頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

ちゃんと読んでる?

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは文章を書いています。

世の中では文章で表現されているものが多くありますが、そちらについてちょっと思うことがあります。

 

その "思うこと" とは当記事の題名に書いた『ちゃんと読んでる?』です。

 

滅多に読みませんがインターネットのニュース記事についたコメントなど見ても「いや、そういったことを書いているんじゃないんだけどな」と思うことがあったりします。

「コメントで主張している論点と元記事の内容とがずれているんだけど」ということです。

 

 

以前に何度か引用いたしました『頭のいい人が話す前に考えていること』でも言及されておりましたが、人間はしばしば相手の話を聞かないことがあります(実際に経験もありますよね、皆さん)。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

人間には確証バイアスというものがあります。

こちらは〈自分の考えたことを強固にする情報だけを認識しようとする〉という心理的な偏りなのですが、今回書いております『ちゃんと読んでる?』についてはこの確証バイアスが原因の一つとしてあるのではないか?と考えています。

 

 

わたしが脳みそを占拠されかかっているYouTubeにて「ある時期に行われていた "とあること" はIQテストだった」という内容の動画を先日見ました。

こちらの動画の素晴らしいところは『 "とあること" を「した / しなかった」からIQが高い / 低い』などと言っていないことです。

あくまでも『 "とあること" はIQテストだったのかもね』ということを提示しているだけでした。

 

ですが面白いことにコメント欄を見ていると、その「 "とあること" をしたからIQが高い / 低い」と受け取っている方が結構数いらっしゃったのですよね。

 

非常に興味深いです。

 

 

再度用いますが『頭のいい人が話す前に考えていること』でも「相手が話している時に自分の返答内容を考えるな」と言及されておりました。

「相手が話している時に自分の話す内容を考えるのは、それは相手の話を聞いていないのと同じだ」ということです。

この〈相手が話している途中で自分の話す内容を考えている〉ことと上記のYouTubeコメントって本質は同じところにあるように思うのです。

 

 

 

正確には確証バイアスとは相違いたしますが、上記した動画コメントのお話は近いものがあるのではないでしょうか。

また最初に書きました「人間はしばしば相手の話を聞かない」の典型的な一例であるとも感じます。

 

だって動画内では「これをしたからどうかとは言っていない」にも関わらず「特定のものをしたから確定でこうだ」と認識された多くのコメントが投稿されていたのですからね。

面白いものです。

 

改めて書いておきますが本来の意味での確証バイアスとは若干相違します。

 

 

 

突然ですがわたしは所謂繊細な性分をしております。

センサー感度が高いのでしょうね。

わたしが病む理由の多くは人間に対してのもので、日々人間は汚いなぁと思っておりました(今でも思ってはおりますが、昔ほどではない。ほとんど諦觀ですね)。

 

『人間汚い』と思う原因の一つがたばこの吸い殻です。

人間ってものは汚く醜いので道端にたばこの吸い殻が捨てられていることがよくあるじゃないですか。都市部ならば尚更でしょうね。

 

そういったモラルの無さに対峙し、傷ついて、というのが昔のわたしでした(こんな醜い生物と自分が同じ生物種だなんて…と憂鬱になったりもしました)。

 

 

そんなたばこの吸い殻、見るとはなしに目に飛び込んでくることもよくあります。

むしろ無意識のうちに自分から道端の吸い殻を探している?どんなマゾヒスト??と思っていたりしましたが、ここでぴん、と思ったことがあります。

「自分で…探している…??」

 

わたしは昔『人間は醜く汚い』と強く思っておりました。

今思えば、その考えを強固にするため無意識に吸い殻を見つけようとしていたのではないでしょうか。

 

これはそれこそ確証バイアスから由来されたものだと感じます。

確証バイアスとは〈自分の考えたことを強固にする情報だけを認識しようとする〉という心理的な偏りですが、『人間は醜く汚い』という考えを強く確信するために吸い殻を見ようとしていた、果たしてそうなのではないか?ということです。

 

 

確証バイアスという言葉をいつわたしが初めて見聞きしたのか、正直それは覺えていませんが「たばこの吸い殻を自分から進んで意識し、嫌な氣分になろうとしていない??」は紛うことなくわたし自身が発見したことです。

正確には昔に確証バイアスという言葉を聞いていて紐づけたものなのだろうな、とは思いますが、わたしが言いたいのは『あなたが用いている言葉って、それは自分自身で発見したり自分の心から湧き出てきた言葉なの?』ということです。

 

わたしは世界を觀察するのが好きなので色々と発見することがあったりするのですが、自分で考えた上で仮説を立て知ったのか、それとも研究結果としての情報を知ったのかでは話が変わってきます。

前者も後者も結果としては同じですが過程が違いますね。

この過程は些細なものに思えますが、その実、質が全く異なり圧倒的に前者の方が物事を考える力があると感じています。

 

知識を得ようとする姿勢はもちろん大変に大事ですが、知識中毒で頭でっかちになっていては本末転倒です。知ってるだけじゃ意味ないし。

そもそもその研究や実験って、日々の觀察から「あれ?」という疑問が生まれたことがきっかけになっているんじゃないのかしら??(もちろんきっかけの仮説と研究結果が違っていたり、また別の興味深い結果を発見することもあると思う)

 

これは完全な偏見ですが後者は「自分が理解できたからといって相手が同じとは限らない」という意識が抜けがちであるように感じます。

上の意識は『頭のいい人が話す前に考えていること』でも言及されていたことですね。

 

あとこれも偏見ですが後者の「研究結果の情報を仕入れている」人たちは伝わるかどうかをどうにも意識していないように感じます。

具体性の高いものを具体性の高いもので喩えて、その二つを繋ぐ抽象性を説明しない、と言いますか。

釣りの技術を『ドラゴンボール』の場面で喩えるみたいな感じです。

 

「具体性が高いものの抽象性を上げる」という行為をしないと伝わるものも伝わらないんじゃんと思うのです。

別な言い方にすれば「専門性の高いものの大衆度合いを上げる」というのですかね。

先に挙げました例でいえば、釣りを街中にあるファストフード店に喩えたり日々コマーシャルされている企業に喩えたりということです。

 

難しく表現するのは、それだけ間口を狭めているということになるわけです。

あと難しくするのは簡単ですし。

floodinhead.hatenablog.com

 

まぁ難しくしたから簡単に辿り着くという結果もありますけどね。

 

 

 

 

 

と、このようなほとんど愚痴のようなことを考えたり感じたりしているということは、わたし自身にも該当する部分が多くあるということです。

自戒し内省し精進いたします。

 

今回の記事で言いたかったことは『内容、ちゃんと読んでる?』ということです。

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬

 

 

以前に描いた絵たちを見返したのですが、なかなかに力が強くていいですね