頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

「神は死んだ」

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回タイトルに引用しました言葉は、ドイツの哲學者であるフリードリヒ・ニーチェ氏が発したものです。

 

 

この『神は死んだ』という言葉ですが、これって〈宗教的な意味合いでの神〉ではなく、〈例えとしての神〉なのではないでしょうか。

つまりあの言葉は、価値観のことを指していたのではないかと思いました。

 

 

ヒトは生まれてから成長する時期において、色々なことを學びます。

その多くは「自然的にこうした方が効率がいい」といったようなことを、自然に學ぶ部分が多いとは思いますが、コミュニティや宗教観から學んでいったことも多いと感じます。

 

この生きることで身につけた価値観、それが無意識下に浸透した状態こそを『神』と形容詞し、自我を持って思考し生活することで次第にその価値観が絶対ではないと知った。

これまで無条件に信じていた価値観が自分の中では通用しなくなった状態。また、自分なりのルールや真理と感じられるような価値観を、自らの力で見出した状態にあるために『神は死んだ』と言ったのではないか、と思いました。

 

「常識とは、十八歳までにその人がコレクションした偏見の数々でしかない」というアインシュタイン氏の有名な言葉もあるとおり、思考や価値観に〈絶対的なもの〉などは存在しません。

 

 

「神は死んだ」と表現するのは非常にセンセーショナルなので、大衆の視線(意識)矢印の多くを集めることができます。

一般大衆の意識下において『神』というのは〈宗教性〉の中に存在する言葉ですからね。

おそらくニーチェ氏自身は、そういった『宗教内の一価値観としての神』しか理解しえていない大衆層に対して、宣伝するために「神は死んだ」と発言したのではないか、と考えています。

今でいう炎上商法ですね。

 

 

こんな程度のことはみなさんご自身の頭で理解できることだと思いますし、もうすでに理解済みだとは思いますが、往往にしてこういった考えというのは、自分で理解・解明し、腑に落とさないと意味がありませんので、今回認めることに相成りました。

 

思考というのは止めては、錆びつかせてはいけませんね。

抗酸化作用を持って( ¨̮ )

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

定着

 

本日もご訪問ありがとうございます。

今回の内容は『初期対応で、未来から先までその意識が定着するかどうかが変わるのではないか』というものです。

 

 

人間の感情というものは凄まじいエネルギーを生みます。

その感情がポジティヴなものであっても、ネガティヴなものであっても、です。

 

特に怒りのエネルギーは『より強いエネルギー』を生みます。

 

 

さて、わたしはよくよくイラっとすることが多いです。礼儀を大事にしていない人と相対すると、どうしてもだめです。

ですが、まだイラっとした時点で「あぁ、今怒りに支配されそうになったな。今の自分には余裕がないのだな」と思い至ることができるので、前みたいに無闇に怒りに支配されないようにはなりました。

とはいっても、ここ一年くらいで身につけたので、それ以前は怒りに支配されっぱなしでした( ¨̮ )

 

しかも、思い出し怒り(あの時はグッとこらえたけど、あの時にしっかり言っておけばよかったと思うこと)があったり、思い出し怒りを何度も反芻したりして、結果、怒りに支配されていました。

 

 

 

少し前に、イラっとしたことがありました。

が、この時に「考えない」「氣にしない」という選択をできたのですね。

 

この時に思い至ったことが冒頭に書いたことです。

『怒りというものは初期対応をどうするかで、先の未来で思い出すかどうかが変わる』

 

つまり、〈怒りを感じたその時に、その怒りを意識に定着させるかどうかで、未来上で思い出すかどうかが変わる〉ということです。

 

なんだか洋服の染みみたいですね( ¨̮ )

 

汚れがついたその時に拭いて洗えば染みにはならないけど、放置すると染みになる。

 

怒りを感じたその時に怒りを定着させなければ、思い出して怒りに支配されることはない。

 

しかし、昔に定着させてしまった怒りはもう染みになってしまっていると思いますので、昔の怒りはどうにもならない部分だと思います。

ですが、そんな過去の怒りに支配されそうになった時に「あぁ、今自分はまた過去の怒りを反芻して怒りを樂しもうとしているな」と思うことで、一旦は冷静に俯瞰して自分を見ることができるとは思います。

 

なので過去の定着してしまった怒りに対しては、『また過去の怒りに取り憑かれようとしている。今でも自分はあの時のことを許せないのだな』と、〈認識する〉だけでも違ってくるのではないのかと思います。

 

 

とはいえ、今感じた怒りを『氣にしない』『考えない』という選択も、いろいろ経験してきたから思い至ることができたわけですので、いきなり「そうしましょう」というのも難しいと思います。

ですので、好きに生きてください( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

youtu.be

ディズニーと少年ジャンプとの共通点

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

ディズニー好きの方は、もちろん全員ではないでしょうが、大なり小なり『白馬の王子様が迎えに来てくれる』と思っています。

 

少年ジャンプ好きの方は、大なり小なり『仲間・友情・努力をすること、のそれらが最上に良いこと』と思っています。

 

この二つは、まぁ無垢な魂なのですが、染脳されている状態と同じなんですよね。

 

 

