頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

『やばい』はThat

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は『一回聞いただけではちんぷんかんぷんな言説』シリーズです。

 

いや、多分いつもそうなのでしょうけどね。

いつものように一聴しただけでは「なにを言っているのだ」と思われるでしょうが、これから記す説明を見ると一種の爽快感というか、清涼感がもたらされると思います。

そうできるよう善処いたします( ¨̮ )

 

 

『やばい』という言葉があります。

 

再三言っておりますが、わたしはこの『やばい』という言葉が好きではありません。

 

理由は「汎用性が高すぎて具体性がないから」です。

 

この『具体性がない』ということ。

 

『言葉としての表現』に『具体性がない』のです。

 

 

なにかを食べて、他人の考え方、行動、言動、おもしろいと感じた時、ざっと考えただけでもこんなにも現代には「やばい」の一言で済まされる言葉があります。

おそらくわたしが知らないだけで、もっともっとこの現代には「やばい」が溢れているでしょう。

 

ですが、これらの「やばい」の一言で片付けられるものごとは、『なにがやばいのか』が示されていません。

 

りんごを食べて「歯ごたえがすごくしゃきしゃきしていて、やばい」ならば、まだわかります(そこまで言えるのなら「歯ごたえがしゃきしゃきとしていて、その音が爽快感がありおいしい」と、それくらい言えよ、とは思います)。

 

ですが実際は「このりんご、やばい」としか言えないでしょう。所詮は現代人です。

 

 

つまりは、結局『やばいという言葉には、具体性がない』ということなのです。

 

 

 

『具体性』とは〈これ〉です。

つまり『This』です。

「これこれ、これがこうだから、こう」という『ちゃんとした』感想を形容すれば、そこには具体性のたっぷりと含まれた、『具体的な感想』となります。

 

 

しかし、「やばい」には具体性が皆無ですので、『That』である。

『〈具体性がたっぷり含まれた感想〉がミネラル豊富な海塩』だとしたら、『〈やばい〉は塩化ナトリウム』です。

 

 

人間は老化していくと、特定の語句が思い浮かばなくなります。

 

そのときに口にするのが、「あれ、あれなんだっけ、あの…あれだよ!最近流行りの…」ですが、『あれ』は英語では『That』ですよね。

 

そういうことで、『「やばい」はThat』なのです。

 

 

 

わたしは「やばい」を連発される方を心底軽蔑していますし、愚かだなと思います。

「発する言葉は言霊となり、言葉を発するその人自身を形作る」ので『具体性のない発言をしている人』は、そのまま『具体性のない人間』、しょっぱいだけで榮養のない〈塩化ナトリウム人間〉になっていきますからね。

 

まぁ、わたしのこの意見を見たとて、「やばい」に支配された人類からすると、わたしは所詮『やばいやつ』なのでしょうけどね( ¨̮ )

 

 

結局は住める世界が違うということなのでしょう( ´・◡・`)

残念ですけどね、思ってもおりませんけどね。

 

 

ご自由に生きて( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

「基本的に人体はシュレーティンガーの猫」説

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

皆様は『シュレーティンガーの猫』という思考実験をご存知でしょうか?

 

『シュレーティンガーの猫』というのは、「一定の時間が経過すると1/2の確率で致死性の毒ガスが噴霧される装置を、猫と共に箱の中に入れ、その一定の時間が経過するまで待つ。1/2の確率で毒物が噴霧されるのだから、箱の中には〈生きている猫〉か〈死んでいる猫〉のどちらかしかいないわけだけど、それを確認するには箱を開けねばならない。つまり、箱を開けない限りは〈生きている猫〉と〈死んでいる猫〉の両方が存在している」というものです。

 

つまりは『物事は観測するまで確定しない』ということです。

 

この思考実験は『量子力學』という分野の學門と近い位置にあり、『物事は観測するまで確定しない』というのは〈二重スリット実験〉という実験とも近い位置にあります。

youtu.be

 

 

さて、この『物事は観測するまで確定しない』という部分ですが、これって色んなものに当てはまりますが、我々人類、人体も同じなのではないでしょうか?

 

 

『人体というものには血液という赤色の液体が流れている』そうだけど、果たして本当かしら?

自分以外の人は確かに赤いようだけど、いざ自分の血液はどうなのかしら。

もしかしたら、わたしの血液は青色や黄色をしているかも。

 

また『心臓が止まると人は死ぬ』と聞くけれど、それも本当なのかしら。

血液と同じように他者は確かに止まると死んだけれど、わたしも止まるのかしら?

 

血液にしろ、心臓にしろ、わたしが『確かめよう』と思ったから赤い液体になったり、鼓動を感じるようになったけれど、〈自分がそれに意識を向けていない状態〉では『血液』も『心臓』も存在せず、曖昧模糊とした宇宙じみたものなのではないかしら。

ひいては『自分が見ているもの、観ているものは、〈それをみている〉から存在しているだけであって、〈みていない状態〉では存在すらしていないのではないだろうか。

 

といったように。

 

 

これは意識というものが為す思考、つまり自分の意識こそ自分の観る世界を間違ったものにして、真実(みたいなもの)から遠ざけているのではないだろうか。

 

ということです。

 

「自分が認識しているから世界が存在しているのであって、意識を向けなければ存在しないのでは?」という思考は『シミュレーション仮説』とも重なりますね。

 

 

 

 

( ¨̮ )

 

 

 

頭がこんがらがってきましたね( ¨̮ )

 

この辺りで『不確定な安定を、不安定でぐらついたものへと変える』お話はお開きとしましょう( ¨̮ )

 

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

広告の時代

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは星新一という小説家さんの作品が好きです。

 

星新一さんの作品は、その多くがショートショートと称される、短編よりも短く、数ページで読み切れるものです。

 

