頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

少年ジャンプの幼稚性

 

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少年漫画の幼稚さ

以前の記事で「少年ジャンプとディズニーの共通点」についてを書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

この間NHKの100分de名著を見ていたのですが、上記の少年漫画に対しての認識がまた別な見地からもたらされることがありました。

 

この2022年3月はエドガー・アラン・ポー特集で、その週は『黒猫』を解説する回でした。

この『黒猫』という作品は『「天邪鬼という感情」は、どんなに善良な人間も持ち合わせている悪なのだ』という作品らしいのですが(意訳)、その天邪鬼について司会の伊集院光さんがあることを話していました。

 

それは「昔読んでいた少年漫画には絶対的な良い者と絶対的な悪者がいて、良い者の中にそういった『天邪鬼』があるなんて描かれていなかったし、悪者にも良い側面があるような描き方もしていなかった。おそらくだけど、少年漫画を読んでいた子どもの時にそういった『良い者にも天邪鬼みたいな悪い部分はあるし、悪者にも良い部分がある』という書き方をされていても理解できなかったと思う」というようなものでした。

 

そうです。

 

つまり『少年漫画読者は幼稚だから〈どんな人間でも良い面と悪い面がある〉という根本的な大前提』が理解できないということなのですね。

だから主人公の側は絶対的な善でいてほしいし、悪役側には絶対的な悪でいてほしい。

 

わたしはその伊集院さんの感想を聞いているときにそう思いました。

 

 

描かれていることは独善性の押し付け

いまだに人気の高いドラゴンボールやワンピースは『勧善懲悪のふりをした幼稚性の塊』ですよね。

正確に表現すれば『独善性の押し付け(ドグマティック)』だと感じます。あくまで個人の意見ですけどね。

『悪役は悪役として』しか登場せずに『なぜ悪役的行為を行うようになったのか』は一切描かれない。

まぁあれらの作品は読者に心地よい夢を見せるためのメディアなので、そういった面で言えば大成功なんだと思いますけどね( ¨̮ )

 

『悪役にもそれ相応の過去がある』なんて思っちゃうと、幼稚性を多く持った方の頭はパンクしちゃうんでしょう。

『悪役は悪役のままやられるのが気持ちいい』とでもいった感覺でしょうか?

 

 

少年ジャンプのコミック販売累計記録を塗り替えた『鬼滅の刃』はその「悪役が悪役になったバックボーン」を描いている稀有な作品ですが、一定の〈ジャンプファン〉には「特に特徴のない典型的なジャンプ漫画」という認識だそうで、いまいちピンと来ていないそうです。

こちらの解説に関してはこれまでに散々したので必要ではないでしょう( ¨̮ )

 

映画『JOKER』も「悪役が悪役になった経緯」を描いた作品ですが、どうやらあの作品も好き嫌いが分かれているそうです。

理由は『ジョーカーが暴れまわって悪を為す様が見たかったのに、辛い過去とかバックボーンとか見たくない。ノイズを見せないでほしい』とかです。

もうわざわざ言う必要はないと思います( ¨̮ )

 

 

善も悪も見る場所次第だってことをわからないと

つまりは少年漫画をご信奉していらっしゃる方たちというのは、絶対的に善悪は対立構造であると信じていて疑わない。あるいは知っているけどそれを見ないふりしているということでしょう。

見ないふりをする理由としては、その複雑性を認めると脳が疲れるとかアイデンティティが崩れかねないとかでしょう。そういった些末なことです。

 

現代日本で悪の代名詞とされているアドルフ・ヒトラー氏ですが、彼の元にいて『彼の行動、政策は善だ』という価値観で生活していたら、対立していた西側諸国の方が悪になります。

 

どちらか一方こそ絶対的な善だ!悪だ!と思考を固定するのは、それほど愚かなことなのです。

物事や事象は多面体ですからね。

 

 

あとがき

と、ここまで色々と話してきましたが、少年ジャンプの作品とかは内容の幼稚さが氣になってしまって満足に読んでいないので、いずれは『正しく嫌うため』に読んでみたいですね( ¨̮ )

ちなみに少年漫画以外にも、実は幼稚性から発芽している作品はたくさんあります。

映画のあるシリーズとかね( ¨̮ )

 

まぁ3S政策の内側で存在する作品たちは、そのほとんど幼稚性から発芽していると思った方が早いでしょう。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

身体性

 

 

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身体性

最近池田晶子さんが書かれた『14歳からの哲学 考えるための教科書』を読み直しています。

 

やはり哲學というものはまったく面白いものです。

 

そしてこの書籍を読み直していて思ったことがあるのですが、それは『哲學を考えるというものは身体性を取り戻すということだ』ということです。

 

 

体幹

ここで一つの例え話なのですが、人体には体幹というものがあるそうです。

 

その体幹をしっかりと鍛えないままでスポーツなどの身体活動をすると、怪我をしかねないので危ない、そうです。

 

この『体幹』という考え方はまったくそのものが"身体性"ですが、この身体性こそ哲學を學ぶということ、自分の頭で考えることだと思いました。

 