正直に申し上げて、双方とも非常に氣持ちが悪いです。

良い歳した人間が、未だに少年ジャンプを読んで「やっぱり努力っていいよね!仲間っていいよね!」と目を輝かせている様も、「きっと白馬の王子様が迎えに来てくれるはず!」と話している様も、等しく氣持ちが悪い。

同じ穴の狢です。

 

なので、少年ジャンプ好きの方がディズニー好きな方を指差して嗤うのも、またその逆も、お互いが鏡に向かって指を向けているということです。

 

 

また『仲間主義』というのは『自分の仲間以外を排除する』という側面も持っています。

正直なところ、少年ジャンプが助長した『友情・仲間の偏重・至上主義』で〈仲間はずれ〉にされた人が何らかの犯罪を起こしている、という事象は結構多いと思います。

去年の京王線で起こった事件もその一つ。

 

いい加減少年ジャンプ(そのほか仲間至上主義体制偏重を助長する少年漫画)はその功罪を認めた方がいいと思うのですが、あの宗教で救われた方が多くいるので、無理でしょう😌

宗教というものは、自身に不都合な事実があれば隠匿するものですから😌

 

 

「仲間っていいよね!」と思われるのは、思う分にはその人の勝手なのでどうでもいいですが、それって『仲間がいないと何もできない』『一人では不能』ということでしょう?

脆いですよね。虚構です。

 

まぁ弱い人間が「こうしたら強くなれるかも」と、心地の良い"夢"を見るためのツールとして使うのならばいいんじゃないかなとも思います。

好きに生きりゃいいし、弱いものは弱いもの通しで仲良くしていらっしゃればいいし。

 

 

と言っているわたし自身も、きっと弱いのですけれど( ¨̮ )

 

 

 

 

タイトルに書いた『ディズニーと少年ジャンプとの共通点』は、『無垢な少年少女を洗脳して、"素晴らしい夢"を見続けさせる宗教』ということです( ¨̮ )

 

ありがとうございました( ¨̮ )

報酬かあるいは呪いか

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は不老不死のお話です。

以前に書いたものの内容は踏襲していますが、それとは別見解になります。

floodinhead.hatenablog.com

 

以前の記事では『生物は二度死ぬ。肉体の死と、残された者の記憶から消えるという死とである』と書きました。

〈肉体の死〉はこの物質界に生を受けた以上は避けられない結末ですが、〈記憶からの死〉はやりようでどうにかすることができます。

 

この〈記憶の死〉を無くした状態を『不老不死』と表現したのではないか、と考えています。

であるから、昔に存在していたと言われている偉人らは不老不死に躍起になったのでしょう。

人々の記憶から消えた状態は、「本当の死」なのであろうから。

 

 

こういったことを以前に書きました。

この考え方は今でも変わらずあるのですが、また別な考えも浮かびました。

 

 

日本だけではないでしょうが、人物名が地名になったという場所は多くあります。

この『人物名が地名になった』というものも不老不死なのではないでしょうか?

 

 

有名な場所でいうと、半蔵門や乃木坂。東京の青山などです。

半蔵門』は服部半蔵氏から。

『乃木坂』は明治天皇崩御を追って殉死した陸軍大将の乃木希典氏から。

『青山』は氏族の名前から。

 

土地に人の名前がつくと、「その土地の名前はこれ」と大衆の思考が固定されるのは当然ですが、ということは、不老不死の術が成立しているということになりえるのではないのか。

 

それとも、どこの誰が由来か知らない状態でその土地の名前を知っていても不老不死にはなりえないのかしら?

 

 

ここで、人物名が土地の名になるということを今一度考え直した時に、思うことがあります。

人の名が土地の名になるということが、自分は報酬みたいに考えているが、果たしてそれは本当に報酬なのか?

 

つまり、稀代の大悪党の悪名を後世まで残すための罰として、名前を地名にしたという可能性もあるのではないのか、ということです。

悪党へ対しての罰則か、呪いか。

 

大悪党だと「言われている」平将門氏の名前が現代にまで残っているのは、将門さんの"念"みたいなものがとても強いためという見方もできますが、後世まで将門さんがやった『蛮行、罪』を民へ伝えて、「憎ませるため」という見方もできます。

 

真意とかは知らないけど。

 

つまり何を言いたかったかというと、『不老不死というのは、多くの人間からの記憶に残ることであるが、その不老不死というのは人名が地名についた場合にも発動されるのではないか』ということと、『不老不死だとしても、それが必ず良いことや報酬であるとは限らない。永遠の責め苦や刑罰・呪いを与えるために不老不死を与える場合もあるのではないか』ということです。

 

 

日本の神社はみんながみんな『良い神様』ではないという〈御霊信仰〉の価値観ですが、その悪神や鬼を"あえて祀る"というのも、不老不死を利用しているとも考えることができると思います。

祀っているから『刑罰』ではないとは思います( ¨̮ )

 

 

 

現代のアーカイヴ時代においては、万人に不老不死が適応される状態にあるとも認識できます。

ちょっと面倒事を起こしたらインターネットの檻にアーカイヴされますからね。

 

あ、そんなアーカイヴ時代だからメタヴァースが生まれたのか。

 

 

まぁなんだとしても、わたしとしては不老不死とか絶対に嫌ですね( ¨̮ )

そこは変わりません。

 

生物、有機物は死んで風化して土に還るのが一番です( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

【これが人生だったのか】八十八ヶ所巡礼『日本』レビュー【よし!もう一度!】

 

本日もご訪問ありがとうございます。

今回はお久しぶりな八十八ヶ所巡礼さんのアルバムレビュー回です( ¨̮ )

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日本

日本

Amazon

 

 

例によってわかった部分だけを自分なりに解説レビューしていきます( ¨̮ )

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絶妙Σ

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DBT!DBT!南無阿弥陀仏!DBT!DBT!絶妙!

