が無いそうです。

外から来たと言われている仏陀氏がアルカイックスマイル(無表情に見えるけど、笑っているようにも見える表情。モナリザの表情なども)をしているのは、感情という概念がないためだそうです。

 

そのため、シリウスであったりアルクトゥルスといった外の星の意識体は、未だ感情という原始概念が残っている地球へアトラクション感覚で転生するらしいです。

まぁカバラのセフィロトでもマルクト(地球)は物質世界とされていて、低次元すぎてセフィロトから切り離された場所らしいですし。うろ覺えですけどね( ¨̮ )

  

 

 

ちなみにマトリックスの元ネタはニューロマンサーで、ネットの空間に意識を潜らせることを「マトリックス」と言っています。ニューロマンサーは一回だけ読みましたが、何度も読まないと一切理解できない作品なので、もし読もうと思われた方は覺悟してくださいね( ¨̮ )

 

 

物語内のある生物がこう言います。

「世界中の物語は、とどのつまり、アルファベット二十六文字でできている。一時一時は同じで組み合わせだけが変わるんだ」

 

これを読んだ時に思いました。

これってPC上で行うプログラミングと同じで、これは現実ともリンクしているのではないか?

 

アルファベット二十六文字を情報(DNA)と過程して、テーブルや椅子に使われている木材も「欅」や「オーク」のような『名前という識別番号が付いた情報』の集合体。

コップも、電子機器も、水も、肉体などの有機物も、情報の集合体。

万物は素粒子の集合体だと言われていたりもします。一切皆空の世界ですね。

 

つまりなにが言いたいかというと、超ざっくりとした意訳ですが「この世界はマトリックスの世界」ということです。

『シミュレーション仮説』や『水槽の脳』ってことですね。

 

 

以前ある人が「小説も読んだら作品の世界へトリップできるから、ある意味VR空間じゃないか」と話しており、その視点にわたしは「なるほど」と思いました。

 

夏目漱石氏の作品が、やたらとその頃に流行った食べ物や場所が子細に書かれていたり風景描写が細かいのは、その当時は今のように自由な行き来ができず、また旅行自体がかなりの贅沢だったから、旅行に行けない人が特定の場所に行ったと想像できるようにという紀行文の意味合いがあったそうです。

 

 

この世は情報に溢れています。髪の毛一本ですら遺伝情報の塊です。

情報の塊である肉体が思考という情報の攪拌を行い、情報の塊であるPCというデバイスを使って他の情報の塊へ、個人の知見としてアクセスを試みている。

これはこの『現実』だと言われている空間が、一般的にはPC内だけだと規定されているヴァーチャル空間内であるとは言えないでしょうか?

 

脳というのは、電氣信号を送受信するコンピュータみたいなものだとの見識もありますしね。

 

 

とすればどうなるか。

AIである我ら生物が思考すれば、その思考が現実化する道が開くのではないか?

 

 

映画『トゥルーマン・ショー』のように我ら愚かな人間が行う日々の生活が、娯楽として消費されているかもしれませんね。

 

現代で「神」と呼ばれている存在が、それぞれ水槽に個人的な宇宙を作っていて、その宇宙の中でわたし達が生きているのかもしれませんね。

 

その「神」たちが飼っている宇宙の一つ一つがパラレルワールドとして相互に干渉しあっているのかもしれませんね。

 

 

今氣付いたんですけど、ネオは本職がプログラマーだったから自身のプログラムを書き換えることができて、マトリックス外に出ることができたんですかね。 

 

 

 

星新一さんのショートショート

 

星新一さんのショートショート作品で「理由はわからないけど、ロケットを作り続けるロボット」の話があります。

 

「理由はまったくわからないが、おれたちはロケットを作らなければいけないと思っている。まるでそれが本能として定められているかのように」と作品内のロボットは語る。

そしてロケットは完成し、本能が望むまま、とある惑星に向けて飛び立つ。

ロケットは着陸の衝撃で大破し、登場していたロボットもボロボロになりながら辺りを見回すと、綺麗な服を来た人間が声をあげた。

「さぁ帰ってきた帰ってきた!一番最初に帰ってきたのはM123Δのロケット!配当は50倍!」

 

 

ロボットが感じていた本能はプログラムされたもので、賭博という娯楽として消費される物でしかなかったのです。

 

わたしのような奇態な人間が世の真理みたいなものに興味があるのも、プログラムされたものかもしれませんし、三大欲求のような「本能」も、それをしている時の脳の活動を研究するために「神」とよばれる存在が、地球の生物に組み込んだプログラムかもしれません( ¨̮ )

 

 

言靈の話の時に「昔からある言葉が現在でも使われるのは、その言葉がある種の真理に触れている為ではないか」書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

ずっと名作と言われている小説や映画も、その「ある種の真理に触れているため」人々の心を動かす力を持っているのだと思います。

 

そんなこと言っても、學ぼうと思えばなにからでも學ぶことはできますけどね。

湯氣が立つマグカップを見て、湯氣の昇り方から螺旋と回転の不思議に氣がつくこともありますからね。

勉強=學校・一方的に教えてもらうもの と考えていては一生學ぶことはできませんよ、というお話ですね。

 