星新一さんの作品は、その多くに現代社会に対しての毒というか、非常に辛辣な皮肉が込められています。

よく『世の中を斜めに斬る』という表現がありますが、星新一さんの場合は『斜めからちくちくと刺す』と形容した方が適当かと感じます。

その刺激が結構手痛くて、苦笑いでの反応がやっとという具合ですから、側から観る読者は側から観ているから愉しめます。

とはいえ、口物は歪みに歪んでいます。

 

 

そんな星新一さんの作品群の中に『広告の時代』という作品があります。

今回はそちらより引用をさせていただきました。

 

その作品は〈人の行動一つ一つにまで広告が紐づいた近未来〉が舞台になっており、「他人のくしゃみを聞いたら、風邪藥の広告文句を無意識に口ずさむ」というように、『人の条件反射』を利用した広告方法で、街ゆく人々が皆、その広告テナントとして自己の条件反射を貸している、という世界です。

 

 

 

この間、電車に乗っておりました。

都市の電車ですので、至る所に広告が貼られております。

壁、自動ドア、窓、中吊り広告、その他諸々もろ。

 

「あぁ、広告がいっぱいだなあ」なんて呑氣なことを思っていましたが、そこで何か既視感を感じました。

それはお花です。

 

まず、お花というものがどうしてあんなに色とりどりなのか。

それは、周りが緑や茶色ばかりだからでしょう。

 

緑色の反対色は赤色ですが、赤色以外にも黄色や紫、桃色なんてもう色々な色がいろいろあります。

 

ではなぜお花に緑色がない(少ない)のか、という話になりますが、緑色だと目立たないのです。

 

お花というのは、元来性器でもあるわけですよね。

その性器で虫さんなどの花粉媒介者の注目を引いております。

そして注目を引いた結果、実が生ったり成らなかったりします。

 

結果、お花というものは何かというと、種を次の世代に繋げるための広告であるわけです。

 

 

さて、人間社会においての広告も性器であり、お花であります。もちろん。

色々と魅力的な宣伝文句で、我々を誘惑してきますね。

では、その人間社会での広告という性器が生み出す〈実〉はなにかと言いますと、それはお分かりのことかと存じますが、お金です。

 

そのお金という〈実〉が、その会社を後世へ繋げる〈種〉へと変わるわけですね。

いちいちと言わなくともお分かりのことと存じますけどね。

 

思い返せば世に溢れます広告たちは、我先にとでもいうように派手な演出になっていたり、衝撃的な手法を取っていたり、単純接触効果という姑息かつ堅実で効果的な方法を用いていたり、わざと反感を買う様な作り方をしているものさえもあります。

 

こういった「広告の時代」の中にある社会を、ジャングルに咲く色とりどりのお花たちと観るか(奇しくも現代社会はコンクリートジャングルと形容されていますね)ぬらぬらと妖しく光る性器が列挙する性風俗の歓楽街と観るか、それは各自の自由といったところです。

 

 

‪( ¨̮ )‬

 

 

所詮広告は広告でしかありませんよ‪( ¨̮ )

 

 

ご自身が思うようにご自由にお生きなさって‪( ¨̮ )‬‬

 

 

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬

【八十八ヶ所巡礼】なんかいつもより暖かい魔族 in 魔つやま【幻魔大祭2022】

 
本日もご訪問ありがとうございます。

 

行ってきました『幻魔大祭2022』!魔つやま!

 

わたくしごとで恐縮にございますが、わたしは出身が愛媛でございまして、なので魔族のリズム隊と同郷、そんな魔族の凱旋は同郷の民として喜びもひとしおなのですよ(族の愛媛では『松山』ではなく『魔つやま』らしいので厳密には違いますけどね。しかもわたしは松山の出ではないし)

 

 

なっがい前段。飛ばしていただいてもなんら問題ございませんよ

とまぁそんな感じで、學生の頃に通學で乗った電車で車窓を愉しみながら、おっちらおっちらと鈍行列車に揺られたわけです。

ここらへんはもう蛇足も蛇足ですが、學生時分にはあゝもつまらんと思っていた田舎な田園風景も、離れてみればなかなかに愉しい風景だと思います。

 

しかし、これは現在離れて都会で汲汲と窮屈な生活を奔走しているからこそ、面白がっているのだろうと感じます。

だから人間我儘なもので、いざ田舎に戻ったらつまらんなどと思うのでしょうね。

 

しかし愛媛の「のんび〜りと時間が流れる」空氣の空間はいつ体験しても良いと思えるものですね‪( ¨̮ )‬

 

 

そんなように怒喜怒気と浮き浮きを感じながら松山に到着。

 

今回の箱である『WstudioRED』というライブハウスは、2014年にできた比較的新しいライブハウスです。

 

やっぱり愛媛のライブハウスといえばサロンキティのイメージが強いですね。

2013年にMUCCさんのシャングリラツアーで行ったので、どうしても印象は強いです。

そんな余談はよいとして。

 

開場まで時間があったので、箱の場所を確認するとふらついて喫茶店へ。

『路地裏珈琲店』というお初な喫茶店様へお邪魔したのですが、最高でした。

コーヒーは美味しいわカスタードプリンは美味しいわ原料にこだわって素晴らしいものを使っていらっしゃるわ店主の方の覺悟が感じるわ。

本当にコーヒーが美味しかったからまた行くでしょうね‪( ¨̮ )‬

とはいえ松山に行く機会もあまりないのですけどね‪( ¨̮ )‬

 

 

開場時刻近くになり、箱へ戻るわし。

ここでびっくりしたのですが、それは客層の広さです。

わたしと同じ歳くらいのレディやお兄ちゃん、お兄様方お姉様方、マダムやダンディなオヤジ(後輩より愛を込めての形容)。

初めて八十八ヶ所巡礼さんを観に行った去年の心斎橋JANUSでも、その客層の広さに驚きましたが、その時以上の幅広さにございましたので「やっぱり温故知新バンドだからだ…」と思ったりいたしました。

 

中には親子?と思わしき貴様らの皆様もいらっしゃったりしました。

わたしもいつか母を八八に連れて行きたいですね。

そんな母はわたしが聴いていたムックさんを氣にいったり、人間椅子さんを好んだり、最近だとラッパーのANARCHYさんにハマっていたりと、我が親ながらよくわからん人です。

いや!人なんてそれぞれ違うんだからわからんで当然なんだ!思い上がるな!