 

渇愛の波掻き分けて 低俗な波動放つ我ら

仏滅の夜From流儀 観念なさいな

 

頭痛のある 汲々の日々 パニックとなる 人類の意地

しみったれた観念を引きずり廻し

情報に乗っかってる

 

時間が伸びたり縮んだり ふざけてる世界さ

時間がノウハウ握ったり 身勝手な時代さ

時間は何かと訊かれたら 時間は波だと答えるし

時計は何かと聞かれたら 時計は屑だと答えるさ

 

─────────

 

絶妙な意味が欲しい 俺らまだまだ苦しみたいらしい

 

─────────

 

じゃあどうしよう? 敵は血に潜んでる

なあそうだろう? 貴様らの中さ

 

頭痛のある 汲々の日々 パニックとなる 人類の意地

しみったれた観念を引きずり廻し

行き交う 怏々の神のシグマ

のろまな時は止む 我らの先は絶妙

 

DBT!DBT!南無阿弥陀仏!DBT!DBT!絶妙!

南無阿弥陀仏』というのは、「わたしは仏様に従います」という意を表した言葉らしいです。

『絶妙』は「この上なく巧みで優れている様」ということみたいですね。

ということは「仏に全幅に従ったら、この上ない巧みな世に行ける!」という念仏的な意味合いでしょうか?

 

渇愛の波掻き分けて 低俗な波動放つ我ら

「低俗な波動放つ我ら」というのは、サビになって意味を持ってきます。

ぜひ氣に留めておいてください。

 

仏滅の夜From流儀 観念なさいな

ここで示されている「観念」の意味は『諦めな』という意味です。

これも後になったら意味を持ってきます( ¨̮ )

 

頭痛のある 汲々の日々 パニックとなる 人類の意地

『汲汲』という言葉は「一つのことにかかりきったり、小さなことにあくせくする様」という意味だそうです。

つまり、『小さなことに囚われてあくせくし、パニックになって頭痛がもたらされている』という意味かと思われます。

 

しみったれた観念を引きずり廻し

ここに書かれている「観念」は『物事についての考えや意識』という意味です。

「しみったれ」は『考えが狭いこと』という意味らしいですね。

ということは『狭量な意識にとらわれて、それを固〜くさも大事そうに握りしめ』という意味合いになります。

 

情報に乗っかってる

これもあとからちゃんと説明しますが、『実態のない虚構な情報に頼って、それに囚われているとも氣づかず囚われて』という意味です。

その情報ってなにかっていうと、時間とかね( ¨̮ )

 

 

時間が伸びたり縮んだり ふざけてる世界

時間が伸びたり縮んだり ふざけてる世界さ

きっとちんぷんかんぷんに感じられると思いますが、この世には時間というものはありません。

ヒトが時間という概念を作って、その他のヒトたちがその概念を信じているだけにすぎません。

 

聡明な貴様らの皆様ならばご理解いただけると存じます( ¨̮ )

 

ここで『時間が伸びたり縮んだり』と歌っていますが、貴様らの皆様方も「同じ5分でもやけに長く感じたことや、すぐに経ってびっくりした経験」があるのではないでしょうか?

これは、『時間というものが、絶対完全のものではなく相対のものだから』です。

ここらへんは『相対性理論』で詳しく説明されていますので、一度調べてみてください( ¨̮ )

 

簡単な話、『時間というものは存在しない相対的な概念で、あるのは時だけ』と思っていただければ問題ありません( ¨̮ )

 

時間がノウハウ握ったり 身勝手な時代さ

そんな時間という概念をヒトが作り出し、その概念がヒト支配した時代、24時間という区切りがノウハウを持って、ヒトを握っている時代。

 

時間は何かと訊かれたら 時間は波だと答えるし

ここで『時間は波』と言っています。

この波は『波動(なみ)』の意味合いでの波でしょう。

物理的な波は満ち引きしますし、その満ち引きは絶対的に「ここからここまで」と設定されていないランダムなものです。

ここでも『相対性』が登場します。

 

ちなみに、ここの『時間は波』というのは量子論も入ってくるでしょう。

 

そんな「時間というヒトが作った概念に囚われた状態の我ら」は『低級な波動放つ我ら』という意味だろうと感じます。

 

時計は何かと聞かれたら 時計は屑だと答えるさ

「『時間というもの』はヒトが作ったものであるから、その時間を管理し、〈時間という感覺〉を絶え間なく我らへ洗脳し続ける時計というものは、屑(ゴミ)だ」ということです。

面白いですね( ¨̮ )

 

 

「お金が伸びたり縮んだり」とも歌っていますが、これは『インフレとデフレのことを指していることと、土地・場所によって物価が変動すること』などなどでしょうし、この『お金』というものも、ヒトが作った概念です。

