頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

あぁ面白い、人の脳

 

今週のお題「秋の歌」

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今週のお題は「秋の歌」とのことらしいです。

 

正直秋の歌、秋の樂曲なんてパッと出てきません。

 

ですので、秋の虫のお歌を取り上げますね。

 

 

秋の虫といえば鈴虫とかがポピュラーですね。

 

鈴虫の音色は非常に美しくて、綺麗です。

 

あの音を聴くと秋の涼しさが一層肌に感じられるような氣持ちになります。

 

ですが、この『虫の声』というのは、日本語を第一言語として育った人以外にはノイズとして感じるそうですね。

 

つまり、日本語を母國語にしないと虫の声を聞くことができないということです。

以前にも書いたことですね。流用です。リバイバ、あっRevivalです。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

正直にわかには信じられない話です。

 

と思って再度調べたら、日本人だけではなくポリネシア人の方も虫の声を聞くことができるそうですね。

 

どうやら、人間の脳は「音樂を処理する右脳」と「言語を処理する左脳」がありますが、西洋の方は虫の声を機械音などと同様に右脳で処理し、日本人は言語処理の左脳で処理するということだそうです。

 

『ああ おもしろい 人の脳』とでもいったような感情です。

 

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これらを考えると、ある仮説が頭ももたげます。

ですがそれを書きだすと長くなるので、またいつか。

 

 

久しぶりに聴いた、たまさんの『電車かもしれない』のギターソロがかっこよすぎてびびった。

1:28~くらいです。

たまは天才。

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ありがとうございました( ¨̮ )

 

アープー

 

アーモンドプードル

 

ナッツのアーモンドを粉末状にした製菓素材です。

 

「なんでプードルなん?」と思って調べたところ、「powderのフランス語読みやで」とのことでした。

 

つまり「パウダーもプードルも同じ」ということですね。なんかサイコ野郎の発言みたい。

 

実際に夕暮れ時に暗い室内で、ディスプレイの白光に照らされながらこの記事を書いているから、サイコ野郎には相違ないと思われます。目が悪くなっちゃう♡

 

ん?ということは『パウダースノー』は『プードルスノー』ということか。

 

『サマーカットした白プードルの毛が舞っている様』じゃん。

 

そういえば『クレヨンしんちゃん』のシロって犬種なんなんだろう。

 

と思って『クレヨンしんちゃん シロ 犬種』で検索してみたところ……。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

幸せな景色が広かっていました( `◟ 、)❤️

 

あぁんマルチにポメ❤️

 

 

 

せっかくだからアーモンドでプードルを作ってほしいな、どなたか。

発言だけ切り取ったら錬金術における禁忌みたいな風情を感じるぞ?危ないぞ?

 

せっかくだからアーモンドプードルでプードルを作ってほしい。

 

 

???

 

 

 

ちなみにトイプードルよりもスタンダードプードルの方が好きです。

 

スタンプかわいいし。

 

しかしわんこは皆等しくかわいいので優劣なんてありません。

 

この世においての劣はヒト。

自負こそが厄介

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

 

自負というものの厄介さ

人には自負という感情があります。

端的に説明すると、この自負というものは『自分の能力に自信を持ち、誇りを感じること』です。

この説明は意図的に良いように書きました。

『自負』という感情を肯定的に捉えたということですね。

 

ですが、わたしはこの自負というものは場合によっては非常に危険で厄介な感情になり得るのではないかと考えています。

 

 

自負という化け物

どうして『自負は危険で厄介な感情』と思うのかというと、それ(自負という感情)があることにより自分の考え方に固執し「"自分の意見こそが正しい"と思い込んでしまう」という危険性が発生するのではないかと思っているためです。

 

もちろん、「自分が考えているこの考えは正しいはずだ」と思うことや、自己の肯定はとても大事で重要なのですが、その思いと同時に「はたして本当に正しいのだろうか?」という視点を持って考えたことを見ることも、同じくらい、あるいは自負を持つ以上に必要になると思うのです。

 

 

人間という生物は『これはこうなのではないか』と思ったら、その考えを肯定すること(事象)を自然と、無意識のうちに探す特性があると思っています。

 