 

 

個人的には5月以来の八十八ヶ所巡礼さんなので二ヶ月ぶり、一般的な感覺だとなかなか短いスパンで観ていることにはなるのですが、それでも怒喜怒気と浮き浮きが混ざって手が震えました。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

あ、開場したくらいで黒いアゲハ蝶のおひとりさまがひらひらと頭上を舞っていらっしゃって、とても優雅でございました。

わたしはクソスピさんなのでそういったことがあるとすーぐに〈意味〉を調べるわけですが、そうすると『アゲハ蝶は神の使い』なのだそうです。

「神も魔族の演奏を愉しみにしているのだ(キャッキャ」とか思ってたりしました。

 

ひとつ氣になるのは、そのひらひら舞うアゲハ蝶さんの羽がぼろぼろだったことです。

心配ですよね。

 

 

開演です。

開演SEが鳴る。

やっぱり新しい箱だからかスピーカーがヘタってなくて音が良い。

もちろんPAさんの腕が良いのもある。

 

音の輪郭もしっかりと立って聴こえて、それぞれの樂器のイコライジングも絶妙Σなバランスで耳に心地よい音でした。

 

メンバーが登場するセクションに鳴っているウッドベースの音も艶があって、今回はどこか『樹の虚の中で演奏されている』かのような芳醇さを感じました。

 

 

粋NALI

さてはて御三方の登場。

いつもはSE後すぐに演奏がスタートですが、イントロのドラムに乗せてマーガレット廣井さんが、

「どうしてライブハウスって暗くてじめっとしてるか知ってる?どうして音がでっかくて照明がビカビカしてるか知ってる?意味なんてないんだよ。意味がないのが意味なんだよ。何にでも意味を求めるもんじゃないんだよ。でもそんな意味のない時間の中で、自分なりの意味を見つけて帰ってくれ(後半はかなりうろ覺え)」と仰っており、なるほどさすがマーガレット廣井さんは良いことを仰るなぁと思っておりました(すぐ意味を求めるクソスピさんはすーぐ棚にあげる)。

 

 

『粋NALI』は、イントロに聴こえるマーガレット廣井さんの「とぅっとぅっとぅ♪」が印象的な曲ですが、あの『樂器の出音と自分の声とをユニゾンさせる』という演奏方法?は、ジャズとかそこらのテクニックです。

 

ライブの終演BGMをLee Morgan氏の『The Sidewinder』にしたり、Chick Corea氏の『Return To Forever』をカバーしたりしている八十八ヶ所巡礼さん(もといマーガレット廣井さん)なので、ジャズとかの奏法?テクニックも履修されているのでしょう。

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もともとスタジオミュージシャンを御志望とのことらしいですしね。

 

その「とぅっとぅっとぅ♪」ですが、これまたマーガレット廣井さんのスキルの高さを垣間見ました。

あの演奏はスタッカートといって、『ターターター』と音を繋げて鳴らすのではなく『タッタッタッ』と音を切り離して発音する演奏方法です。

 

音の作り方と樂器自体のセッティングにもよりますが、一般的にベースという樂器は弦が太いためにサスティーンという〈音の残り香〉みたいなものが残りやすい特徴があります。

その『サスティーンが残りやすい』という特徴があるために、ベースはスタッカートがし難い、また、難しかったりします。

 

し!か!し!

 

マーガレット廣井さんはそれを難なくこなしている。

音も、よれたりぼやけたりしていない。

歌と樂器とのユニゾンがぴったり。

 

=イコールつまり「めちゃくちゃスキルが高い」ということなのです!

 

『できてから比較的時間の経っていない新しい箱だからスピーカーもヘタってない』と前述しました。

「じゃあスピーカーの性能じゃん?」と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、スピーカーがヘタっていないからこそ、誤魔化しが効かないのです。

要約すると、すげー巧くてびびった。です✌️

 

『狂感できない』のベースリフを聴くとわかりますが、おそらくマーガレット廣井さんのベース(日の丸スタインバーガー)は、弦高(指板と弦との幅)が極限まで低いのではないかと思います。

弦高の高い低いはそれぞれに良さがあるので、どっちがどうとは言えませんね〜だれからも何も言われてませんけどね〜。

 

曲の感想?樂しかったから覺えてないです!!

 

あ、歌い出しからマーガレット廣井さんの声がとても出ていらっしゃって、やっぱりヴォーカルとしてのポテンシャルも高いよなぁなどと偉そうなことを思っておりました。

 

 

幽星より愛を込めて

上に同じ!!樂しすぎて覺えていません!!!遺影!!!!

 

 

幽楽町線

夏ですね…。日本には幽霊という風情があります…。

 

ギターソロの時に上手でKatzuya ShimizuしてるKatzuya Shimizu先生とは反対に、(以前に書いたステージングの基本に倣って)下手に行くマーガレット廣井さん。

そこで下手の貴様らにじっと見られたのか、「あっち!あっち見な!」と口パク&顎で上手に促すマーガレット廣井さんと、それを意に介さずマーガレット廣井さんを迎え入れている下手の貴様らの皆様の攻防?やりとりが面白かったです。

それ見てめちゃ笑ってた。

 

 

幻魔大祭

ドラム始まりの曲なので、実は最初『脳の王国』かと思っておりました。

「生前にお祭りや賑やかな場所が好きだった魂は、樂しげな場所やみんなが樂しそうにしている場所にやってくるそうだ」とマーガレット廣井さんが曲の開始前に話されていました。

 