そういった「ヒトが作った概念」という『情報』に乗っかっている、という意味でもあるわけです。

 

 

絶妙な意味が欲しい 俺らまだまだ苦しみたいらしい

意味のない地球、というかヒトの生きる浮世ですが、そんな意味のない世界に〈絶妙な意味を付けること〉によって、それが『生きる意味』にもなります。

そんなアホをやると、その行動が理由になって苦しむことにもなるのですが、『生きる意味がほしい』と思うということは、『自分から苦を望んで、受け入れている』ということです。

やっぱり俺らはまだまだ苦しみたいらしい( ¨̮ )

 

 

じゃあどうしよう? 敵は血に潜んでる

なあそうだろう? 貴様らの中さ

これは『貴様らが常識で変えられないと思っていること自体が、貴様らを苦しめているんだよ。血として駆け巡っている価値観こそが敵で、敵は貴様ら自身が飼っている。だから、暴け。疑え』という意味じゃねえの?と思いました。

 

『Violet Purple Bible』で「感情は細胞の霊魂」と歌っていたことの延長だと感じます。

酔狂( ¨̮ )

 

 

頭痛のある 汲々の日々 パニックとなる 人類の意地

しみったれた観念を引きずり廻し

行き交う 怏々の神のシグマ

のろまな時は止む 我らの先は絶妙

怏怏という言葉は『不平不満のあるさま』という意味らしいです。

シグマはいまいちよくわからなかったのですが、ギリシャ語アルファベットで18番目の文字であるらしいのと、数學においての総和記号らしいです。

 

『観念』は「諦め」と「物事への考え方」という意味だと先に書きました。

そして、先に出た『しみったれた観念』は「視野の狭い観念」と訳しましたが、ここでの『しみったれた観念』は「諦め感情」の方だと感じます。

これぞ漢字の妙Σ

 

小さなことに囚われてパニックになり、頭痛になっている日々

ちっちゃくて狭量な意識と諦めに囚われて、それを固〜く大事そうに握り締め

不平不満を抱え抱えて行き交う神であるはずの我ら貴様ら

そんな我らの行き着く先は至上の世界

 

という解放と希望の曲だと感じました。

「どうしたって俺たちは救われる未来、幸せな結末しかないんだから」というような暖かさすらも感じました。

 

歌詞を読むとやっぱり感じなかった思いが浮かぶものですね( ¨̮ )

 

 

奇天烈レジャ〜

気分ばっかの心ないラヴ♡

 

─────────

 

狂楽

 

─────────

 

! 確かに変だ  ! さすがに変だ

〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!

 

気分ばっかの心ないラヴ♡

これはわざわざ言及しなくてもいいものですが、まぁワンナイトラブとか金銭が絡んだ関係ということでしょう。

 

心のないインスタントな、物理的なだけの虚夢ちゃんな愛情なんてものは摂取するだけ空虚な穴の無い傷を増やして、傷口を広げますからね。

本当じゃない、心のない愛なんて触れても虚しいだけで、それの中に『自分を満たしてくれるものがある』と勘違いしても、渇望を繰り替えすだけ。

そのループは「喉の渇きを潤すために海水を飲む行為」と同じです。

floodinhead.hatenablog.com

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狂楽

これは享楽の書き換えだと思いました。

『享楽』は「快楽を味わうこと」なのですが、その〈快楽〉だと思っているものが、実は狂ったものである。

しかし、その「狂ったもの」が『普通』になっているから、その異常性に氣付けなくなっている。

 

『沈んだりすること』に「慣れた」状態は、問答無用で異常です。

赤信号をみんなで渡っている全員が「これは普通なことだよ」と言おうが、異常です。

 

! 確かに変だ  ! さすがに変だ

〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!

異常を普通だと思い込んでいる状態、その異常性自体が変だと確信したのでしょう。

〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!

 

 

幽星より愛を込めて

初めて聴いた時に、非常にB'zさんっぽいな、と思いました。

きっと、B'zバンドが演奏して稲葉浩志さんが歌っても、なんら問題ないでしょう( ¨̮ )

 

表面的にはなかなか毒を吐いているように感じますが、樂曲がメジャーキーで明るいこともあって、叱咤激励に感じます。

岡本太郎さんが書いた『自分の中に毒を持て』と似たものを感じる。

エネルギーが高い。大好き( ¨̮ )

 

 

大体暗い街で輪になって とり憑かれたように

繰り返しの愚図なゲェムに病みつき

 

─────────

 

大体凍る街で震えてて 憑依されたように

役立たずの屑な ニュースに狂喜し

 

─────────

 

言葉に秘めた 毒の奥を掴め

言葉で感電死 化けの皮を剥ぎとれ

 

大体暗い街で輪になって とり憑かれたように

繰り返しの愚図なゲェムに病みつき

これはビデオゲームとかの意味としても取れると思いますが、個人的には権力抗争や社内政治的な意味合いの政治、コミュニティ内での自己の優位性を主張するために行うマウンティング等のことだと思います。

 

大体凍る街で震えてて 憑依されたように

役立たずの屑な ニュースに狂喜し

多くのゴシップでしょう。

誰それが結婚した、離婚した、解散した、不倫した。

そういった〈自分の人生に一切影響しない小事〉たちのことです。

そんな『どうでもいい役立たずの屑なニュース』に"憑依されたみたい"にかじりついて狂喜している。

自分の人生を生きろよ。

 