自分がそうであったためです。

といって、他者の全員に適応されるとは思いません。

ですが、そういった無意識の心理行動は皆様にあるのではないかと思っています。

 

これを『確証バイアス』なんて言ったりするそうですね。

 

 

種の成長

2021年10月31日に起きた京王線での事件や、その他の猟奇的事件も、事件を起こした犯人の『自負が肥大した結果に』起こされたことだと考えています。

 

もし動機が『社会への不満』や『今現在運用されている社会システムへの抗議』というものであった場合、日々の生活で生まれた〈動機の種〉が自負の栄養を得て『犯行理由』へと成長しているような氣がしています。実際に事件が引き起こされることで収穫と相成るわけです。

 

わたしは件の事件で下手人となった当事者様ではないので、実際の思考プロセスは伺い知る部分ではありませんが、『確証バイアス』だけで思考した結果に「個人の意見」が〈揺るがない事実〉へと変化成長した、という側面と可能性は大いにあると感じます。

 

これは以前書いた『個人の意見が社会の総意だと思ってしまう』というのと似ていると思います。

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やはり『自負』というものは一長一短、諸刃の剣的な意味合いがある。

 

結局はその〈自負という意識〉を誰が使うかというところになってしまうようにも思うのですけれどね。

 

 

『今自分がこんな悲惨な現実を生きているのは〇〇のせいだ』と考えついた際に、「一側面からすればそうだ。だが、その現実に身を寄せたのは自分でもある」と"考えられるかどうか"が分かれ目なのだろうか?

 

しかし、この考え方って前回に書いた『自己責任理論・自業自得理論』でもあるんだよな。

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ジレンマである。

重要なのは、『自分自身が自業自得であると思うか』と『他者から「それは自業自得でしょ」と言われるか』なので、明確に違う部分なのですが、どうにもジレンマを感じてしまいます。

 

「他人に迷惑をかけない程度に自負を持ちましょう」なんて言えたら手っ取り早いのだけど、それは無責任がすぎるし、世の自負を持っている方は『自分の自負が他者へ迷惑をかけている』なんて思いもしないのでしょうし。偏見ですけれどね。

 

あと「わたしのこの正しい知見から得た意見(自負入り)が"迷惑になる"なんて、そんな"迷惑な言いがかり"はやめてくれないか」と思われる可能性すらある。偏見です。

 

 

うーん。悩ましい。

 

 

その思考方向は違うにしても、「今の自分は"自分の仮説を肯定するため"に、"肯定的な側面だけを見ようと"していないか?」という『意識の感覺』を忘れないように、ことあるごとに自覺するのは大事な心持ちだと感じます。

 

 

 

自負由来のお話は総じてしょうもない。

あと、以前にこちらでも言及しましたが『自負由来の得意げな主張は総じてしょうもない』という問題もあります。

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話している本人からすれば、話していることは『稀代の大発見』だと思えたようなことも、話を聞く側からすると「それはもう知っていたよ」と思われるなんてことはざらにあります。

 

わたしが聞く側の場合はそれが多かったです。

ですが、わたしの少ない対人サンプル数で言うのもちょっとどうなのかしら、という感じですし、わたしがそう思ったということは、わたしが得意げに話したことも聞いた相手からすれば「知っていたよ」と思われている可能性があるということです。

このブログも、もちろんそう思われている可能性があります。むしろ、大いにあると言った方が良いでしょう。

 

あぁ、恐ろしい。

 

んだもんで、自負なんてものはあんまり持たない方がいいんです。

 

 

バランスボールの上に置いた平均台の上で片足立ちする意識

やはりバランス感覺というものは非常に大事になってくる。特に〈意識のバランス感覺〉です。このバランス感覺というのは、「冷静さ」と形容することもできるでしょう。

わたしもこのバランス感覺を失わずに思考したいと思います。バランス感覺を失うのはとっても容易ですし、それゆえに危険ですからね。

 

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『自負というのは持つと非常に厄介』というような内容だったわけですが、"自負の塊"とでも言えそうなこのブログで言うのも、ねぇ…。

