頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

言葉は本質を包む生地でしかない

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは言葉を用います。

言葉を用いてこのブログような多分駄文的なものを認めています。

 

この言葉について、わたしは思っていることがございます。

それは「本質が変わらんのなら別に無理して言い換える必要なくね?」です。

 

 

かれい

具体例としましては『年齢を重ねる』です。

言葉の意味合いは【加齢】ですね。

そのため、同じ意味合いである『歳をとる』や『歳を食う』と言い表してもなんら問題はありません。

 

なのでわたしは基本的に『歳をとる』という表現を用います。

 

そもそも『年齢を重ねる』という表現には氣取った趣を感じる。

【加齢】というものを必死に良いものだと思い込もうとする真摯なる強がりを感じる(涙ぐましい)。

 

【加齢】が肯定的なものなのであれば、そのまま『歳をとる』という表現で済む筈ですし、「年の功」や「年功序列」という価値觀が存在している以上【加齢】は肯定的な意味合いとして認識されて然るのではないか?と思います。

しかし、そうではなくわざわざ『年齢を重ねる』という表現を使っているということは、【加齢】を否定的な意味合いだと捉えているということにはなりませんでしょうか。

 

まず、『歳をとる』じゃなくて『年齢を重ねる』という言葉を積極的に使おうとしている時点で【加齢】を否定的な意味合いとして認識していますよね。

 

やめちまえ。

 

ただ歳を食ったところで、できた人間にもならねえし「レベルアップ」だとか嘯いて精神性が上がるわけでもねえ。

そんなものは幻想だってーの。

 

 

それもこれも《印象》で全てが左右される愚かな愚かな人間的所業が根本としてあるのでしょう。

好意的に取れば興味深い。

否定的に取れば阿保らしい。

 

 

とはいえ、わたしみたいな阿保に惑わされることなく、皆様はご自身の脳みそで考えた上でどうぞお好きに生きてください‪( ¨̮ )‬

 

 

『年齢を重ねる』と似たようなところで、『亡くなる』という表現もあります。

【死】を迎える、或いは【死】を受け入れた生物に対して用いられる言葉ですね。

 

端的に『死ぬ』と言い表しても一切問題はありません。

 

しかし『亡くなる』という表現がどうにも幅を利かせていますね。

どうしてなのか。

 

『年齢を重ねる』の時と同様に、『亡くなる』という表現にはやっぱり氣取り屋さんな趣を感じます。

しかし前者よりは氣に障る氣障っこちゃんな空氣感は鳴りを潜めているように感じますね。

 

 

「本質が変わらんのなら別に無理して言い換える必要なくね?」を信条にしているわたしとしては『歳をとる』と同じように『死ぬ』でよくね?と思っていました。

 

しかし告解的な告白ですが、流石に生き死に関しては繊細な部分であるので、"印象" という悪魔に唆されたわたしも人前ではビビって『亡くなる』を用いていました。

 

とはいえ、『本質が変わらんのなら〜』とぶぅたれる我がエゴイスティックな自我。

 

やっぱり「別に無理して言い換える必要なくね?」の感情は夏の日の陽炎よろしく首をふらりともたげます。

 

 

そんな状況のまま、時は経過しまして「首疲れない?」と心配になりだした頃合い。

ある考え方が *1 と去来しました。

 

『亡くなる』という表現、それは氣障っこをしたいなどではなくて、故人への敬意を表したものなのではないか、ということです。

 

上のものはあくまでも仮定及び推測でありますが、もしその推察が正しいのであれば、というよりもそう思えば『亡くなる』という表現を用いるべき、そうであらねばならぬ、と思えてきます。

 

そのように考えれば『死ぬ』は確かに幾分か乱暴で投げやりな言葉であると思いますね。

 

【死】

『死ぬ』は事実である。しかし、死者に対して敬意を表す。

その表現・思いやりが『亡くなる』という言い換えなのかな、と考えます。

 

であれば、この言い換えは必要であると思いますね。

 

ただし『年齢を重ねる』は駄目だ。

 

 

言葉は精神の発露

ここまでお読みいただいた方、そしてこれまでわたしの記事をお読みくださっている方ならあるご意見があったりするでしょう。

「じゃあ鶏肉をチキン、おつゆやお出汁をスープって言ってもよくね?」です。

言葉は違えど【本質】は同じものを指しているからですね。

 

 

駄目です。

 

結論

 

駄目です。

 

 

それは昔アメリカさんが日本語を廃止しようとし惨敗し、結果として長期的に日本語を破壊していこうとしている背景を感じる、感じざるをえないからです。

floodinhead.hatenablog.com

 

ふざけんな。

 

最近も『ご飯』を「ライス」とする言い換え、染脳が顕著ですしね(「on The rice」とか莫迦言ってんじゃない日本語を使えばか)。

 

そもそも「rice」は【生米】も炊飯した【ご飯】も意味合いとして含まれるように感じます。

日本語では『(お)米』と『ご飯』は言葉自体が違います。

状態によって、音も違えば言葉も違う。

ということは、たとえ同じものが変容したのであっても《本質》自体が別のものだということになるのではないか、斯様に感じるのですよ。

 

《本質》が違うということは、それ自体に宿る神も違う。

 

それこそ非常に日本的な八百万の考え方ではないでしょうか。

 

 

別に「英語は言語として劣っている!」だなどという拡大解釈した阿保な単純化をして言っているのではないです。

言葉はソフトでありハードでもあるわけで、言葉を変容させたら思考も思想も変わるわけです。

 

侵略の第一歩目が「公用語の変更」であるのがその証拠ですね。

よく参考として用いますが『一九八四年』においての〈ニュースピーク〉がそれです。

 

 

言葉は本質を包む生地でしかない

わたしは本質が変わらなければ名称や表現とかもそのままでよいと考えています。

そして、より簡潔で本質的な表現の方を好みます。

 

今後書くかもしれませんが、変に喩えたりすると逆に伝わりにくかったり、不必要な生々しさが生じているようにも感じます。

しかしながら、わたし自身の説明は回りくどいのが難点ですね。

 

 

ですので、わたしは旧Twitterについても「ついったー」と発声しています。

現時点では『X』となっていますが、そのサービス自体は変わっていないからです。

本質が変わってないものをわざわざ変更する必要はない。と考えていますが、この考え方によって時代から取り残されたりするのでしょうね。

 

しかし件の名称変更って結局のところイーロン・マスク氏による権力主張の一手段でしょ?

マスクさんがTwitter社を買収した。

「このサービスは我のもの!」という誇示の手段として、サービス名の変更だった。

わたしはそう考えております。

 

名前、表現、 "外側" が変わっただけ。

そもそも『X』という名称変更も、〈後の世代〉に対しての行動でしょうしね。

 

今の幼年世代が成長した時に『X』という名称が定着しているようにするため、です。

ちょうど『太陽を讃える冬至祭』だった日を『キリスト教の祭日』として置き換えたようなものです。

 

 

「本質を捉えられていれば、右往左往と惑わされることはない」と思っておりますが、わたしが本質を捉えられているかどうかは不明です。

少なくとも『捉えられている!』だなどの自信という莫迦な感情はありません。

 

 

ところで、今回の題名である『言葉は本質を包む生地でしかない』はとあるYouTuberさんの発言を引用させていただきました。

どなたかお判りになられますか?

可愛らしい赤ちゃんです( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

*1:ぽん!