超個人的な話になり恐縮ですが、つい先月わたしの父が亡くなり、その父も祭りが好きな人だったのでちょっと泣きそうになりました。

『お祭りが好きだった人を弔うには、目一杯愉しむしかない!』と愉しみました。

 

鼻茸

「わたしとKenzooooooooは松山出身なんだけど、、、魔界にも愛媛があって、まつやまがあるの。まつやまの『ま』は魔界の『魔』ね」と話すマーガレット廣井さん。

 

7/17に、「明日ライヴあるんで奥さんと一緒に来てくださいよ」と二十年来お世話になっている先輩さまにメールを入れたマーガレット廣井さんですが、「『鼻茸』?っていう鼻の中にキノコができる病気になって、日赤病院に入院してるから無理だ」と返信があったそう。

 

『こっちが年下だからってばかにして』と思ったマーガレット廣井さんは「からかわないでくださいよ」と返信したそうですが、MAJIだと。

 

「『いや、本当だからLINE教えてくれ!写真送るから!』って言われたんだけど、わたしらいんやってないから(ここすごいマーガレット廣井さんっぽい)、らいんやってないですって返信したら『じゃあSNSに送るから!』と言われて、実際に送られてきたのを見たら、本当に鼻の中にエリンギみたいなのができていて!いや、しめじかな?白いしめじがグン!って鼻の中に突き出てて、それを取って入院してるって。次!」

 

→『OH! SOJI!』へ。鼻茸をOH! SOJI!した奥平さんへ捧げていて、粋で笑いました。

この日の『OH! SOJI!』はベースの音がこれまでに比べて、すごくブリブリな音になっていて氣持ち良かったです。

そしてドラムの「ドッドッタ、ドタン ドンッドッタ、ドタン、」のバスドラ『ドッド』とベースとが綺麗にユニゾンしていて、とても心地よいリズム隊でした。

 

 

狂感できない

以前『狂感できないは世間との決別の曲』と評しましたが、この日の演奏は「より強くて決定的な怒り」を感じました。

floodinhead.hatenablog.com

 

「この三千世界の〜」から「〜狂感できない」までのセクションが、だんだんとダイナミクスが上がっていく演出になっており、上記した『怒り』が積もっていく様を想起いたしました。

 

そのあとにスッとクールダウン?しますが、その雰囲氣?がPVと一緒だ!と思いました( ¨̮ )

 

 

上記した『怒り』ですが、この直前?のMCでマーガレット廣井さんが悲しくなって泣きそうになっていました。

その原因に対しての『怒り』なのでしょうか?

 

 

鬼畜

重い。

やっぱりこの曲の冒頭にKenzooooooooさんが鳴らすエイトビイトが重い。

心臓にそのまま拳を打ち込んでくるようなパワーと重さを感じます。

 

あと、これはあげつらうつもりは一切ないのですが、Katzuya Shimizuさんがアルペジオのところでミスタッチをされていました!

Katzuya Shimizuさんはギター講師もされていることから、正確無比でミスなんてしない早弾きMachineだと思っていたので、ミスした時は「あっ!ミスした!先生も生きているんだなぁ😌❤️」などと思っておりました( ¨̮ )

 

 

JOVE JOVE~M.O.8

この流れは定番になっておりますが、やっぱりテンションが高揚しますね。

 

『M.O.8』の曲が始まる前にマーガレット廣井さんが「モヤ」といいますが(あ、そういえば今回はKenzooooooooさんのドラムオンリーの始まりではなくて音源イントロの「みょっみょっみょ」があってからの「モヤ」でした。伝わってる?)、最初の「モヤ」にはディレイがかかっておらず、二度目三度目の「モヤ」でマーガレット廣井さんが空中の『モヤ』を探すように中空を見回す、という所作が可愛らしかったです( ¨̮ )

 

 

絶妙Σ

曲が始まる前の「拳を拝借!」からの『DBTコール』が無かったので、「あれ?今回はそういうアレンジなのかしら?」と思ったりしてました。

久しぶりに聴いたけども、やっぱりこの曲は樂しいですね。

 

浮き浮きするしかないですし、マーガレット廣井さんのお好きなニヤニヤも無限増産されてしまいます( ¨̮ )

 

 

攻撃的国民的音楽

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貴様らの皆様が『攻撃的国民的音楽』の『新しい國では心臓の爆音が鳴り放題』の後にある〈選手宣誓みたいなキメ〉で同じように選手宣誓をしたり、『今日も軽い冗談と』の後の『ワオ!』で手を挙げたりとしているのを見て、ニヤニヤしたマーガレット廣井さんを見てわたしもニヤニヤしたりしてました‪( ¨̮ )‬ニヤニヤ

 

そういえば『攻撃的国民的音楽』の「はたらき蜂⑧では死に切れない」がなぜかやたらと脳についたな。

やっぱりはたらき蜂⑧ではやりきれないもんね。

 

あと『その胸の太陽を燃やせ』の部分に、よりマーガレット廣井さんの熱が入っていたように思いますね( ¨̮ )

 

 

 

マーガレット廣井さんも生きている

具現化中前のMCにて。

「我々は貴様らに、ここライヴハウスでやりのこしたことがないように帰ってほしい。魂とか氣持ちの面でもだよ」と話すマーガレット廣井さん。

ライヴハウスがどうしてこんなに音がバカでかいのかとか、なんで照明がビカビカしてるのとか、そういった意味なんてないもののでも、何か意味を、それぞれの意味を見つけて帰ってほしい。わたしはこのライヴハウスでやりのこしたことがある。『絶妙Σ』の頭で『DBT! DBT!』って言い忘れてしまった」

 

なんと!アレンジじゃなくて単純な言い忘れだった!マーガレット廣井さんも生きているのだ!

