本日もご訪問ありがとうございます。
突然ですがわたしは天然パーマです。
すごく天然パーマで、調子がいいときは綺麗な縦ロールが形成されます。
パーマとはカールですが、カールということは螺旋です。
以前(十年くらいは前)よりわたしは螺旋というものに対して興味を持っています。
むかーし螺旋についての記事も書きました。
不思議なもので、ばね・ねじ・うず・風・遺伝子・銀河などなどと世界のあらゆるところに螺旋というものが存在しています。
ばねは反動という意味合い、ねじは締め付けという意味合いで〈力 / エネルギー〉を生み出します。
風(竜巻)もものを運ぶという〈力 / エネルギー〉を生み出します。
ドリルも螺旋の力を用いています。
遺伝子や銀河まで螺旋で運用されているわけです。ということは螺旋は真理の一つといっても過言ではないのではないか?とすら考えています。
これほどまでに世の中には螺旋が用いられているのにも関わらず、世の人間たちって螺旋に対して疑問持たなすぎじゃない??
MAJIでなんで???
あ、ホースとか円筒形のものも螺旋から派生したものだ。
Newtonとかの科學情報誌などでも學術系の書籍においても螺旋について言及しているものがないです。
自然界問わずこんなに用いられている螺旋が、なんでも解き明かそうと苦心する科學の分野で研究されていないのはむしろ不自然じゃないかと想うんですよ、わたしは。
不可解。
of
不可解。
こんなにも螺旋に対して科學的な解釈がされていないということは、何か組織的な意思が介入しているのではないか、と感じざるをえない氣持ちも発生してきてしまいます。
と、螺旋に対しての不可解さと世間に対しての不信感というか明き瞽具合に呆れるわけですが、これも納得感があるような氣もします。
最近『世界は多面体だ』という言説をちょくちょくと耳にするようになりました。
まだまだ局所的ではあるものの、少なくとも以前よりは耳にする機会は増えている印象です。
《世界は多面体》だなんて特段真新しい意見でもないですし、当ブログにおいても少なくとも三年前には言及をしております。
「世界は一元的ではない」ことなんて、至極当然なのです。
ですが《世界は多面体》という意見をちらほら耳しだしたということは、世界を一元的なものと捉えている方が案外多くいるからだろうかな、と考えられます(平面的即物的に捉えていた方が色々と樂でもあるし)。
この話でわたしが何を言いたいのかというと、"単純にわたしのアンテナ感度が高いだけじゃね?" ということです。
数年前はほとんど耳にしなかった《世界は多面体》という価値觀が、時を経たことで人々に浸透してきた。
わたしは数年前から「そんなものは当然だろ」と思っていたわけですが、それはわたしのアンテナ感度がバッチバチに高かったから、それだけではないのか?ということなのですね。
ということは、わたしが螺旋に対して疑問を持っているが大衆は一切興味がないのも、アンテナの感度が違うから、それだけである。
今後何年か十何年か後に「螺旋って異様じゃね?」とどこかの學者さんが提言しだすのかもしれません。
すげーしょうもないですが、多数派の精神性が育つのを待つしかないのか。
わ〜〜ん。
選民思想的ですが、螺旋っていう明らか異様なものに対して疑問を持たない / 持てない、その鈍感さ?は由々しき問題というか、どうなの?とはどうしても思ってしまいますよ。
ガイア理論というものがあります。
端的に言えば『地球も生物ですよ』ってな価値觀なのですが、
生物は遺伝子で構成されている→遺伝子は螺旋→銀河も螺旋で構成されている→遺伝子という螺旋で構成されている生物がいる地球も生物→地球という螺旋を内包している宇宙や銀河も生物。
ちょっとぶっ飛んだ考えですが、螺旋の不思議に想いを馳せば銀河も生物で我らはその生物を構成する遺伝子だという仮説を組み立てることもできます。
何をどう足掻いてもわたしは変人的・異端者的な認識をされるので、諦觀を決め込むしかありません。
ムジョ〜な氣分。
話したって無駄だからな。
‾\_(ツ)_/‾
自分が理解できない情報量のものと対峙したとき、人間の頭はパンクをしないように受け入れを拒否するみたいですからね。
その排他的価値觀と行動を "健氣" と捉えて諦めるしかないのか。
‾\_(ツ)_/‾
ありがとうございました‾\_(ツ)_/‾