「他人の人生を覗き見てやいのやいの言っている」ってのは、他人の人生を生きていることになるんだからな。

 

言葉に秘めた 毒の奥を掴め

言葉で感電死 化けの皮を剥ぎとれ

これは『攻撃的国民的音楽』で歌っていたことの延長だろうと思います。

新しい言葉の裏側に隠されている真理
馬鹿らしい言葉の裏側に隠されている神秘

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また、毒の効いた過激に聞こえる歌詞に用いられた言葉たちがどうしてその言葉を用いたのか、毒のその奥を探れ。という意味合いとも感じます。

 

 

ウルトラ・ヘヴン

ぽっかり底に空いた 穴の無い傷があった

 

─────────

 

さあ、ヘヴン!飛べるように くだらない脳を捨てよう。

 

─────────

 

天国は どこでもあるクスリだって

じゃあ僕は 救いのない所に立っていた

 

─────────

 

夢の中では余念がないさ

空に始まり出口はないのさ

 

─────────

 

天国は どこでもある誇りだって

じゃあ僕は 浮世でまだ観ていたいさ

天国は どこでもある地獄だって

じゃあ僕は 同然ならここに立っていよう

 

ありがとう

楽になった

サンキューです

 

ぽっかり底に空いた 穴の無い傷があった

これは「虚構を実りあるものと思って接していたことによって生まれた傷」かしら?

それこそ『気分ばっかの心ないラヴ♡』を摂取し続けたことで受けることになった傷?

 

それとも「過去に経験した深い傷が、表面的には治っているけど実は完治していなくて底は空いている傷」か?

 

個人的には後者だと思いました。

どっちにしても、底に傷があればどんなに実りあることでも貯まることはありません。

 

さあ、ヘヴン!飛べるように くだらない脳を捨てよう。

酸いも甘いも、樂も辛いも難攻不落の氣分次第だから、その煩悩を産んで去来させる、くだらない脳を捨てましょう。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

天国は どこでもあるクスリだって

じゃあ僕は 救いのない所に立っていた

これは世に多くある『宗教』の話かしら?

だとしたら、そんな宗教を無条件に信仰できる純粋性(ある意味合いでの幼稚さやアホさ)が無くなっていた状態なのでしょう。

また、冷めた意味合いでの賢さも持ち合わせているために宗教の「粗」も自然と見えてしまう。

それが故に虚無ちゃん。ニヒルに侵食されている状態ということです。

 

そんな精神状態だから、宗教にも全幅の信頼を置けず、救いのない所に立っている。ということかな?と考えました。

 

夢の中では余念がないさ

空に始まり出口はないのさ

ネガティヴイメージは何もない状態からでも始まる。

マイナス思考は始めると芋づる式よろしく、次から次へとネガティヴを連れてくる。

そんなことを続けるとネガティヴに支配されて、出口はない。

 

天国はどこでもある誇りだって

じゃあ僕は 浮世でまだ観ていたいさ

天国はどこでもある地獄だって

じゃあ僕は 同然ならここに立っていよう

天國は「どこにでもある誇り」で、「どこにでもある地獄」である。

つまり、自分の氣持ち次第で『自分が生きている場所を天國にも地獄にもできる』ということです。

その事実に氣がついた曲の語り手は、「天國も地獄も大して変わらない似た様なもので、難攻不落の氣分次第なんだったら、それが本当か確かめるために浮世でもうちょっと観ていよう」と氣持ちを一新する。

 

それを知った語り手が、言いました。

 

ありがとう

楽になった

サンキューです

 

 

脳がとろける街888

なんとも深夜を感じる曲です。

そして、どこか聖なるものを感じる曲です。

 

8分もある曲ですが、半分を越した頃から曲調に希望が滲んできます。

ここ(樂曲Time 4:39~)がcali≠gariっぽい。アコギのバッキングが入ってるところとかも、すごく「ぽい」

やっぱりcali≠gari通ってそう。

 

 

こだわり続けるのを 諦めたら壊れちゃう

 

─────────

 

この街では塵の様に 霧の様に『今』をぼやかしてる

 

─────────

 

どこまで続けるの?と 吐き出したら壊れちゃう

 

─────────

 

こうやって叫べば面白い? こうやって叫べばどこでも勝てるさ

 

─────────

 

夜が続きそうな街で 夜が続きそうな街で 夜が続きそうな街で

こうやって叫べば

夜が終わりそうになるさ 夜が終わりそうになるさ

そうやっていけたら最高さ

夜が続きそうな街で 夜が続きそうな街で

喉が千切れそうな程に こうやって叫べば

夜が終わりそうになるさ 夜が終わりそうになるさ

そうやって溶けたら最高さ

 

こだわり続けるのを 諦めたら壊れちゃう

『こだわること』が精神的支柱で精神衛生の根幹にあるから、それをやめたらもたれる場所がなくなってしまって壊れちゃうんですよね。

身に覺えがあるのでわかります。

一見すると強く見えるんだけど、実はそれって非常な脆さも持っているんですよね。

 

