頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

しばしば似た表情を呈する

 

しばしば似た表情を呈する

 

『熱いもの』と『冷たいもの』

 

どちらも上記情報を持つ固形物を食した時、自らが似たような表情をしていることに先日気がつきました。

 

アイスクリームとたこ焼き。

両者は味も食感も全く似ていない食べものですが、食べる時の表情や口の動かし方が似ているなと思ったのです。

 

ほら、溫度が低いのに「低音やけど」とも言うし。

 

これは多分ドライアイスを食べてもはふはふとするでしょう。

もしかしたら溶岩を食べた時とドライアイスを食べた時は同じ表情をするかもしれません。

 

 

階段

階段。

地下鉄の階段。

大抵登者用と降者用とで歩く位置が別れています。

手すりであったり、ただ印であったり。

 

あの分け目はあくまでも目安であるため絶対のものではなく、別にその方向に従わなければ法律で罰せられるということはありません。

 

しかし人々は上方向を指している矢印の階段を進み、下方向を指している階段は進もうとしません。

 

何故か。

 

 

 

なんでなんですかね。

わたしにはわかりません。

 

何故ならばわたしは進行方向が示されている階段だけを進むのは理解ができないからです。

空いてたら別に矢印と正面から向き合う形となっても氣にせず進みます(あくまでも「空いていたら」なので車両の発着時など混雑している場合は進んで逆流することはありません)。

 

 

「大衆に遮られることなく進めるのに、なんでそっちを用いないんだろう?」と不思議を感じます。

流石に『律儀に〇〇している者は、ばか』というようなある意味合いで視野狭窄な断定をしているわけではありませんが、疑問は覺えます。

 

と、そんな感慨をまた覺えていた時にある対立的意識が台頭してきました。

 

 

深夜やまったく車の往来がない場所の横断歩道は?

 

わたしはたとえ車の往来がなかったとしても、信号が赤であれば立ち止まって律儀に止まります。

「車来てないから!All right!」と思ったりして横断はしません。

 

『車が来てないのなら信号は無視してもいんじゃね』という方の価値觀は不明ですが、効率重視で信号を無視する方もいらっしゃるのではないかと思われます。

 

ここでわたしが「おやおや」と思ったのは、わたしが階段を乗り降りする時『空いてたら別に矢印と正面から向き合う形となっても氣にせず進む』という行動を取る、その心理は効率を重視してのものだと感じたからです。

 

階段と横断歩道とは異なるものですが、そこに付加された情報はかなり似ているように感じます。

ですが、当の個人。

わたしという個人は「空いていたら階段は進むけど、横断歩道は空いていても信号無視はしない」という意識を無意識で選択しているようです。

 

大変に興味深いな、と思います。

 

そこに何の違いがあるのか。

信号無視は罰則があるから、それが理由?

信号無視は身の危険があるから?

 

ですが階段も身の危険はあります。

自分が階段を登っている時に対向者に押されたら転落する可能性があるわけですからね。

 

信号は屋外にあるということから "お天道様が見ている" という意識があるのかもしれません。

 

その実はわかりません。

 

人間は清濁白黒善惡諸事情ある混ぜっこぜ生物ですからね。

 

 

状況によって生じる矛盾もあるのです。

自己にその矛盾があるということを意識に摑めたことが収穫です。

 

 

最近ピッキングの幅を小さくすれば細かいフレージングを弾けるという至極当然のことに氣付きました。

その【当然】を腑に落とすことができたので、成長です。

 

ヤッタ✌︎('ω')✌︎

 

 

✌︎('ω'✌︎ ) ✌︎('ω')✌︎ ( ✌︎'ω')✌︎