 

わたしの話は真に受けないが吉かもしれませんね( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

勉強は癌宣告だ

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

最近養老孟司さんの『バカの壁』を読みました。

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https://www.shinchosha.co.jp/book/610003/

 

平成で一番売れた新書らしいのですが、読んでみればさすがという感想でした。

 

その作中にて養老さんが「勉強をする意味・"知る"ということの意味」を『癌宣告』と形容していたので、それをタイトルに使用させていただきました。

 

 

 

 

☝︎本題☝︎

最近『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』へ行ってきました。

作品紹介 - 【公式】ロンドン・ナショナル・ギャラリー展

(未来になってリンクが切れていたらすみません)

 

 

その時に展示作品を見た感想や考察を今回記そうと思います。

 

そんな考察もブルーピリオドからの受け売りの面がとても強いです。ブルーピリオド読んでなかったら油絵や絵画の楽しみ方も知らなかったでしょうね。損をしていたと思います。

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https://afternoon.kodansha.co.jp/c/blueperiod.html

☝︎1話が読めるので読んでみてくださいね☝︎

 

そんなブルーピリオドを読んでいたので絵画の構図に目が行って、それを描いた画家の意図を鑑みることができました。ブルーピリオドさまさま。

知るということは癌宣告です。

 

まず西洋絵画の構図には、大きく見て○□△XSという5つの幾何学形態で分類できるそうです(受け売り)。

とりあえずそれだけ頭に置いておいてください。

 

 

※ あくまでわたしの主観で、独特な考察です

 

サンドロ・ボッティチェリ「聖ゼノビウス伝より初期の四場面」

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この作品は「『キリスト教に入るから結婚できなくなることを許嫁に告げ(左側)、宗教の世界に入っていく様(右側)』という場面を描いている」と展示場の解説には書いていました。

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構図のお話です。構図の解説は完全に手描きなので見にくかったらすみません。

 

構図で見れば□の構図ですね。

左から右へ時間が流れているわけですが、開けている屋外(自由な身)から左側の屋内に入ることで宗教というもの狭苦しさ、そして右半分の建物も3本の柱によって分割されています。その均一な分割が宗教に所属するにおいての戒律や規則の厳しさを表現しているのだと思いました。

 

ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルト「マグダラのマリア

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すごかった。

思わず唖然呆然として立ち止まってしまいました。とても引き込まれる絵でした。

目を惹く絵なんだけど、なににそんなに惹かれるのかがわからない。不思議な絵。

絵に吸い込まれるが、吸い込みきらない。とても静かな優しさが滲んでいた作品でした。以前、弥勒菩薩に会いに京都の広隆寺へ行ったことがあるのですが、そこにいらした弥勒さんと似た雰囲氣を感じました。

なんでだろう?中央のマリアと背景とのトーンの明暗か?

 

正直画像なんかではこの「マグダラのマリア」の良さは3割も伝わりません。

本物はもっと暗いですしね。暗いからこそ作品が持っている深い静かな優しさや、滋味のようなもの、369的な空氣を感じるんですね。あとマリアが着ている銀マントの質感が凄かった、本物の布なんじゃねえかって思うくらいリアルでした。

なんでポストカードで売られてないんだよ!

絵に恋するってこういう感覚なのでしょうか。

なんでポストカードになってないんだよ!

 

カナレット「ヴェネツィア:大運河のレガッタ

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Xの構図で描くかれていて、線遠近法(受け売り)が用いられているので奥の方にも目が行く。視線誘導が知らないうちに発動しています。多数の船が浮かぶ運河にも△の構図が用いられていますね。
この場合は△構図の中にXの線遠近法が用いられていると評する方があっているのか?

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また、上の画像のように斜めに明暗を分けることで、表現をメリハリのついたインパクトのあるものにしている。

 

フランチェスコ・グアルディ「ヴェネツィアサン・マルコ広場

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これもXの構図なのですが、Xの線が交差する中央の部分を抜くことで、中央に目を向けるようにしている。形容するならば、漫画表現の集中線みたいな感じじゃないでしょうか。

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あと、「ヴェネツィアサン・マルコ広場(1760年頃)」は「ヴェネツィア:大運河のレガッタ(1735年頃)」よりも後の時代に描かれています。

カナレットが描いた作品へに対して、似た構図で描くというグアルディのリスペクトみたいなものが垣間見えてなんか良いですね。

 

エル・グレコ「神殿から商人を追い払うキリスト」

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一目で「良い絵だなぁ」と思いました。

中央にいるイエスが着ているビロードっぽい服の艶と、紫色という色の持つや神秘性や神聖さがキリストという人物の特別性や神々しさを表現していると感じました。

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構図は□ですね。

左に商人、右に修道士?がいますが、左右で人の服の光り方が違っていたんですよね。どうしてああいう芸当ができるんだろうか。すごいなぁ。西洋絵画についても勉強したい限りですね。

中央にイエスがいるわけですが、イエス自身がイスカリオテのユダに売られたから商人を追い払っているのでしょうか?