この街では塵の様に 霧の様に『今』をぼやかしてる

『この街』と言っていますが、これは『現代のこと』だろうと思います。

誰もかれもが過去や未来にばかり目を向けてばかりで、今に目を向けずぼやかしている。

『今』という、ある意味での〈身体性〉を蔑ろにしている現代、という意味だと感じました。

 

どこまで続けるの?と 吐き出したら壊れちゃう

ふっ、と冷静になってこんなことを考えてしまったら、その冷静さを自分に向けてしまったら自分がこれまでしてきたことすらも否定することになりかねない。

多くの夢追い人には経験のある、馴染み深い感情なのではないでしょうか。

 

でもね、こうやって冷静さが顔を出してきた時点でもう危ういんですよね。

絶好調な状況や盲目的な状態ならば「どこまで続けるの?」という冷静さは出てきませんからね。

 

こうやって叫べば面白い? こうやって叫べばどこでも勝てるさ

おそらくこの曲の語り手は日々の生活で「面白い」と感じることが少なくなっていたのではないかと感じます。

『面白い』と感じる柔軟性が心から消えていた状態というか、『面白い』を感じるだけの心の余裕を回せなかったというか、そんな感じ。

そんな語り手が「面白い?」と疑問符をつけながらも、『面白いを"面白がれるように"なるとっかかり』を摑んだ。

しかも、「こうやって叫べばどこでも勝てるさ」という『無条件の自己肯定』を自分の中から生み出しているような描写すらある。

純粋に嬉しいです。

 

余談ですが『裏声を出す』というのは自分を表現することにおいて、非常に良いトレーニングになるそうです。

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単純に声を発するというのは、自己表現の一つですからね。

もしかしたら、この語り手は発言することに苦手意識やコンプレックスを持っていたのかも。

それを解消しようと思えるようになったのも嬉しいですね。

 

 

夜が続きそうな街で 夜が続きそうな街で 夜が続きそうな街で

こうやって叫べば

夜が終わりそうになるさ 夜が終わりそうになるさ

そうやっていけたら最高さ

自己表現の方法を得て、それを実践していれば、夜が終わるんじゃないか。

もし、まだ夜が終わらないのだとしても、夜が終わるんじゃないかと思うことができる。

もしまだ夜が終わらなくても、「夜が終わるかも」と思うだけでも、そう思えるだけで最高さ。

 

この夜は精神的な意味合いでの比喩でしょうね。

いちいち言わなくでもわかるよって話ですけどね。

 

夜が続きそうな街で 夜が続きそうな街で

喉が千切れそうな程に こうやって叫べば

夜が終わりそうになるさ 夜が終わりそうになるさ

そうやって溶けたら最高さ

これまでの「こうやって叫べば」はファルセットを用いて歌っていましたが、最後になると地声で、本当に叫ぶように歌っています。

これは自分の声を臆することなく出せるようになったということなのだと思います。

 

しかも『喉が千切れそうな程に』ということは大声で叫ぶということです。

つまり、この語り手の心の夜はもう明けようとしているということです。

これを嬉しいと思わずして、喜ばずしていられるでしょうか。

 

このファルセット→地声で表現する歌唱法は、2021年に開催された【幻魔大祭1205】の『永・凹・阿阿瑠』でもマーガレット廣井さんは用いられていましたね。

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曲始まりはマイナー調ななんとも『夜』を感じる曲でしたが、曲が終わる頃にはメジャー調になってシンセ音すら入っています。

このエンディングには『ドン暗い夜の時間から、時が流れて夜が明けようと白み出している空を見上げた情景』が浮かびました。

見上げた空にはきらきらと星が瞬いている情景も込みで( ¨̮ )

 

とにかくこんな御託はどうだっていいとして、この語り手が自分を救ったこと。そして、この音樂と心に触れて自分で自分を救う人が少なくとも一人はいるであろうことが、とってもとっても嬉しいです。

 

苦しんでいる人がいっぱいいるのは辛いですからね。

『自分が辛い経験をしたから、他の人間にも同じ経験をさせないと氣が済まない』なんていうのは言語道断です。

 

 

これが人生だったのか!よし!もう一度!

永劫回帰』という仮説・考え方があります。

これはドイツの哲學者であるフリードリヒ・ニーチェ氏が提唱した考え方で、『ツァラトゥストラ』という著書で登場しました。

ニーチェ氏は「神は死んだ」という言葉でも有名な方ですね。

 

この『永劫回帰』というのは、同じ人生が永遠に繰り返されるという考え方です。

仏教の『輪廻転生』と似ているように感じますが、二つは全く異なったもので、輪廻思想は「一つの魂が別々の存在に宿る」というもので、永劫回帰は「一人の全く同じ人生が永遠に繰り返される」というもの。

詳しくはこちらの動画様を観ていただければと存じます。

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『何度も同じ人生を繰り返す』と聞いて、「絶対に嫌じゃん」と思った方も多いだろうと思います。

わたしもその一人の一部でもあります。正確にはわたしの中にも「絶対に嫌だ」と思う部分がある、ということですね。

 

 

『何度も同じ人生を繰り返す』と聞いて、どうして『絶対に嫌』と思うのかというと、大小の少なくはない辛苦の過去があるからではないかと思います。

そんな〈大小の辛苦が少なくない人生〉の中でも『本当に魂が震えるほどの悦びに、たったの一度でも触れたのなら、その人生は生きるに値する』ということもニーチェ氏は語っています。