 

でも最近『自分が自負をたっぷり入れた意見を発信していた』ということを忘れていたので、非常にありがたいタイミングで思い出すことができた。危ないところだった。ありがとう意識。

 

 

『実るほど頭を垂れる稲穂かな』の意識を常に心がけて生きていくのが一番の得策かもしれませんね。

 

ありがとうございました( ¨̮ )

ロゴと広告塔

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

シンボルマーク

企業にはロゴというものがあります。

コカコーラ社やSONY社のような「文字のみのロゴ(ロゴタイプ)」の場合もあれば、Apple社やaudio technica社のような「マークロゴ(シンボルマーク)」の場合もあります。

 

このシンボルマークタイプのロゴは、知名度が上がればシンボルマークを見ただけで「あの会社ね」と分かることができるので、効率的とも言えるでしょう。

難点なのは、"その知名度をいかに獲得することか"だとも言えるかもしれません。

 

 

このシンボルマークというのは巧いなと前々から思っていた次第です。

特に、アップル社のMacBookシリーズです。

 

ノート型PCの天板にブランドロゴを置くという手法はおそらく前々からあったでしょう。

ソニー社のVAIOも天板にロゴが輝いていますからね。

 

 

『光るロゴ』

MacBookの何が巧いかというと、『ロゴが光るところ』です。

2000年代のアメリカ映画では多くの場合VAIOが使用されていたのですが、VAIOの場合、暗い場所ではロゴが見えないという欠点がありました(照明の兼ね合いでロゴが見えるように設定していたのだと思われますけどね)。

 

しかし、MacBookの『光るロゴ』は「暗い場所でもブランドロゴをアピールすることができる」のです。

正直なところ、これはとてつもなく強いでしょう。強固です。

 

Apple』という会社のロゴが、スクリーンで映えることで「あのロゴはなんだろう」と興味を引くこともできますし、氣にならなかった場合でも量販店やテレビCM等でりんごのマークを見て「あ!あの映画の!」となることもあります。

それは、アメリカに比べてAppleという会社の認知が低かった日本では特に効果的だったでしょう。

 

ちょっと調べたところによると、『光るロゴ』はスティーブ・ジョブズ氏がAppleに復帰してから生まれたアイデアだそうです。

そのアイデアは1999年発売のPowerBook G3に初搭載されたとのことらしいですね。

 

『光るロゴ』というアイデアで多大かつ圧倒的な知名度を稼ぎ、今では知らない人がいないと言っても過言ではない企業まで発展したAppleですが、現行のMacBookでは光るロゴは採用されていないそうです。

それは、Appleという会社が認知されきった現在では当然とも言えるでしょう。

 

全く人間の心理を上手く利用したマーケティング方法というのは面白いばかりです。

 

 

ヘッドホンのハウジング

正直Appleの『光るロゴ』は前々から思っていたし、「わざわざ書くほどでもないな」と思っていました。

じゃあなんで書いてんのかというと、ヘッドホンを見たからです。

 

ヘッドホンにはハウジングという「機械を包む外装」があります。

『ヘッドホンを頭に装着する際に、両手のひらで包む部分』がハウジングです。

 

その外装部分にロゴやシンボルが刻印されているのを見て、今回の記事を書こうと思い至りました。

 

ABEMA TVの『ラップスタア誕生』というプログラムを見ている時に、回によって審査員が着けているヘッドホンが違っていたのですよね。

実際には「収録回によってヘッドホンを変えている」ということなのだとおもいますけどね。

その時に「あっ、資本」と思いました。

 

それまではハウジング部分のロゴなんて氣にも留めていませんでした。

それこそ「あぁ、オーテクか」「デノンか」「やっぱりソニーは多いよね」といったブランドの確認くらいの認識です。

ですが、知らない内に潜在意識に入り込まれているのでしょうね。

 

 

ちなみに、皆様一度は見たことがお有りかもしれない『THE FIRST TAKE』というYouTubeブログラムはSONY資本だと思われます。

理由は『レコーディングする際につけるモニターヘッドホンが全てSONY製のものだから』です。

実際に世界基準のヘッドホンとはいえ、流石に歌い手側が好きなヘッドホンを使うでしょう。

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以前映画の『トゥルーマン・ショー』を取り上げた記事がありましたが、やはり似たようなことが起きているのですね。

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でも、こういった心理的マーケティングって資本主義社会特有のものなのか?