 

アンリ・ファンタン=ラトゥール「ばらの籠」

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最高!瑞々しい!生き生きとしている!

香りはほのかに、主張は控えているが、しかししっかりと上品に香り鼻をくすぐってくるかのような美しさがありました。

なんでポストカードで売られてないんだよ!

 

ポール・ゴーギャン「花瓶の花」

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サマセット・モーム著の『月と六ペンス』に登場する画家・ストリックランドのモデルと言われているゴーギャンですね。

 

展示の解説には「夢と現の境目が曖昧で全て夢なんじゃないかと思わされる」と描かれていましたが(うろ覚えのためニュアンス)、わたしには、この作品はゴーギャン自身の生への執着に見えました。

ゴーギャン1903年没で、この作品が1896年の作品です。

暖色の花は生を、寒色の花は死を、花瓶は自身の肉体を。そう表現しているように見えました。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり(4作目)」

 

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 ゴッホは芸術家の共同体を作りたかったみたいですね。それに賛同したのがゴーギャンゴッホは好きですが、わたしはその歴史は存じませんでした。星月夜が好きです。

 

今回日本に来ていたのが、ゴッホが7枚描いた内の4作目だそうで、日本初公開だったようです。

ゴッホのひまわりは実は7作品あるって知ってる? | MUTERIUM

 

その共同体としてのひまわりなんでしょうね。

展示されていた解説には「ゴッホ自身が氣に入った3作目・4作目をゴーギャンへ送った」と書かれていました。

しかしその後に例の「耳切り事件」があったため、ゴーギャンとの親交も断たれた。その事件は5作目を描く直前に起こったそうです。

 

ゴッホが描いた「ひまわり」の作品群を見ると、同じ絵を新しく描き直しているのが分かります。

ここから、ゴッホ自身が共同体に対して相当な憧れがあったんだろうなと思いました。

共同体を夢見た1作目と2作目。

ゴーギャンから前向きな反応があったことにより、氣分が上向いていた3作目と4作目。

画家たちの共同体という夢が文字通り"幻想"となってしまった後の5,6,7作目。

4,5,6作目が同じ作品の描き直しだというのが、ゴッホ自身の後悔の表れを物語っています。7作目も3作目の描き直しですしね。

「芸術家たちの共同体をつくるという憧れ」を抱いていた頃を思い出すための逃避行為としても、「共同体を作れなかった。その結果を招いたのは自分である」という後悔から来る自傷行為としても、わたしには見えます。

「ひまわり」は絵が泣いているように見えました。

 

「ひまわり」を何度も描く、という行為は『重力ピエロ』で春がノートに何度も同じことを描いていたのと同じ意味合いに思います。一種の祈り(安らかな方ではなく苦しい方の祈り)みたいな意味ですね。

 
ゴッホについて

 

2020年にゴッホ展へ行った時に感じたのですが、ゴッホという人はおそらく「絵を描いている時だけは生の苦しみから解放されていた人」なのだろうと思います。

絵を描いていない98%の日常は地獄の責め苦に苛まれているが、2%の芸術活動中だけは生きているように思える。

おそらく意識のどこかが人ならざる域まで触れている人なのでしょう。

ある種、神の域まで到達していた人。だから他の人とは上手く付き合うことができないし、結果孤立する。

ゴッホが生きていた頃は、今みたいにイヤホンで人の話し声を遮ったりできませんから、その声を聴きたくないために耳を切ったんじゃないかなと思います。

彼の絵は見ていると悲しくなります。

 

「絵という世界の中にだけ救いを見出していた人」

 

彼が自死を選んでから120年が経っていますが、どうか成仏して安らかに過ごしていてほしい。

意訳っぽい解釈かもしれませんが、太宰治氏と似た人なんじゃないかなと思います。

 

彼やゴッホ展についてもまた記事を書きますね。

 

 

 

以上!ロンドン・ナショナル・ギャラリー展の感想でした!

 

ここまで読まれた方にはお分かりでしょうが、わたしは美術史や作品の経緯なんてものは全然知りません。芸術の上澄みだけ掬ったような人間です。なので、全く的外れなことを考察していても許してね😘

 

実際、芸術は確かに好きですが、元来わたしは音楽畑の人間なので画家の名前なども一般的に有名な方しか存じませんでした。ゴッホフェルメールピカソミュシャ、モネなどなど。でも、それって勉強して楽しむ伸びしろがあるってことじゃんね。

積極的に癌宣告していくぞー。

 

 

 

最後に

 

絵画は実物を見ないといけないと思います。

実物には念というか、作家のパワーが宿っているように思います。

画像や印刷と実物では色の見え方が全く違いますし、いざ目の前に対峙した時に圧倒されたりしますよ。

芸術は是非実物と相対して、目の前の作品と、そしてその作品を見た時の自分と、会話をしてみてください♪

 

 

 

著作権を侵害している場合はお伝えください。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

相手を通して自分を見る。

 

本日も閲覧いただきありがとうございます。

 

今回は以前に書いたこちらの記事で、「また別の機会に書く」と話していたことを記そうと思います。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

以下、このエピソードはわたしが体験したノンフィクションですが、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。