 

「『M.O.8』の後が『攻撃的~』だと思ってて、足元を切り替えてたから言えなかった。このまま帰ると絶対に後悔するから、最初だけやりなおしていい?」と問いかけるマーガレット廣井さんに対し、貴様らの皆様は大いなる拍手で『もちろん大歓迎』を表現。

 

「拳を拝借!」からの『DBT!コール』で会場のボルテージは最大値を超えていたように思います。

少なくともわたしのボルテージは超えておりました( ¨̮ )

 

 

あとこの時?に『地元凱旋なのにチケットが売り切れていない』って話をしていたんだっけか?

「そりゃ全國各地にいろんなライヴハウスがあって、それぞれ規模も違う。行きたくても予定があって行けなかったとかもあるのだろう。チケットが売り切れていないことは何も氣にしていない」と強がるマーガレット廣井さんが非常に可愛くて、今思うと愛おしい感情でした( ¨̮ )

 

「年に一回FMえひめに出演するくらいで、普段メディアに出ない我々を求めてこんなにも多くの貴様らが集まってくれている。我々がメディアに出て急にチケットが取れなくなったら、貴様らも嫌でしょ?」と、ファン思いと強がりがないまぜになったことを話すマーガレット廣井さん、かわいい( ¨̮ )

 

「我々はメディアには頼らない。あんなものは嘘っぱち」みたいなことも仰っていたかも。

わたしの脳内が勝手に作ったのかもしれないけど、同感ですよ、マーガレット廣井さん( ¨̮ )

 

 

 

金土日前のお話

以前の公演で「金曜と土曜と日曜しかしない曲!金土日!」と言っていたので、「今日は月曜だからやらないだろうな。何を演奏するんだろう?」と思っていたら、イントロのドラムが始まって「あら、やるんだ( ¨̮ )」と思いました。

 

メンバー紹介では「徐々に木と一体化して、最近は木を削り出してスティックを作ろうとしている男」と言われ、いつもの困惑の表情を浮かべるKenzoooooooさん。

もしかしてマーガレット廣井さんしか喋らないから、マーガレット廣井さんは好きなことを喋っている??

「on!徐々に木と一体化しているドラム!K,e,n,zにoが八つで!Kenzoooooooo!」

 

「我々一昨日広島でライヴをして、ここの二人(リズム隊)はそのまま愛媛に来たんだけど、かっちゃんだけ地元、、魔界に帰って身内の結婚式に行ってきて、すぐあとに魔界から怪鳥に乗って、大きい烏に乗って松山に来ました」と紹介されて、どこか恥ずかしげなもじもじ顔をするKatzuya Shimizuさん。

「on!妹の結婚式でちょっとウルッときた、徐々に人間になりつつある早弾きMachine!Katzuya Shimizu!」

 

「徐々にわたしは何になっているかというと、貴様らになっておる。貴様らのそのマスクの下の表情や氣持ちが手に取るようにわかる!我々は魔族だから人間の氣持ちなんて簡単にわかる!」

最後のは言ってたか定かではないです。でも似たようなことは仰っていました。

「on!徐々に貴様らと同化しているベース!マーガレット廣井でございます!」

 

 

金土日
「金曜と土曜と日曜の曲。今日は月曜。今日は月曜日なんだよ!海の日なんだ!金曜と土曜と日曜と海の日にしか演奏しない曲!金土日!」で曲のスタート‪٩( ᐛ )و‬

 

 

曲途中の『やってる意味のないことが大切♪』の部分で、「わざわざ凍狂から12時間かけて我々はこの松山まできておるわけだが、正直なところ、こんな行動になんの意味なんてない!ライヴハウスの照明がビカビカしてるのも、音がばかでかいのも、意味なんてないがそんな意味のないものを求めて貴様らがこうやって集まってくれておる。それが意味でいいじゃん。二時間のライヴが愉しい、意味なんてそんなもんでいいんだよ」とマーガレット廣井さんが仰っており、そうだよ、いい事言うなぁとウンウン頷いておりました。

 

【意味】とかに囚われて汲汲とならんでも、今生きてるってことが意味だったりしますしね。月並みですがそんなもんでいいんでしょう( ˘ω˘ )

 

マーガレット廣井さんは「そんな意味のないものに人生をかけておる!というよりもう人生になっておる!」とも仰っていたのですが、この時に「なんかゴッホみたいなことを話してはる」と思いました。

ゴッホさんは『そうだ、僕は絵に命を懸けた。そのために半ば正氣ではなくなっている。それもいいだろう』と仰ったそうです。

ゴッホ展で見ました(・◡・)

 

 

マーガレット廣井さんは『金土日』で起こる手拍子に「もう崩しようのない一体感ができておる!一体感なんてなくて良いんだ!、、、わざとずらして手拍子するの難しい!」と言いながら手を叩いたりしていました( `◟ 、)

「みんな元々はバラバラなんだから、わざわざ一つになんてならなくていいの!個性!手拍子の仕方!個性!マスクの色!個性!」

 

この一体感については、賛成でもありますが、そんなばらばらな個性が『一つのものを作ろうとしている様』が美しいという見方もできるので、バランスだよね、と思います。

一応言っておきますが、マーガレット廣井さんへの反対では、一切ないです‪( ¨̮ )‬

 

 

良く無いと思うのは『どちらかを良い/悪いと断定し、片方に偏りきること』ですからね。

 

 

余談ですが、『ロックバンドと観客との一体感』は、やっぱり伊坂幸太郎著作の『魔王』を思い出すなぁ。

『魔王』はファシズムを取り扱った作品であったから、ライヴハウスでの一幕はすこし物騒に捉えた描き方をしていたけど、個人的には【バンドとファン】の関係はどこか宗教っぽいというか、信仰的な側面があっても良いと感じます。

大体、ファンという呼称は〈fanatic(狂信的)〉から来ているそうですしね。

 

しかしマーガレット廣井さんの言葉を聴いていると、本当に六種体癖的な主張をされる人だなと思います。

 

 

