本日もご訪問ありがとうございます。
今回は『イケメン』と呼称される方々についての考証記事です。
イケメン考証
日本には『イケメン』と呼称されて持て囃される種類の方がいます。
【男性で美形な方】に対して『イケメン』と呼称するのですが、このイケメンに対してよくくっついてくる評価・感想があります。
インターネット「イケメン 性格悪い」
なんだか『イケメン』と呼称される方は【性格に難がある】というものが一般的な印象でくっついているようです。
あまり積極的に人と接して来なかったわたしは「果たしてそうなのかしらなぁ?」と思っていました(人間は基本的に性格に難があるから美醜は関係なくないか?という感じ)。
ですが、わたしが労働を行っている先に《大多数がイケメンと認識するだろう人》がいらっしゃるのですが、その方を思うと確かに【性格に難あり】と言われてしまうのも仕方ないのかも、とも思えます。
多くの人間は美形な人間がお好きなようです。
美形を好む理由としては『綺麗な遺伝子を本能的に欲する』などの本能的なものや『目の保養』など、様々あるのかと思いますが、ほとんどの場合美形な方に近づく人間は「容姿」を目的に近づくわけです。
ということは、美形な人間自身の【人間性】は無視されるということです。
人間性や性格という「その人自身の本質」ではなく、容姿という「外的なもの」を目的に相手が接してくる、となると、美形な方自身そりゃあ『他者に対しての接し方』も変わってくるよなぁ。と思います。
人間という他者が好意的に接近してきたとて、当事者としては「どうせ容姿目的なんでしょう」と思ってしまうのも仕方がないと感じますし、そんな思いで接された側からはたとえ自身が近づいた理由が容姿を根本としたものだったとしても、被害者の立場で主張した方が樂であるので『美形な人は性格が惡い』と喧伝するのではないか、と考えます。
本当に容姿目的ではなく、なにか全く別の意図によって接したけど冷たく遇らわれてしまった方はとばっちりだなぁ、とは思いますね。
容姿目的の接触が不純な動機なのかはまた別のお話。
イケメンと名家は似ている
前述にてイケメン・美形の考証を行いました(実際は考証ではない)。
この記事の題名は『イケメンと名家は似ている』です。
これからはそちらについての説明を行います。
イケメン・美形で生まれた方につきまとう目線として、もう一つ『失敗を出しにくい』というものがあると感じます。
美形な方が失敗や間違いを発した際、おそらく「美形な人も失敗とかするんだな」という感想が周りの人間からは生まれるでしょう。
"誰もが羨むような美形" であれば、上記した視線が一生くっついて回るでしょう。
『一生』です。
もし性格上どうしてもケアレスミスが多くなってしまう人であれば、いずれ「美形な人も失敗とかするんだな」が「あの人、容姿はいいけど…。ねぇ」という感想に変わっていくでしょう。
美形と形容される方は、そんなプレッシャーが常時のっかかっているのではないでしょうか。
そんな重圧があれば、【人間性】が変化してしまうのはある意味では必然なのではないかとも思います。
そして、この『失敗を出せない』というのと似ているように感じるのが《名家》という存在です。
【名家】とは「優れた家柄」のことを指しますが、名家に生まれた方も『失敗を出しにくい』あるいは、もっと深刻な『失敗ができない』という目線がつきまとうのではないのか、と思うのです。
この『失敗ができない』というのはほとんど《呪い》と同義のように思います。
「名家出身の人間は性格が惡い」とは聞いたことがありませんが、もしかしたら『名家の出』という絶対的な目線のために【人間性】が変わってしまうというのは起こり得ることなのかもしれませんね。
氣の毒だなぁ。大変だなぁ。
多くの人間は、外面的な、言ってしまえば『どうとでもできること』を重要視する傾向があるようです。
ここまで書いてきた『美形の人間がどうして性格に難ありと言われるのか考証』と『美形と名家は似ている論』も外面的な要素が起因している出来事だと感じます。
先日、今回書いた『美形の人間がどうして性格に難ありと言われるのか考証』の結論(過程と理由)に至った時、「た、大変だなぁ。氣の毒だなぁ」と思いました。
何故ならばわたしは美形でもなければ名家の出でもないからです。
「よかったー、容姿が整っても良いとこの出でもなくて」というわけです。
と、これまでの感想を読んで「ブサイクの僻み 笑」と思われた方もいらっしゃるでしょう。人間はいろんな方がいらっしゃるのでそういった方も存在するでしょう。
まぁ実際に、わたし自身自覺していないだけで僻んでいる部分もあるでしょうしね。
無自覺な僻みって一番厄介じゃねえか。
美醜や嗜好関係なく健やかに生きていたいですね。
ありがとうございました( ¨̮ )