 

 

 

 

自分の中にあるからこそ見えるもの

以前、わたしは『こうもり』という先輩バンドのローディー(手伝い)をしておりました。

わたしはその当時、こうもりでボーカルを務めていた言さんと仲良くさせていただいていました。

その言さんがわたしのバンドを見にきてくれたことがあり、バンドの演奏後に言さんが、わたしのバンドで当時ボーカルを務めていた真さんに対して「彼は20人そこそこの動員(固定のお客さん)で満足するタイプだと思う。君の足を引っ張ると思う」と評しました。

 

それから半年ほど時間は経ち、とある幸運でわたしはメジャーバンドの方と一緒にお酒を飲ませていただく機会がありました。

こうもりでベースを弾く曙さんと、『エドヴァルド』というメジャーバンドのベーシスト UKさん(一番先輩)が仲良しで、お二人でよくお酒を飲んでいたんですね。

その酒席に同席させていただいたのですが、そのUKさんが曙さんのバンドメンバー、言さんの話をしました。

「彼(言さん)はダメだ。彼は仲良し数人とおべべを着て、週一回のスナックでカラオケを歌って満足するタイプだ。それに付き合わされてるから君(曙さん)や他のメンバーは足を引っ張られて迷惑を被っている。実際にそうだろ?

 

わたしはUKさんと曙さんの話を聞くだけの借りて来た猫状態だったのですが、このUKさんの言葉には「おや?」と思いました。

 

言さんが真さんにした評価と、UKさんが言さんにした評価が一緒だったのです。

 

その先輩二人の会話(説教?)を、借りて来た猫の状態で聞いていて「非常におもしろいな」と感じました。

 

この体験がきっかけで「相手(他者)に対して感じたことは、自分もまた別の誰かから同じことを思われている相手に感じたことは、自分もその要素があるから『この人にはこういうところがあるなぁ』と思うのではないか」と感じました。

これは「しっかりと言語化し、説明することができる」場合にだけ適用されると感じており、「なんかわからないけどモヤモヤする」というものは直感由来だと思います。

 

言語化できることに適用される」と上記しているので、安部公房の著書『他人の顔』を評した際に書いた"自身が所属するコミュニティを、わざと閉鎖的な空間にして、その上、対外の人を敵視して敵対関係をわざわざ作る"というのも、ブーメランだということになりますね。自覺があります。

わたしの場合は所属できるコミュニティがないので、"対外に無数に存在するコミュニティに対して敵視している"の方が正しい表現です。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

自分の中にないからわからないこと

自分が優柔不断をコンプレックスに思っていて、それを友人に相談してもいまいち理解されない。

「ゆっくり選ぶことができていいじゃない」と言われる始末。

これは相談した相手に優柔不断の要素がないから、理解されない。

 

「だれそれが口を開けば愚痴と他人の悪口ばっかりで本当にいやだ」と、その場にいない人の話を友人からされた時に、「いや…同じことあんたもよくしてんじゃん…」と思った経験がある方も多いのではないでしょうか。

それもその人が同じ要素を持っていたからこそ、目についてしまったのだと思われます。

 

なので、他者を見て「この人は場を仕切りたいのかなぁ…。でもなんか空回りしてる感じがあるな」とかなんとか思った時は、「これは自分が氣付いていないだけで、同じ要素を持っているんだろうな。第三者から同じことを思われているんだろうな」と自己を省みるようにしています。

 

トランプさんに対しての「自己顕示欲が強い」も、山田玲司さんに対しての「偏見やバイアスが強い」も、わたしの中に同じ傾向があるのです。実際、その自覺はあります。

 

 

 

これを昔からある言葉にすると『人のふり見て我がふり直せ』になると思います。

 

 

対象をポジティヴにするかネガティヴにするかは

以上に挙げたものはネガティヴ寄りのお話ですが、これはポジティヴにも通用すると思っています。

 

「この人の笑顔は素敵だな。癒されるな」であるとか、「この人は本当に聞き上手だな。なんでも話せてしまう」と思った場合、それはまた別の第三者からの自分への印象と言えるのではないでしょうか?わたしはそう思っています。

 

それまで何も思わなかったけど、ふとした時に「この人は誰に対しても、いつも礼儀正しいな」と思ったなら、その瞬間に『"相手に対していつも礼儀正しく接することができる"ようになれる可能性が自分の中に生まれたのだとわたしは思っています。

 

それでこれはわたしの経験則なのですが、相手の良い部分を積極的に見ようとしていると、その良い部分を見る力が育っている感じがします。

わたしはそれまで"減点法"的な見方ばかりしていたので、無意識にも相手の「ここはどうなのかな」みたいな部分を見つけてしまいます。そんな時は「いや、そうやって偉そうなことを言っている自分はいったいどうだ?」と内省しています。

 

あとわざわざ相手のよくない部分を見続けるってエネルギー使うし、氣が滅入るんですよね。

それなら良いところを探しながら接する方が、ご機嫌でハッピーに過ごせますし、新しい指針を得ることができます。

 

よく引き寄せの法則だとか言いますよね。別の言い方をすればカラーバス効果ですね。

 