「Kenzooooooooのお兄さんKenzooooooooとおんなじ顔してるから探したらいいよ」とマーガレット廣井さんが言ったのを契機にフロアをキョロキョロしだす貴様らが面白かったのと、「かっちゃんのお兄さんもがんばってる!」と「Kenzooooooooのお兄さんもがんばってる!」とマーガレット廣井さんが言った時のお二人の表情がなんとも良かったです😌

ブロマイドにして物販で売りましょう😊😊😊

 

 

総括

毎度のことながら、良いライヴでした‪( ¨̮ )‬♡

地元凱旋だったこともあり、これまで観た公演で一番マーガレット廣井さんが暖かい感じがしました。

マーガレット廣井さんはいつも暖かい人ですが、その暖かさの種類が違うというか、アットホームな感じというのでしょうか、やっぱりマーガレット廣井さんも浮き浮きされていたのでしょうか( ˘ω˘ )

 

 

チケットが売り切れなかったのは氣にされていましたが、それも愛嬌というか、別になんら問題ないんじゃないかと一介のファンとしては思います

なんというか、八十八ヶ所巡礼というバンドを好む人って、御三方が奏でる音を『魂が求めている』感覺があるので、ファンが増えることはあっても減ることってそうそう無いんじゃねえかなって思うからです。

 

最初の方で『客層の広さに驚いた』と書きましたが、マダムやオヤジたちはそれだけ触れてきた音樂の積み重ねが厚いわけです。

そんな諸先輩方がわざわざライヴハウスに足を運ぶ、なんてのは、ある意味合いで『八十八ヶ所巡礼というバンドが〈本物〉であるから』ってことなのではないか、と感じます。

個人的に【本物】みたいな形容は好きではありませんが、分かりやすいのでそう表現しました。

 

それこそ、メディアに出てないのに恵比寿リキッドルームを埋めてたってことは、それだけバンドの地肩が強いってことだと思うし、どうしてもメディアに出て『売れた人』って、どこかに『やりたくなさ』みたいなものを(わたしは)感じるので、たとえメインストリームから外れたところでも『信念を持って純粋にしたいこと』を突き詰めていけば良いじゃんね。と思います。

 

ICE BAHNのFORKさんのリリックをサンプリングしますが、『流行は文字通り流れて行く』のですよ。

メディアで恣意的に「作られた」急繕いの流行なんてものは、所詮すぐに淘汰されるもんですから。

 

 

on!

地球に根付いた大樹のように愛されるバンド!

八十八ヶ所巡礼!!!!!!!!

 

 

bibouroku。

あと、ライヴでは「東京!」や「大阪!」と、その土地の名前を呼んで空間の空氣を盛り上げるという手法がありますが、この日は「愛媛!」ではなく「松山!」だったのが、なんというか、思い入れを感じてほっこりしました( `◟ 、)

 

『エイトビイトな人々』は今回も聴けなかった!残念です!

しかしそういった心残りがあるからこそ、生きる活力になるってもんです‪( ¨̮ )‬

「会いたいな」と思うからこそ、未来には会えるし、死なないんですね‪( ¨̮ )‬

 

 

さて!

次は8/28の心斎橋JANUS『八=八』です!

『幻魔大祭』とのタイトルではないので、レア曲がセットリストに組み込まれていることを期待し、生きましょう‪( ¨̮ )‬

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Bonus Track🍆

なんでか八十八ヶ所巡礼さんのライブ後は酒が飲みたくなるので、お食事も兼ねて酒場へ。

好きなものを目についただけ調子に乗って頼んだら、量が多くて食べるのに必死でした。

終電の時間もありますしね。

 

しかし、物価ってものを考えていかなった…。

生活の拠点にしている都会よりも愛媛の方が物価が安いに決まってるよねぇ。

御会計は3,330円でしたが、都会の魔界だとプラス野口くらいはするぜ…。

あるいは量がダウンサイズ

 

蛸の唐揚げが好きで、お品書きにあれば大抵注文するのですが、店員さんが持ってきた時にX JAPANさんの『紅』が聴こえてきたので「たこからだー!」とか言って一人ではしゃいでおりました。

何の話?

 

しかしお茄子の揚げ浸し(煮浸し?)があんなに美味しいものだとは…。

 

 

マーガレット廣井セット

 

ありがとうございました( ¨̮ )

思考は生物

 

思考は生物である。

 

あれ?もしかして、を蔑ろにして頭の端に追いやっていては、その思考は腐ってしまう。

 

思考は生物である。

 

あれ?もしかして、と向き合わずお粗末にしていては、次第に思考はそっぽを向いて、新たな「あれ?」をもたらしてくれなくなる。

 

もし「あれ?」があるとしても、「あれ?なんだっけ」がオチであろうと思う。

 

 

思考はノートである。

 

そして思考はペンでもある。

 

双方があらねば『思考』という奇跡を軌跡として残すことができない。

 

「全て覺えていればいいのさ。わたしの頭の中のアカシックレコードさ」と思う過去のわたしもいたが、所詮人の記憶。

 

許容できる量というものは決まっている。

 

湧き水は湧き水として、湧き出す場所があるからこそ、許容量を超えず湧き水として湧き出すことができる。

 

湧き出す場所がないまま、水が溜まっていくと、そのタンクはいずれ割れ、二度と貯まらないのだろうと思う。

 

それはどうにも堪らない。

 

正しく循環するために湧き出すのであり、正しく忘れるために思考を書き出すのである。

 

それは奥に残ったものを掻き出すように。

 

正しく書き出し、忘れた結果に、また新しい正しいと思える思考が湧き出すのである。

 

 

つまり、

 

わたしも思考を蔑ろにせずちゃんと書き出します。

日々が忙しいとか、そんな言い訳を言って逃げちゃらんないんだね。

 

自戒々々。

悪人とされる者たちは、我々が創り出しているのかもしれない。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日久しぶりに映画の『JOKER』を観ました。

 

何度目だよって思いますが、何度目なのでしょう。

 

おそらく十回は観ていると思います。

 

以前『同じ映画を十回観れる人間は、無職の才能がある』という言説を拝見したのですが、果たして、実のところいかがなものなのでしょう?