共産主義社会の下では無いのかしら?

 

 

無自覺な広告塔

アパレルの世界でも、そのブランド名がプリントされた服や小物なんてものがあります。

どのブランドでもブランド名がプリントされたTシャツはあります。

 

多くの服ってものは、利用者が着ることで完成しますよね。

当然ですが、ブランド名がプリントされたTシャツも、着てもらうことで完成します。

二つの意味合いで。

 

一つは服としての完成。もう一つは『ブランドの広告塔』として。

 

 

ブランドロゴ入りの服を着た消費者が、各地を歩き移動することでブランドを広告することができます。

わたし個人としては「あぁグッチだ、シュプリームだ、ノースフェイスだ」と思うくらいなのですけどね。成金趣味や権威主義すら感じて嫌だなとも思うけど、これは偏見。

 

 

つまり、『ブランドロゴのプリントされた服を着ている人』というのは『そのブランドの看板を背負っている』ということなのですね。

おそらく当事者様は思い至ってはいらっしゃらないと思いますが( ¨̮ )

 

 

 

 

音樂が愉しい

余談ですが、最近JVCのHA-MX100Vというモニターヘッドホンを購入しました。

 

良いヘッドホンというのは本当に音樂を聴くのが心底愉しいですね。

ぜひ騙されたと思って聞いて頂きたいのですが、ヘッドホンのイヤーパッドはある程度いいものにした方がいいですよ。

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ありがとうございました( ¨̮ )

誰の生?

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしが本なんかを読むときには、基本的に『自分がこの本を読みたいかどうか』を鑑みて読むかどうかを決めるのですが、たまに『この本を読んでいる自分』という視点が発生します。

 

夏目漱石さんの『こころ』を読んでいる自分」といったような感じ。

  • 他者からどう見えるのだろうか?
  • 名作や難しい哲学書を読んでいるということで、他者を牽制できるのではないか?

 

そういった感覺や考えが知らん間に脳裏に浮かんでいたりするのですが、そんな時に、はたと脳にある思いが現れます。

 

 

『お前は誰の生を生きているんだ?』

 

 

高尚・低級などを決めるのは、自分でもありますがそれと同時に他者でもあります。

特に『この作品を読んでいる自分』という自意識は、「"他者から見た自分"を基にした考えが強い意識」だと思われます。

 

はたして、それは自分自身の生を生きていると言えるのだろうか?

他者からの視線を感じながら、その視線に縛られて送る生活・人生というのは、はたして「自分の人生」と本当にいえるのでしょうか?

 

 

そんな人生クソじゃねえかな?

わたしはそう思うので、『他者から見た自分』という基準で行動を決めようとしていると氣付いたら、すぐさま『本当はどうしたいのさ、自分』と内省して再度決定をします。

 

誰かに監視される人生なんて、クソだね。全く。

 

 

あくまでわたし個人の見解と意見( ¨̮ )

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

危険

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしはYouTubeをよく見ています。

 

「わたしはこう思うのだけど、他者の皆様方はどう思っているのだろう」と思って、動画のコメント欄を読んだりするのですが、この行為って危険なのではないかと思いました。

 

自分の好きな(興味を持った)動画を見ている人、というのは、少なからず自分と感性が似ているはずです。

その感性が似ている人たちの意見を「なるほど」と思って読んでいようが、それは自分の意見を肥大させているということと同じなのではないのか。

 

Twitterで自分の好みの思想・意見を持つ人をフォローして、その枠内で意見を交わすよりはまだまともだとは思いますが、自分と同じような感性を持つ人の意見を見て「やはりこう思うよね」と感じているのは、非常に危険で不健康なのではないか。

 

 

いやぁ、恐ろしい。

 

 

しかし、これは現実の世界で生身の人間と意見を取り交わすことと何が違うのだろうか、とも思う。

 

実際にコメント欄を見ていても「なるほどそういう考え方もあるのか」といった感想や「如何とも承服しかねる」と思うこともありますからね。

むしろ『なるほど、と思うことが危険』なのか?