 

「こいつはなにも良いところがねえな!」と思ってしまう方もたまにいらっしゃいますが、そんな場合は反面教師にする材料や経験を得たと考え、将来自分がそうならないように備えるようにしています。

あと、『鬼滅の刃』において炭治郎が鬼に対してしたように、『この人がどうしてこうなったのか』というヒストリーを、憶測でしかありませんが鑑みるようにしています。理由を知ったら案外怒りも軽くなるものですよ。

 

なんだかすごく自己啓発チックになったな。

 

 

ただ、これは結構諸刃の剣で、「相手に思ったことが自分にも内在している」ということは徹底的な自己内省にも繋がります。

自ら過去の傷をほじくって、えぐり返すということにもなりかねず、忘れていた過去のトラウマがフラッシュバックするという甚大な精神的ダメージも受けかねませんので、覺悟が必要です。

 

 

不足感と充足感

話を戻します。

これもわたしの経験則ですが、接する相手の良いところを積極的に見ようとしていると、案外「自分はすでにいろいろ持っていたのだな」と思ったりします。

 

これは『足るを知る』と言われることですね。

人というものは『自分は全てを持っている』ということを知るために生まれるのではないかと思っています。

 

これは以前わたしが描いた『karma』という作品です。

 

わたしは大前提として輪廻転成の概念を採用しているのですが、完全な存在だった状態から地球に生まれる時に、色々な要素が飛び散った状態で肉体を得る。

その地球で輪廻転成を繰り返すことで、飛び散った本来持っていた要素を拾って自分の身にしていく。

その必要な一過程として、『足るを知る』は重要だなと思うのです。

 

 

不足感っていうものは見つけようと思えばいくらでも出てきますし、お金もかかります。不足感を煽っているのはテレビ等のマスメディアです

先述のカラーバス効果と似たものだと思いますが、充足感も見つけようとすれば(それがどれだけ些細なものでも)どんどん出てきますよ。

 

道に咲くお花が綺麗だと嬉しくなったりするのですが、それは「視覚があること」と「外に出て歩くこと」と「健康」があるから、綺麗だと「思うこと」ができて、「嬉しくなること」ができる。

メメントモリにも書きましたが、『有り難い』のです。

floodinhead.hatenablog.com

 

実際「失って初めて重要さに氣付く」と言われるほど人間ってのはアホなので、実感は薄いと思います。10年前の自分自身に話してもピンと来ないんじゃないでしょうか。

 

EXITの兼近さんも「無いを探すのではなく、あるに目を向けたら氣持ちも上向きになった」と仰られてれていました。

youtu.be

 

 

無知の知

氣をつけないとなと思うのは、わたしの経験上 「人が得意げに話すこと(いわゆる自分語りというやつ?)は、すでにみんな理解済み」なことが多かった(難易度7に挑んでいる人の前で、難易度3の成功体験を自慢げに喋っている感じ)ので、こうやって書いたことも、同じ二の舞かもということ。

また、将来的にそういった印象を持たれるのではないかという懸念です。杞憂になればいいんですけど。

曰く、

「得てして人は、自分の得た物を、自分だけが得た物と思い込むというわけですよ 」

 

                   魔王 - 伊坂幸太郎 (152ページ)

ですからね。 

 

驕らずが吉。礼儀正しく、誇示せず、にこやかに過ごしたいですね。

 

 

 

今ふと思ったのですが、「売春」って言葉はどうして売る側の視点なんでしょう。別に「買春」でもよくないか?

「売春」の表記だと、買う側が透明化されて売る側だけが矢面に立つ構成になっていないか?

 

と思ったのですが、「買春」という言葉もあるそうです。

『"買う側にも責任があるでしょ"という問い』の姿勢から生まれた言葉みたいですね。

調べてよかった\(´-`)/

無知ほど声が大きい\(´-`)/

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

相対的であり、絶対ではない

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

今回は初めてブログテーマというものを取り扱います。

 

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

強いて挙げるならば「相手のバックボーンを鑑みることができるようになり、断罪をすることがなくなった時」でしょうか。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

 

大人を自負している奴はクソ

大前提として、わたしは「大人」というものが嫌いです。

正確にいうと『自分が大人だと自負している人』が嫌いです。

そういう方々には不信感しかありません。

 

まず、「大人」というのは何を定義して言われるのでしょうか?

 

一般的には「実年齢が(おおまかに見て)20歳以上であり、自分本位な行動ばかりでなく、思慮分別があって場の状況を正しく整理・理解することができ、常識的で自立しており、他者への思いやりができる人」というように(半ば暗黙の了解のように)言われています。

 

上記の定義は意図的に厳しくしましたが、果たして、この世界で「大人」という役割を担っている方々が、みなさま上記のハードルをクリアできているでしょうか?

 

わたしが19歳かそこらの時に働いていたところの先輩(40歳くらい?)は、挨拶をしても一切返答することはありませんでした。

これは常識的な大人と言えるのでしょうか?

 

自分の機嫌次第で後輩に当たり散らして威張っている上司もいました。

それは本当に自立していると言えるのでしょうか?

