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先日『ラッシュライフ』の再読を終えました。
伊坂幸太郎作品には人氣なキャラクターが複数いますが、黒澤もその内の一人です。
その黒澤は上記作品で初登場となるのですが、作中にて黒澤がある実験を引用し話します。
その実験とはプラナリアを用いたものです。
プラナリアを入れた箱の内部で一ヶ所に照明を灯し、その明かりが照らされた部分に食べ物を置いておく。
そうするとプラナリアは照明に照らされた場所へ移動する。そ
れを続けると、たとえ食物を置いていなくてもプラナリアは照明が灯された場所へ移動する。
という〈パブロフの犬〉的な内容なのですが、実験を続けると次第にプラナリアは照明が点灯しても(たとえ食物があっても)照らされた場所には移動しなくなったそうです。
その経過と結果をみた研究員は【プラナリアが飽きた】のだ、と判断した。その証拠に実験する環境を変えたら、プラナリアは再び照明に照らされた場所に移動するようになったそうです。
この《プラナリアが実験に対して飽きた》との推測ですが、これはあくまでも推測です。
予想、憶測、推察です。
我々は人間という愚か者たちでございますので、プラナリア氏らの氣持ちは窺い知れません。当然です。
ですがそれは人間同士の関係でも同じです。
他人である以上は氣持ちなんて知り得るわけがない。
しかし想像する。
しかも、 "相手を分かった氣になって" いたりもする。
別に想像は悪いもんじゃありません。
想像とは、それをすることで〈思いやり〉へ変化することもあるからですね。
プラナリアの氣持ちなんて人間などという愚か者には分かりません。
しかし、大胆にも別種族の氣持ちを想像した。
この大胆さ、必要ではないかと感じます。
そして、別種族の氣持ちすらも想像する度量の大きさ、これも重要ではないかと思います。
日常会話で我々人間が「プラナリア、あいつさ。あの時ってこう思ったのかな」と話そうものなら、大多数が莫迦にするでしょう。
莫迦が莫迦を莫迦にするのです(ともすれば仲が良さそうな光景)。
莫迦にされる、などの反応は覺悟しないといけませんが、それを受け入れる度胸と度量は必要だと感じます。
必要というか、必須、というか。そーんな感じです。
単純に、他人を理解するなんてできっこないんだから、〈他人なんだから理解ができるわけない〉という事実を受け入れて、それでも尚思いやりを持つのは大事ですよ。
よく自業自得だとか、自己責任だとかって耳にしたりしますが、そうするしか無かった場合や環境的に切迫した背景があるかも知れない。
その可能性は、程度関係なく存在します。
その【可能性】に配慮をせずに『自業自得だ』とか『自己責任だ』とかと言い切ってしまう、切り捨ててしまえる、というのは "恵まれた側の責任放棄" ですらあるとも思います。
義務として高所得者は納税額も増えますが、それと似たような感覺です。
色々な意味合いで富める者は、富めない状況にいる者に対して切り捨てるのではなく思いやりと配慮をする責任がある。
先日『大いなる能力を持っている者は大いなる想像力を必要とする』と言及いたしましたが、これがその本懐です。
想像をする。思いやりを持つ。
そんなに難しいものではないと思いますよ。
ありがとうございました( ¨̮ )