 

この問いに正解は出ないのでしょう。つーか正解とか何においてもないし。

 

 

今回の題目は大きくすればメタヴァースとかの話にも展開されていきそう。

『現実の世界』と『電脳の世界』

どっちが信用に足るのか。

 

だからどっちが正解とかどっちが信用できるとかじゃねえって。論点も違うし。

 

 

これは折衷案とは言えないのですが『ひとつの場所・空間だけで意見を収集する』というのがよくないのでしょうね。

たぶんそこが一番納得できる落とし所でしょう。

物事は万物が多面体ですから、意見も多面から仕入れないといけません。

this is 粘土ism.

 

 

ありがとうございました。

「バカばっかだ全く」と全く強く思う次第

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回の記事は、非常に攻撃的な言葉が目立つものですので、そういったものが苦手な方は早急にブラウザバックしていただくことをお勧めします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事件に対しての個人的な見解

2021年の10月31日に、東京の京王線でテロ行為に等しい事件があったそうですね。

その日は選挙の投票日でした。たまたまテレビをつけた時に、その事件の速報が流れていました。

その時の報道内容は「京王線内でナイフを持った男が車内に火をつけた。その男はジョーカーの格好をしていた。男は確保済みである」みたいなものだったと思います。

 

この報道に対して、わたしが思ったことは、

『そりゃあそういったことをするアホもいるだろうな。しかし、ジョーカーというキャラクターのネームバリューを隠れ蓑にしないと犯行することができないのか、下手人は卑怯者極まりないな。その人の生い立ちがどうかは知らないからなんとも言うことはできないが、誰かが作ったアイデアを使わないと行動一つ取れないのは卑怯者でしかない』ということ。

そして『「ジョーカーの格好をしていた」という情報は必要なくないか?下手人が逃走中であるならば必要だけど、確保された時点での報道だろ?確保済みであるならば、わざわざ下手人の格好を報道する必要はない。ジョーカーやバットマンというコンテンツに対してネガティヴキャンペーンをしようとしているようにしか思えない』ということです。

 

 

しかし、そんなことよりもわたしが不満を感じるのは、その犯罪に対しての大衆の反応です。

『猟奇犯の発生、再発を防ぐことが現実的と思います』

 

だから?

それを考えることが必要なんじゃねえの?

 

下手人の生い立ちや、「一般の人」が「下手人」へ変わった経緯、下手人になるきっかけの出来事・原因、を究明して改善しないといけないんじゃないの?

 

 

『事件を生む、その原因』

「じゃあその原因ってなんなのさ」

そんな声が聞こえてきそうですので、リスト化しました。

あくまで、わたし個人が思う『犯罪が発生する原因』です。

 

  • 自己責任型の価値観
  • 過度な弱肉強食思想
  • 『モテること』に対しての強迫観念
  • 評価主義
  • 優生思想

 

 

『自己責任型の価値観』

これは、例えばリストラをされた人がいたとして「でもリストラされたってことはあなたの働きが悪かったってことじゃないの?もっと頑張っていたらリストラなんてされなかったんじゃない?結局リストラされたのはあなたの頑張りが足らなかったことが理由。自業自得です。そんなに嫌だったのなら、どうしてその企業に就職したの?それは自己責任の話じゃない?」と言うようなものです。少し過激ですがね。

その『自己責任論』がまかり通るのなら、「通り魔にあったって嘆いているけど、その道を歩かなければよかっただけの話じゃん。自業自得」という理論も成立することになります。生産性がない。負のループ。

『自己責任論』は、当事者が一人で"なんとか"溜飲を下げるためには有用とは思いますが、この考え方を「部外者の他者」が言ってはいけません。絶対に。絶対にです。

一切、心理的サポートにはなりません。

 

 

『過度な弱肉強食思想』

「弱肉強食という価値観」それ自体は、一つの真理です。

しかし、それが適応されるのはあくまで「特定の空間」においてのみであり、全ての事象に適応されるものではない。

考えるのが面倒だからってなんでも一色に当てはめようとするんじゃねえ。

 