 

わたしが過去働いていた職場は軒並み接客業だったのですが、とても傲慢な客が多く、店員に対して礼儀もへったくれもない人が多かったので(ちゃんと礼儀正しい方ももちろんいます)、わたしは店員さんには礼儀正しくしようと常々心がけているのですが、接客業経験者であっても自分が客の立場になった途端に横柄な態度になる人も見ました(自分の機嫌で当たり散らす上司)。

それは他者への思いやりがあると言えるのでしょうか?

 

先述のものと被りますが、自分の好き嫌いで相手への態度を変える(それこそ無視をするであるとか)人も多くいました。

それは自分本位でないと言えるのでしょうか?

 

 

他者とのコミュニケーションにおいて、個人的な感情を持ち込むな。

上に並べた過去の私怨は、確かに

 

  • 人は、関係を良好にするため、好き嫌いは関係なく挨拶はするべきである(特に仕事においては、人間関係の不和による支障が原因で不必要な問題が発生しかねないため)
  • 場の一人が機嫌次第で行動すると、その一人のために複数人がご機嫌取りをする羽目になり、その結果チームのパフォーマンスが著しく低下する危険があるため、個人の機嫌とコロニー内の機嫌とは切り離さなければならない。自分の機嫌くらい自分で取れるようになっとけ
  • お店というのは商品の代価として金銭を受領している。特定の商品に設定された金額というのはその商品のみの値段であるため店員さんの接客費とは別になって独立している(これは超個人的な考え)。単純にお店において客という立場は、店員さんが存在しないと購入すらできないのだから、店員さんに礼儀正しく接するのは当然じゃね。
  • 自分の好き嫌いで相手への接する態度を変えていると、それを第三者から見られた時に「あの人は好き嫌いで態度を変えるのだな、あまり近づかないでおこう」と思われる可能性がある。それにより、有益な情報を教えてくれるはずだった人を一人失うことになる。その失った一人から伝播して多数の交友を失った結果、甚大な損害を被る可能性も発生する。多くの人が去ったあとに残るのは、同じような人間性を持った人ばかりになり(類は友を呼ぶ)、傷の舐め合いになったり相互監視の疑心暗鬼コミュニティが形成される。

 

というわたしの信条から外れていることから「理解ができない」とわたし自身が感じるのだろうなと思うのですが、ちょっと考えたらこの程度わかるだろ。

 

 

『現実を見れる』のが大人なのか?そもそも『現実を見る』とは?

2年ほど前に「グレタ・トゥンベリさんについてどう思われますか?」という街頭インタビュー映像がニュース番組で流れていました。

その質問に「彼女はまだ幼いですからね。現実が見えていないんでしょう 笑」と40代のサラリーマンの方が、嘲笑ぎみで小馬鹿にしたような返答をしていました。(これはグレタさんの活動を肯定する話ではありません)

 

『現実を見る』とはなんなのでしょうか?

わたし個人としては「環境問題をしっかりと見つめ、その是非を精査すること」が今できる『現実を見る』なのではないかと思います。

地球温暖化が起こっている・起こっていない」ではなく、「もし本当に起こっていた時に今なにをすべきか、なにができるか、子の世代・孫の世代が生きていける世界を残すために、今なにをしないといけないのか」を調べる、それができそうならば実践をする。

それこそが『現実を見る』ということなのではないかと、わたしは思います。(これはグレタさんの活動を肯定する話ではありません)

 

確かに物事や諸問題ってのは層状になっているので、『すっぱい葡萄』みたいに決めつけて楽をしたい氣持ちもわかりますが、その結果、あんたの子や孫が苦しんでもいいのか?

 

"洪水よ、我亡き後に来れ!"じゃねえんだよ。

 

 

大人なんていない。みんな子どもで偉ぶっているだけ

社会人になってそこまで長くは経っていませんが、日々を生きていて日に日に強く思うのは、「大人に見える人も子どもの延長を生きているんだな」ということです。これはわたしに対しても思います。

会社に入っても「誰それが誰それを嫌っている」だの、派閥から生まれる社内政治だの、専業主婦になってもパートナーの収入差やお受験だのママ友コミュニティの人間関係、マウント。

常に自分の立ち位置にびくびくして自分より下の者には踏ん反り返り、自分より上の立場の者には靴を舐めて綺麗にする。

人間ってのはきたねえなと常々思います。

 

そんな中、人の中にある綺麗さをたとえ小さくても信じて接していってグッサリ傷つき、自分だけは綺麗でありたいと思い、他者にはできるだけ傷ついてほしくないと思うわたしは、一番お子様で大人になれていないのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

わたしは自分のことを大人だとは思いません。

他者から見て「大人」のカテゴリーに属する年齢なのだろうなとは思いますが、「おとなだぞえっへん」などというような偉そうな振る舞いは自覚的にはしていませんし、しないように心がけています。

 

 

とはいえ、わたしの確固たる信条も上記した「大人を自負した者の愚行」から精錬されたものなので、ある種の感謝は感じています。

 

 

結局のところは、"傲るな"