 

さて、この『JOKER』ですが、やっぱり良い映画ですね。

『凶行に走る人にもその人の経緯があり、切り捨ててはいけない。わたしたちの延長上にある話なのだ』ということが描かれておりますからね。

 

 

と、アーサーくんがマレーの番組に呼ばれ、樂屋で軽い打ち合わせをするシーンがあります。

 

ここで、アーサーくんは「呼び込むときは『ジョーカー』と読んでくれ。この前マレーがそう呼んでいたのが氣に入った」とマレーに対して話します。

 

この時に「あ」と思いました。

 

アーサーくんをばかにしていた同僚、アーサーくんの馘を切ったホイト氏、アーサーくんをからかったウェインの商社マン、アーサーくんの病氣の原因(だと言われている)の虐待、アーサーくんを取り合わないウェイン家、笑い物にするために自身の番組に呼んだマレー。

 

その全てが外的要因です。

 

もちろんアーサーくんが一番最初の要因を作った可能性はありますが、その多くはアーサーくんが多くの者から虐げられた結果です。

 

それに、マレーに対して「ジョーカーと呼んでくれ」と言った。

その理由は『マレーが以前にそう形容していたのが氣に入った』から。

 

ここで「ジョーカーといった存在、またそれに類似した存在は、我々が創り出しているんだ」と思いました。

 

無感情、

不寛容、

無関心、

自己責任主義由来の切り捨て、

自己を保全するための嘲笑、

意味のないものに意味を持たせたことによる歪み、

意味の不用なものに意味を持たせすぎた為に起きた格差と差別意識

 

それらを無意識のうちに思考するように設定された我々と、染脳教育。

 

上記しただけでも氷山の一角でしょう。

これらを用いて、我々は今日も知らない誰かを下手人へと近づけているやも知れないのです。

 

 

正直なところ、これに氣付いた時は中々にヘビーでした。

だって『自分も凶悪な下手人を創り出す一端を担っている。つまり、自分が下手人を創り出したのと同義』ということですからね。

 

 

もちろん「『何にでもなれる存在、切り札』としてのジョーカー」という意味合いだという可能性も大いにありますし、わたしが上記した説と、どっちもかもしれません。

もちろん、どっちもないかも。

 

 

そしてアーサーくんを移送しているパトカーに救急車が突っ込み、その衝撃で意識を失っていたアーサーくんは暴徒の救出により、イエスかの如く『復活』を遂げ起き上がります。

 

我らが痛めつけて創り出したジョーカーを、復活させたのも、また我らということです。

以前のジョーカー評でも言及しましたが『ジョーカーが自分の血糊で口元のメイクをするシーン』は、やっぱり心の底から恐ろしいと感じますね。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

それと、マレーが「ゲストはジョーカー!」と呼び込んだ時のアスペクト比が4:3に、映像が古く褪せた質感へと変わります。

 

あの演出を最初に見たときは、まさにテンアゲエッフェルといった具合に高揚したのですが、今回見返すと、あの演出が『事件当時の映像を見返している』様に感じ、『当時の映像を現代に観ている状況』と『当時の騒然をその場で経験している臨場感』とか交差している、下手で適当ではない例えだと思われますが、サウナと水風呂を交互に入るとでもいったような感慨を受けました

やっぱり適当ではなかった。

 

つまりはあの対比が素晴らしいな、ということです。

 

今氣付きましたが、わたしは寒暖差というか、AとBの対比がくっきりぱっきり現れているものが好きなのかも。

わたくしごとですが、甘辛の味付けとかも好みではないですしね。どっちかにしろよ、と思ってしまいます。

全く狭量で余裕のない生きものでございます。

 

 

そして、アーサーくんがジョーカーとして覺醒した後は、どうしてああも煌びやかで輝いているのでしょうか。

 

 

 

今回は取り止めのない話になりましたね( ˘ω˘ )

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬

A24が関わっている作品は基本的に良い【映画『X エックス』レビュー】

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日公開されました『X エックス』という映画を観ました。

happinet-phantom.com

毎度のごとく、今回もネタバレ全開でレビューをいたしますので、未鑑賞の方はお氣をつけくださいね( ¨̮ )

 

 

あらすじはめんどいんで割愛します

あらすじの説明とかは面倒ですし、わたしが言っても大して意味がないので、公式サイトや例によって茶一郎さんの動画を拝見いただけたらと思います。

www.youtube.com

 

さて、この『X エックス』ですが、観た感想としては『ともすればカルト的作品になりそうだ』です。

 

完全にクラシックホラーを踏襲しておりますし、茶一郎さんの言葉をお借りするなら、まさに『新しい「古い映画体験」』です。

 

アメリカの片田舎」や、「乾燥した空氣感」、「湖」、「アメリカン・ドリームを素直に信じられた時代」などの『あのころ』を感じることができます。わたしは生まれていませんでしたけどね。

 

 

〈予告されている恐怖〉

ところで、以前『バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』のレビューをした際にも書きましたが、やっぱりわたしは『びっくり系の力技で押し通していない、クールなクラシックホラー』が好きみたいです。

floodinhead.hatenablog.com

 

そして『「いきなりウワー!」みたいな演出』よりも『えっ、来てるじゃん。いやいや危ないってちょっと』みたいな〈予告されている恐怖〉?みたいな演出が好みみたいです。

『ザ・ハント』の線路のシーンとかね。まじビビり散らすほど怖いんだけど、だから好き。

floodinhead.hatenablog.com

 

よくよく考えたら『バイオハザード: ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』も〈予告されている恐怖〉の演出が基本だったように思います。

 

 

本作での〈予告されている恐怖〉は、『マキシーンが湖で泳いで陸に戻る時に、後ろから近づいてくるワニ』や『ブリーフ一丁で農場を歩いている時の釘』、『老婆パールの頭が車に潰されるシーン』などです。