その経験をした人が、タイトルに引用した『これが人生だったのか、よし!もう一度!』と思って、永劫回帰を受け入れるということなのです。

 

 

どうして、このニーチェ氏の永劫回帰を引用して書いたのかというと、今回レビューした『日本』というアルバムを聴き終わった時に、その『これが人生だったのか、よし!もう一度!』というツァラトゥストラを想起したためです。

 

『攻撃的国民的音楽』をはじめに聴いた時には、「これはとんでもない世界を覗いてしまったやもしれない…」と思ったのですが、ラストを飾る『エイトビイトな人々』を聴いた途端に「いいアルバムだ…!もう一度!!」となりました。

 

その「いいアルバムだ…!もう一度!!」の感覺が、この『日本』は強かったのです。

正直このアルバムを初めて聴く段階で『奇天烈レジャ〜』『銀河の恥…』『大安ナイト』を聴いている間は、意味不明で奇天烈すぎて、困惑の感情が非常に強かったのですが、ラスト二曲で「いいアルバムだ!もう一度!」となりました。

この感覺が永劫回帰と似ているなと感じたのです( ¨̮ )

 

 

『奇天烈レジャ〜』や『銀河の恥…』で戸惑いや焦りじみたもの、ニヒリズムに支配されかけていたアルバムを通しての語り手が、『ウルトラ・ヘヴン』と『脳がとろける街888』で癒され、自分自身で"自己に課した"しがらみから解放した。

ここの感覺が「いろいろなことあったけど、まぁいい人生だったかな。 !…なるほど、これが人生だったのか。よし!もう一度!」という思いと似ているのではないか?と感じたのです。

永劫回帰ですよね。

 

二曲目の『亡月亡日』は同じフレーズが繰り返される楽曲ですが、永劫回帰の仮説を考えると『同じフレーズがリフレインする』というのは『同じ人生がずっと繰り返される永劫回帰』と捉えることもできます。

 

よく思い出せば『絶妙Σ』もリフレインが主ですね。

『銀河の恥…』も同じことを延々と繰り返していますし( ¨̮ )

永劫回帰( ¨̮ )

 

 

 

しかしこれまで各アルバムの発売当時に知っていなかったことを悔やまれるバンドもいないな…。

この『日本』が発売されてすぐの頃は、『ウルトラ・ヘヴン』もライヴのセットリストで多く組み込まれていたでしょうし、『攻撃的国民的音楽』の頃は『エイトビイトな人々』がセットリスト常連曲だったのでしょうからね。

本当に『エイトビイトな人々』を生で聴きたい。聴かなくては死ぬに死ねません。

まだまだ死にません( ¨̮ )

 

ありがとうございました\(´-`)/

9000字超え\(´-`)/

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倖せと幸せ

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

『にんべん』

わたしは小説を読むのが好きなのですが、最近は遠藤周作さんの『海と毒薬』を読んでいます。

 

その作中に『倖せ』という字がよく登場します。

これは今現在よく使われている『幸せ』と同じ読みをした漢字で、意味合いも似ているのですが、決定的に違う部分があります。

それは『自分だけのしあわせ』か、『人と繋がることで生まれるしあわせ』か、ということです。

 

幸には『自分一人のしあわせ』という意味、倖は『人と繋がることで生まれるしあわせ』という意味だそうです。

「にんべん」が付いていますからね。

 

 

さて、昨今では「倖」の字はなかなか目にすることはなく、「幸」の方が常用漢字になっています。

 

これは「慾」の字から心が失くなって「欲」の方を常用漢字としたのと同じ意図を感じます。

floodinhead.hatenablog.com

 

「慾」と「欲」の違いを調べたところ、全く違う漢字らしいです。

ですが、意味合いは同じなのだそう。

やはりちゃんと調べるのは必要ですね。

 

 

GHQの介入

GHQが漢字を廢止しようとした』というのは有名な話ですが、その思惑は願わず(日本人全体の識字率調査の結果が97.2%であったため)、戰前まで使っていた漢字を改変(氣を気にしたり、學を学にしたりと)することで、漢字そのものが持っている意味や力を失くしたと言われています。

そして、日本が敗戰したタイミングでGHQが占領統治し、色々と内部改革を行いました。詳しいことは『3R・5D・3S政策』で調べてみてくださいね( ¨̮ )

 

そのGHQが介入したことで日本は高度経済成長を遂げた、という側面がありますが、また別な側面もあります。

それは、個人主義の増加です。

 

 

個人主義思想

実際にその時代に生きていたわけではないですが、1960年代、'70年代に生活していた人は、まだ集団の調和を重要視する人が多かった印象があります。

ですが、バブル経済になった 1980年代後半くらいからぐんと個人主義的思想が増えていったように思え、その頃から今までのおよそ40年間は、個人主義思想がメインストリームになっていると思われます。

 

これは、1945年に日本へGHQが介入し1952年までの七年間で作った『新しい国民思想』が骨の髄まで浸透しきったのが、バブル時期だったのだろうと考えています。

1970年代までは、まだ軍國主義的な思想が残っていた(良い部分も良くない部分も)けど、 GHQ式の『新しい国民思想』が浸透してきた頃に生まれた人が、成長して自由に個人活動をできるようになった時期が1980年代なのだろうと考えています。