危惧しないといけないのは、自分もその「大人を自負した者」になりかねないというところです。

実際、今まで書いてきたことも見る人が違えば「なんだか偉そうだな。大人ぶっちゃって」と思われかねませんからね。

わたし個人の予想ですが「大人を自負した者」は、"長い間一人で生きてきた"という自負がある方が多いような印象を感じます。そして、わたしもその勘違いを少なからずしているように思います。

このままだと「老害」になってしまう。

細かく小ずるく、少しばかりの考える脳みそを持ってると、いつまでも「自分はちゃんと考えることができる」だなんて自負持っちゃって、周りからは見限られて、氣付いた時には一人きり。なんて容易に想像がつきますものね。

まぁそれも地球っぽい生涯とも思いますけれども。

 

わりかし簡単にいろんな考え方を受け入れる(色々な価値観・多様な感受性を受け入れる素地を作る)ことができるのは、30歳がタイムリミットかなあと思っているので、積極的にいろんな人の本やお話を聞きたいですね。

 

 

『大人』を信じるな。全てを疑え、自分だけを信じろ、自分も疑え

ちなみに「大人の言うことを聞け」と年長者や保護者が子や年少者へ言うのは、コントロール下において御しやすくするためだと思います。

 

とは思いましたが、『とんがり帽子のアトリエ(8)』にて「大人はけして子どもを侮っているわけじゃない。ただ世界を信用していないだけなんだ」と言っているシーンがあって、「それも確かにそうだなぁ」と思いました。

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https://morning.kodansha.co.jp/c/tongariboushi



 

あ!大人になったと思うのは、子どもの時よりも歳をとって味覺が衰えたことで、昔食べれなかったものを克服した時です。

「大人になっちまったんだなぁ」と思います。

 

あと歳を取ったなあと思うのは、小学生などのみなさんが素脚を出して歩いているのを見た時にこちらまで寒くなってしまった時ですね。

あれまじで信じられない。虐待ちゃうのとすら思っちゃう。

 

 

心を平穏に生きたい\(´-`)/

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

【二回目】パラサイト【観たよ】半地下の家族【やっぱり価値観のお話】

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

今週の金曜日夜9時から、日本テレビ系にて『パラサイト 半地下の家族』が放送されるそうです。

 

ですので、この度二回目を鑑賞致しました。

 

 

 

↓↓前回の考察・感想↓↓

floodinhead.hatenablog.com

 

トリックの開始地点

一度目の鑑賞時には、「友人に家庭教師を頼まれたギウが『大学に出ていない』というところから本作のトリックは始まる」と話していましたが、もっと早い「ピザ屋の箱を作る内職」の時点で始まっていましたね。

 

手抜きにより不良品の箱を作ってしまい、それによりペナルティが10%つくシーンです。

ペナルティに対して「人件費をケチるなんてひどい!」と雇用主(ピザ屋)に家族は訴えますが、雇用主側は「不良品一つでブランドイメージが傷つくんだから、そんな簡単な話でもねえんだよ」と返答します。

これも価値観の話ですよね。他者の価値基準に左右される個人

 

 

ギウが友人から家庭教師の仕事を持ちかけられる時に、友人が半地下一家に『水石』という石を持ってきます(お土産?)。

それを見ながらギウは「これは本当に象徴的だな」と口にしますが、この『象徴的』というのも「ただの石に、人間が勝手に価値を見出した(価値を寄生させた)」という意味合いで"象徴的"と発したのだと思います。

 

ダソンが幽霊(全地下住みの旦那)を見たトラウマの話では、その話をブルジョワ旦那にしても「家に幽霊が出ると事業は成功 お金を稼げる」と言って深刻には受け取らなかったと描写されています。

これも「家に幽霊が出る」といった単純な事象に対して、「その家に住む人は成功し、お金を稼ぐことができる」という"価値"を、ある個人が付加したにすぎません。

 

超自然的で理論的に説明できないことを"神の所業"や"運命"と片付けることで納得することができるという側面をヒトは持っているそうです。

もともとはそういった『説明のしようがないこと』を受け入れるため、受け入れさせるために使われてきた慣用句(意味あってる?)なだけかもしれませんけどね。

ですが、その慣用句も長年使用されてきたとなれば「別の意味」や「本来なら無かった価値」が付いている可能性はあります。

 

 

縋る相手

自分の家に帰った半地下の家族。

ギウは先述の水石を手にし、お父ちゃんのギテクは妻がハンマー投げの選手時代に獲った記念メダルを手にします。

この期に及んで価値に縋る。いや、当人がそれを大事に思って並々ならぬ価値を感じているのなら良いと思います。わたしも危機的状況になった時にギターを手にすると思いますし。

あと、これは西野亮廣さんが話していた「人は思い出に生きる」ということなのかなぁとふと思いました。

 

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つーかメインヴィジュアルに水石写ってんじゃん。

鑑賞前からネタバレかまされてんじゃん〜。

 

 

「酔っ払いへかける水」や、「大雨で下の町へ流れる雨水」、「ジャージャーラーメンを作るときの蛇口から流れる水道水」など、水が示唆している意味合いなんてのはみなさん考察済みでしょうから、ここでは省きます。

 

 

以上、鑑賞二度目の感想でした。

 

本編ノーカット放送らしいんですけど、これ大丈夫なの?笑

「時計回り」のシーンとか、石でギウをアレするとことか、ダソンのパーティーまわりのシーン結構エグいよ?