そらほぼ全裸で歩いてたら釘も踏み抜くっての。

 

そういえば主人公一行が車で撮影現場に向かう道中で、牛さんが撥ねられて絶命しているシーンがあります。

そこでマグロになった肉塊を主人公の乗る車がタイヤで潰す、というカットがあるのですが、それはパールの最期への伏線だったのですね。

〈予告されている恐怖〉のシーンはほかにもあったかも。あ、『シャイニング』か。

 

 

この〈予告されている恐怖〉は思えば、傑作『イット・フォローズ』でも主な演出として用いられておりました。

 

この『イット・フォローズ』は〈未知なものから追われる〉という恐怖を描いた作品でしたが、この『X エックス』と共通する部分があります。

それは『セックス』です。

 

 

『セックス』というクロスオーバー

『イット・フォローズ』は、主人公がセックスをしたことをきっかけに、得体の知れない存在から追われることとなるのですが、この『X エックス』もセックスが重要な要素として存在します。

 

主人公のマキシーンは映画の冒頭で「わたしはセックスシンボル」と言っておりましたし、一行が撮影していたのはポルノ映画でした。

そして撮影所(小屋)を貸した老夫婦はセックスに悩んでいました。

 

 

茶一郎さんの解説では『「老い」についてのホラー』と解説されておりましたが、それはもっともだと思います。

『老い』という存在は、生きていれば絶対に追いかけてくる〈得体の知れないもの〉ですからね。

つまりこの映画『X エックス』は、「それ(老い)に追われている」という〈意識なんてものを持ってしまった浅ましい人間〉の恒久的な恐怖を描いているホラーであるという解釈ができます。

 

また、その『老い』よって心機能も低下し、セックスとすると相手の命を奪ってしまいかねない。

女性としての存在を認めて欲しくて、夫のハワードにパールが迫るも、ハワードは"大事な相手を想うからこそ"その想いを無下にします。

ここが本当に悲しくて切なくて、なんともやりきれなかったです。

 

よくある『相手を異性として見れなくなった』からという理由ではなくて、『相手を想ってこその、無下』だということが本当に、本当に悲しかった。

 

主人公一行が団欒の場で歌を歌いますが、そのシーンでパールの部屋がクロスオーバーします。

泣きました。つらい。

 

それこそ最初は『相手を異性として見れなくなったから』だと思っていたので、「もうちょっと大事にしてもいいんじゃないかな(プンスカ)」とモヤモヤしていましたが、ロバートも共犯の計画的な犯行だと氣付いた時には「さ、サイコ野郎だ!やっぱり愛の力ってものは強いからこそ危険だ!!」と思いました。

 

「エックス」と「セックス」は言葉の母音が一緒、ということでも示唆的意図的か?とも思います。

 

 

また、今氣付いたのですが、この『X エックス』のメインヴィジュアルは『イット・フォローズ』をオマージュしているのですね。

双方とも『女性の脚がクロス』しています。

 

この『女性』というのも、非常に示唆的というか、重要な意味を持って来ます。

 

 

女性という『X』

この作品の主人公はマキシーンですが、実は老婆のパールも主人公であります。

この主人公二人には共通点がありますね。

 

そうです。女性という要素です。

 

これはわたしの偏見による部分が大きいですが、女性は『老い』を恐れている人が多いように思います。

 

そんな女性の染色体は『X(正確にはXX,男性はXY)』です。

 

作品の主人公が二人とも女性であり、その女性は染色体が『XX』である。

 

そんな主人公の二人が出てくる作品のタイトルが『X エックス』というのは、示唆というか、意図を感じずにはいられません。

 

あ、もう一つ共通点がありましたね( ¨̮ )

 

 

三つのクロスオーバー

ここまで長々と書いてまいりましたが、『老い』と『セックス』、そして茶一郎さんのレビューされた『映画』という三つのクロスオーバーがあります。

 

「XXX」ということですが、これは『三つのX(Three X)』ということで『セックス、またポルノ』を表すスラングだそうです。

『XXXでセックスを表現』というのはD'ERLANGERさんから知ったので、スラングに正当性があるのかどうかという所は曖昧です。

www.youtube.com

いや、まずスラングに正当性とかあるのか?

 

じぶんで主張しておきながら、『三つのクロスオーバーが作品に含まれているから、この作品はセックスについて描いている!』というのは少し自信がなくなってきた部分はありますが、まぁそこのぐらつきもあってしかるべきと思うので、このまま残します( ¨̮ )

 

 

A24が関わっている作品は基本的に良い

そういえば地下室でキリストみたいな吊られ方をしている男性を見たロレインの絶叫は非常に耳心地の良い『ホラー映画の絶叫』でしたね( `◟ 、)

 

 

いや、しかし、このA24という会社が関わっている作品は大抵がいいですね。

実質二割くらいしか観ていないので、にわかもにわかですけどね( ¨̮ )

 

エクスマキナ』と『ムーンライト』、『ヘレディタリー:継承』、『ミッドサマー』、そして本作だけなので、二割も観ていない可能性すらある…( ¨̮ )

 

 

…( ¨̮ )

 

 

 

さて、公式サイトでは『ヘレディタリー:継承』の時のように完全解説が掲載されておりますので、それを読んでわたしの読みが当たっているのかを見てみますね( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )v

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本作はA24初のシリーズ物。

一作目を現代(実際は現代じゃねえけども)、二作目を過去の話なのならば、三作目(があったとして)は未来か?

そんな『バック・トゥ・ザ・フューチャー』的構成にするのか??

 

でも『ハッピー・デス・デイ』の時みたいに「一作目は最高!でも二作目は退屈」なんてこともありえるので、過度な期待は禁物ですね。

蓋が開かないとわからない部分ですので、氣長に待ちましょうね( ¨̮ )