 

『「モテること」に対しての強迫観念』

正直なところ、これが一番の原因だと感じています。

ですが、 これが生物という存在の超原始的な生理欲求に直接リンクしているからタチが悪い。

この強迫観念が肥大しすぎるから、「モテない自分には価値がない」とかそういったしょうもないことに悩み、とらわれる。バカじゃねえかと思います。

お前は今を存在している以上、価値があるから存在してるんだよ。脳だけで考えた他人の嘘っぱちの価値観に囚われるな。

お前自体を、お前自身を誇れ。お前自身で考えろ。

ばかやろうが。

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『評価主義』

義務教育は評価主義の温床です。

というより、義務教育の期間は「評価主義」という染脳を施し、その寄生虫を植え付けるための機関ですね。

學校ではテストに点数がつけられ、それを元に順位表が作られる。それを子ども達が見て、自分の位置はどこかと戰々恐々とし、不安になったり安堵したりする。

行き着く末は相互監視の疑心暗鬼です。

 

そして、評価を下す人間に対しての媚びとご機嫌とりをするマシンへなってしまう。

権威のある人間には媚びへつらい、"自分より下"と認識した人間はぞんざいに対応する。

猟奇犯が自分より弱い立場の人(に見える人)を決まって襲うのは、この評価主義が助長していると思います。

 

しかも、この悪魔的な評価主義を親さえも行なっている場合があるから始末がおけない。

きょうだい間で「お兄ちゃんてんでダメなのに、◯◯は本当に良い子だね」みたいな。そりゃあそんな接し方をされた子どもたちは歪みますよ。当然です。

まぁ親も「評価主義が良い」という教育(染脳)をされて育ってきたから、仕方ないという側面はあるのですけれどね。

しかしその評価教育がいいのか、それを自分の頭で考えていたら違うだろうとも思う。

 

 

『優生思想』

これは『評価主義』の進化形みたいな感じに思っております。

優生思想というのは、端的に言えば「"優れた種・個体のみが後世に残るべき"という価値基準」で、この『優れた種・優れた個体』という考え方は評価主義に他なりません。

『やまゆり園の事件』ではこの優生思想が元になったと言われています。

 

この優勢思想が行き過ぎると、種の存続自体が危ぶまれます。

最初は100あったものを、優生思想を基に『優れた個体』だけにしました。100→50

すると、残った個体の中でより優れた個体だけにしましょうという流れになります。50→30

以下同じ流れになり、種の個体自体が目減りする一途を辿るのです。

また、優生種のみで交配した結果、将来的に血が濃くなるという危険性も孕みます。

デザイナーズベイビーばかりの未来も考えられますしね。

 

『優生種』という考え方は、『劣生種という見方がされるもの』がいるから存在できているという事実に目が向いていないのではないかと思います。

劣生種も優生種も肯定されたから存在してんだよ。脳だけで考えてんじゃねえよ、バカ供よ。

 

 

『原因』を改善、是正した場合はどうなるか。

さて、ではその原因らを是正した場合はどうなるか。それを考えていきましょう。

 

〈『モテること』に対しての強迫観念・評価主義・優生思想〉これらを助長していると(わたし個人が)感じている「バレンタイン産業」を廃止しましょうという案が立ち上がったとして、その案が可決された場合にはバレンタイン時期を稼ぎ時期にしているお菓子業界や製菓産業には大きな打撃になります。

「ちょっとまってくれよ、こっちには多くの従業員も抱えているんだ」と各企業は思うでしょうし、実際にバレンタイン産業を廃止したら、リストラも増えるでしょう。

それを原因に生活がうまく行かなくなる家庭も多く発生します。その結果、國家として縮小してしまう可能性も多く発生してしまうでしょう。

もちろん、そのリストラを理由に「新しい下手人」が誕生することもあるでしょう。

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他にも『モテ〇〇』で利益を上げている雑誌などの出版業や、その出版業に資本しているアパレル産業も業績が傾くでしょう。