そういえば「モーテル代をケチってカーセックスか?」のシーンは、某芸人のアンジャッシュ渡部さんが多目的トイレでことを致していたのと重なりますね。

 

あ、個人的には劇中の家(の描写の仕方)にすごく「積水ハウスのCM感(シャーメゾン感)」を感じていたので、本編の後にそのCMがきたら面白いぞ!どっちが本編かわからないぞ!なんて思っていたのですが、今の番組スポンサーには積水ハウスは入っていないみたいですね。大成建設みたいです。

とっても残念でぴえんぷおんぽろんって感じです。

 

 

まぁなんとはいえ楽しみにしましょう\(´-`)/

ありがとうございました\(´-`)/

 

 

 

追記

こちらの解説が面白いです( ¨̮ )

pandafujin.com

メメントモリ

 

🎍🎍🎍

あけましておめでとうございます。

 

2021年の年明け時にはギターを弾いていました。

その時にしみじみと思ったのですが、昨日と同じ事を今日も行う事ができる、毎日同じ事が変わらず行えるということが一番の幸せなんですね。

雨風をしのげる家があって、温かいお風呂やお布団がある。それが当たり前として生活をしていると見落としがちですが、それはとてもとても恵まれていることなのだと改めて思いました。

 

「人は記憶ってものがあるから寂しさや悲しさ、絶望を感じるのではないのか。人が意識を"今"だけに向けれたらネガティヴは存在しないのではないか」と去年の暮れ前くらいから思っていました。

それに対して一個の理解方法、視点を示したのが、この前に評した『映画 えんとつ町のプペル』なんですけどね。

floodinhead.hatenablog.com

 

その『記憶に対しての考え』が2021年の年明け直後に、「日々を"過去"と"今"と"未来"の帯状として考え、その考えの上で日々を驕らず、今日を点として捉え、慎ましく暮らしていくしかない」と思いました。

わたしは(人間はみんな?)これまで「"現在"は過去からの結果」と思っていたので、今辛いことがあれば、それが続くと捉えていました。

ですが、現状なんて変容するものです。良いから悪いへ、悪いから良いへ。(マクベス?)

良いから悪いへ変容したのだから、悪いから良いへ変容することもあるでしょ。という氣概ですね。諦観か?

なので、現在は過去の結果ではなく、現在は過去から未来への中継地点という捉え方。そういう意味で「"過去"と"現在"と"未来"を帯状に捉える」という考え方になったのです。

「目の前を一生懸命に行う」というのは『モモ』で掃除夫のベッポが言っていた掃除の姿勢と一緒ですね。

 

 

🎍🎍🎍🎍🎍🎍

と、そんなことを正月からくどくど言ってんのって一休宗純さんみたいだなと思いました。

元来わたしはひねくれ者なので、一休和尚の話は好きです。ひねくれ方が。

 

『門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし』と和尚は句を詠んでいます。

「みんな年が明けたって喜んでるけど、それってまた一歩死に近づいたってことだろ?人なんていつ死ぬかわかんねえんだから、それを忘れんな」って意味合いなんですね。

つまりメメントモリ「死を忘れるな」という意味です。

一休 -memento mori- 宗純です。

むっかしにタモリさんが「(上記した句、正月に町を行脚した奇行は)一休和尚なりのメメントモリ」だったと話されていました。

 

『金襴の袈裟』のお話も大好きです。

 

 

🎍🎍🎍🎍🎍🎍🎍🎍🎍

一休宗純さんの話を調べている時に「ありがたい」の話を見つけました。

「ありがたい」は漢字で書くと「有り難い」と書きます。

読んで字のごとく、『"有る"のが"難しい"』と書きます。

本記事冒頭の話に戻りますが、昨日していたことが今日もできる、これまでそれが普通に出来ていたから思い至りにくい部分ではありますが、それって奇跡的なことなんですよ。

昨日まで出来ていたけど、今日事故に遭って出来なくなった。ともすればそれにより死んでしまうかもしれない。それもなく、日々を更新していける。それこそが有り難いことではないでしょうか。

 

話し合って楽しく笑い合うことができる。

ギターを毎日弾けて、楽しいと感じる事が出来、スキルを精錬していける。

それも全て『有る』から成立します。でもその『有る』も案外易々と崩れたりする。

『有る』状態ってのも奇跡的な相互作用の上に成り立ってる。その奇跡が続くのは『難しい』

悲しさや寂しさなどのネガティヴ感情を感じることすら、有り難いことだとも言えるでしょうね。

喜怒哀楽の内の一つでも制限したら精神は簡単に均衡を失いますよ。

 

締め方がわからなくなりました。とにかくギターを弾くのはとても楽しいということです。

 

 

当ブログを読んで頂いている方がいらっしゃることを有り難く思います。

今年もよろしくお願いいたします\(´-`)/

 

 

ありがとうございました

 

 

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