 

 

個人主義思想と、和

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こちらの動画で「あなたの心はどこにありますか?と質問して、頭を指した人は西洋人に多く、その多くが個人主義的思考を持っていた。逆に胸を指した人はアジア人に多く、コミュニティの調和を大事にする人が多かった」と話していることからもわかります。

とはいえ、わたしは実際に実験をしたわけではないですし、話している方も論文を読んだだけなので、全面的・盲目的に信用するのは危険ですね( ¨̮ )

 

 

そして、その『個人主義思想』は、個人・自分だけの利益を考えるので『幸せ』に該当します。

決して『倖せ』ではないですよね。何故ならば『倖せ』は「人と繋がることで得られる氣持ち」なのですから。

 

 

どうでしょうか。

「慾」が「欲」に、「倖せ」が「幸せ」になって、両方とも後者のみが常用漢字になっているという現代ですが、意図と意思があるようには感じませんでしょうか?

 

どちらも昔からあった漢字なのだとは思いますが、問題なのは、危険なのは、「片方だけしか知らない。教えらえていない」というところです。

 

 

余談。英語の勉強法

ちなみに余談なのですが、GHQが日本へ来た時にまず行おうとしたのが「日本の公用語を英語にする」ということだったらしいのですが、当時の日本人はちょっと教えられただけで、すぐに英語を話せるようになったそうです。

他にも、アメリカではまだ大多数ができなかった暗算を、当時見下していた娼婦のほとんどができていたらしいです。

 

そして、識字率の話も考慮し、「このまま日本人の公用語を英語にすれば、日本人がアメリカへ進出して我が祖國が脅かされるやもしれん」と恐れたアメリカ人、GHQ職員が、今現在まで続く『英文法勉強法』を作ったのです。

その結果、今の日本人はほとんどが英語を話せませんよね( ¨̮ )

言語なんて話せないと意味ありませんからね。

文法だけが完璧だとして、英語圏に旅行に行った際に全て筆談でコミュニケーションするのでしょうか。現実的ではないですよね。

 

つまり、GHQの思惑通り、ということです( ¨̮ )

 

つまらない歴史のお話でした\(´-`)/

日本は戰爭に負けたってことを忘れてんじゃねえぞ。

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

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「はじめに言葉があった」

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

前回は『言語が我々を支配している』ということを書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

その際に「はじめに言葉があった」という新約聖書の一節を用いたのですが、この「初めに言葉があった」という部分。

 

これって、『シミュレーション仮説』なのではないでしょうか?

 

 

この『シミュレーション仮説』というのは、「今いるこの世界は、実はコンピューターが設計したシミュレーションの中にあるのではないか」というものです。

 

 

映画『マトリックス』の一作目で、主人公のネオが会社員として生きていた世界がシミュレーション内の世界です。

あの映画では人間はAIに栽培されており、人間の意識や感情をエネルギーとして使っていました。

 

今わたしたちが生きていると"思っている"世界は、実はシミュレーションされた仮想空間で、現実世界では人間はAIに栽培されているのではないか。とは、今生きていると"疑わない"わたしたちにはわかるはずがないのですが、今回はそこが論点なのではありません。

 

 

『はじめに言葉があった』というこの一節。

この『言葉』というのは〈プログラミング〉のことなのではないのでしょうか?

 

今一度、新約聖書の冒頭を引用しましょう。

はじめに言葉があった。

言葉は神と共にあった。

言葉は神であった。

この言葉は、初めに神と共にあった。

万物は言葉によって成った。

成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。

 

いかがでしょうか?

『万物は言葉によって成った』というのは、「プログラムされたから生まれた」と解釈することができるのではないでしょうか?

確かに、『言いようでなんとでもなる』部分でもあります。

 

『言葉は神であった』というのは、「プログラミングをすれば生み出すことができるので、言葉はイコール神と等しい」と解釈することもできます。

実際のところはどうなのだろうか。

 

『実際』というもの自体もないのかしら。

 

 

これ以上は『確証バイアス』で、自分の仮説に準ずるもの・肯定的な意見ばかりを見つけようとするだろうから、これくらいでセーブしておいた方が利口でしょう( ´・◡・`)

 

 

もし、この『はじめに言葉があった、の"言葉"はプログラム』という仮説が本当だったとして、だとしたら、メタバースも同じものだと仮定することができます。

またそれは別の記事で書いた〈次元の干渉〉と同じものだと感じます。

 

そして『今わたし達がいるこの世界内で、メタバース等の電脳空間を作ることができるということは、"今いるこの世界自体"が電脳空間である』と考えることもできます。

もちろんわかりませんよ。

 

ですが、可能性はありえるので「なにをばかなことを」と一蹴するのは利口ではないと感じます。

まぁ最終はその人の自由であるのですけれど( ¨̮ )

 

本当はどうなのか、なんてきっと誰にもわからないんでしょうし( ¨̮ )

 

 

 

あれ?でも『意識が現実化する』という事実があるこの世はやっぱり、シミュレーションの中に存在しているのかも??

 

ありがとうございました( ¨̮ )