 

こういった理由や『他の原因』で儲けている業種が他にも多くいるのでしょう。

そういった多くの産業が縮小してしまうので、絶対に根本の原因を是正改善はしないのです。

 

つまりは、猟奇犯罪を起こす人がいなくなることはありえない。ということですね。

少なくとも、原因を改善しない限りはね。

 

 

定期的に現れる猟奇犯罪というのは、現代社会で"表出した膿"を拭っているだけに過ぎないのです。

言うなれば、今の社会は『せっせと悪感情を栽培し、引き起こされた犯罪を収穫している』というような状況になります。

 

つまり、"今のままの社会体系を続けている限り"猟奇犯罪がなくなることはありえません。

 

 

 

てめえの頭で考えろ

絶望的な結論でしたでしょうか?

でもこれが実際のところでしょう。

 

 

でもさ、この程度のことちょっと考えりゃ思い至るだろ?

本当にお前自身の頭で考えてる?

鬼滅の刃』では今書いたようなことが描かれていたはずでしょう?なにを読んでたの?

テレビばっかり他人の脳にばっかりに影響されて、他人の言葉を自分の言葉みたいに言ってんじゃねえ。

引用をするなら、「これは誰それが言ってたことの引用なんだけど」と枕詞をつけろ。

 

お前の中に入れて考えていないことなんて、発言したところで薄っぺらくてすぐにバレるぞ。その結果は軽蔑されるだけ。

はたしてわたしは…?

 

 

「バカばっかだ全く」

本当に大衆にはバカしかいないのか?

 

義務教育の優等生みたいなガキ臭い意見なんて聞いてないんだよ。

『どうして発生したか』、『発生するに至った経緯は』、『再発を防ぐためには、その具体案』を言えよ。てめえの口で。

 

誰でも言えるようなあまちゃんな考えを発言した程度でいい氣になってんじゃねえぞ?

ガキ臭い優等生みたいな意見だけを言って具体例を言わないのなら、それは政治家と政治に対して文句は言うが投票にいかない人間と同じです。不能

 

 

あんまりこういったことは考えてこなかったし、考えないようにしていたけど、世に多くいる大衆ってのは、わたしが思っているよりも遥かに知能が低いの?

 

しかし、この『大衆はバカしかいない』という意識は、持つだけでも非常に危険ですし肥大化すると本当に危ないので、上手に消化していかないといけない。

まず、わたしが『バカ』と評している人から見れば、わたしこそ『バカ』に見えていたりするのでしょうからね。

 

 

あと、どうしてもヒトというものは「自分が理解できないこと(もの・考え)=バカ・頭が悪い(頭がおかしい)」と考えがちにあると思いました。

犯罪を起こした方の思考回路が理解できない(しようとすらしていない場合もあり)から、一緒くたに『バカ』や『頭のおかしい』と評価・認識する。

これは、どこか「自分と違う人間である」と思いたい"無意識"が関係しているのではないかと思います。

『自分とは違う』と思ったら、犯行動機なんて知っても理解する必要がありませんからね。

 

実際わたしにもこの思考システムは強くある。自分が考えられていることは他者にも思考可能と考えており、それを思い至れない方のことを『頭が悪い』と認識している。

これは非常に危険ですよ。

 

そして、わたしもわたし自身に対して好ましくない事象を拡大して見ようとしている。

『義務教育の優等生』みたいな意見はそれはそれで少数派ですからね。もうちょっと考えている人の方がはるかに多い。

 

www.youtube.com

 

なんで面も知らない人間に対してイライラしてんだよ、わたしは。

バカじゃねえの。全く。

 

 

 

最後に、今回の事件を実行された方は自分一人でも愉しめる趣味があれば違ったんだろうなと思います。

樂器とか、裁縫とか、陶芸とか、彫刻とか。

そういった『自分一人でも行えるフラストレーションを発散する手段』を一つでも持つことができていたなら、現実は違ったのではないかと思います。

それが残念でならない。

 

その『仲間や友人がいること=いいこと』とした社会も問題だな。

やはり少年ジャンプは悪。

 

 

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました( ¨̮ )