つまり哲學を學び専攻することで、人間がつい忘れがちな身体性を取り戻し、身体性という心の体幹を鍛えることで様々な心的・体的な怪我を防ぐことができると思いました。

 

 

現代の人間は色々なことに追われ、色々と考えています。

仕事のことや生活のこと、今日食べる食事や明日の予定、etc…。

 

こういったことは身体性から離れた考え、想いです。

 

ここで、

「まだ来ていない未来のことや考えてもしょうがないことをどうして自分は考えているんだ? いや、まず『考える』とはなんだ? いやいや、そもそも『自分は考えている』と思っているが、その『自分』というものは一体全体なんなんだ?」

と考えること、それが『身体性を取り戻す』という行為なのです。

 

この「『大前提の根っこ』を今一度考えること」こそが『身体性を取り戻す』という行為なのです。

 

 

心的疾患増加の理由

今生きている"現代人"と呼称される人々は、この『大前提の根っこ』を疎かにして、目を向けないまま生活をしています。

 

だから精神的に疲れたり氣を病んだりしてしまうのです。

 

考えてばかりの生活を送っているが、その『考えている自分』とはまずなんなのか。

『考える』とはなにか。『自分』とはなにか。

その『自分』が「生きている」場所、「生まれて来た」場所、「死んで還る」場所はどこなのか。

 

"現代"と言われる時代を生きている人は意識的にか無意識的にか、こういった身体性の問いを見ないように・避けるようにしています。

 

そういった生命の根幹、『身体性という体幹』を無視して生きているうちは苦しむしかないでしょうね。

自然に背いて生きているわけですからね。

 

 

とはいっても、その辛苦もその人自身が『望んで』選んでいらっしゃるのですから、部外者であるわたしには口出しする権利はありません。

いくらその人が苦しもうと、『苦しみたくて』やっている、『苦しみたくて』その身体性から自らを遠ざけていらっしゃるのですからね( ¨̮ )

 

毎度言っていますが、お好きに生きて( ¨̮ )

 

 

いやぁ、春めいて来ましたね。

この『身体性』のお話は今後何度かしようと思っています。

 

「春めいてきた」というのも身体性のお話に繋がって来ます。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

【さながらJAZZ】八十八ヶ所巡礼『SYG88』レビュー【JAZZ】

 

本日もご訪問ありがとうございます。

今回は八十八ヶ所巡礼さんのアルバム『SYG88』のレビューでございます。

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SYG88

SYG88

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先に言っておきたいのですが、いつもわたしが八十八ヶ所巡礼さんのアルバムをレビューする際には、歌詞に込められた意味や意図などを、わたしなりに解説していたのですが、このアルバムに関しては何にもわかりませんでした。

それこそ、

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なのではないか?と思いました。

 

正確には「このことを言っているのかも?」と思う部分はあったのですが、それが確信まで強くならなかった、というのが正しいところです。

なので、これまでみたいな『ここでこう歌っているのはこういう意味で、これはここで作用してこうなって…』みたいなまどろっこしい左脳解釈的な解説はしません。もはやできません。わからんかったからね( ¨̮ )

 

しかし!

別の部分ははっきりとわかりました。

 

このアルバムはジャズです。

 

 

『JAZZ』

ジャズの本懐というものは、本来、音樂(樂器)を用いて自分のスキルを提示しあいセッションする、ある種では喧嘩をふっかけるものです。

 

「こんなアプローチどうよ?」であったり、「なるほど、そうくるか。ならばこっちはこう攻めるぜ。さあどう出てくる」といったような駆け引きして切磋琢磨を愉しむ手段としてのジャズ(音樂)であり、セッションなのですね。

 

そういった『純粋な音樂』や『音樂が持つ純粋な純粋性』が、このアルバムにはとても濃く抽出されていたと感じます。

一言でまとめると、『JAZZ』

そして『最・高♨︎

 

 

ano世love

この曲を初めて聴いた時の印象はRage Against The Machineでした。

 

Rage Against The Machineというバンドは、メンバー個々に全く別なバックボーンと音樂的嗜好があるけど、ある一点の共通点(理想)だけで繋がっていたとても稀有なバンドだと思っているのですが、この曲もそんな『それぞれ別々なパーソナリティを持った個人、普通に生活していたら絶対に交わることがなかった三人が奇跡的に組み合わさった感』を感じるのです。

 

この曲はこのアルバムの中でも特に曲の芯みたいなものを共有している感や、その芯自体を感じますからね。

 

あと単純に曲がかっこいい( ¨̮ )

2:02くらいから曲はブレイクに入りますが、ここでライドシンバルを叩いているフレーズはKornさんのBlindをサンプリングしたのかしら?


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悟ri + time

この曲を初めて聴いた時に感じたのは『分裂』です。

一曲目が「各パートが芯を共有していた曲」だったのは先に書いた通りですが、この曲はもう笑っちまうくらい各々が好きなことをやっています。

実際わたしは笑いました( ¨̮ )

 

そんな樂曲の中で『プルシャ』という言葉が出てきます。

わたしはこの言葉を知らなかったので調べたのですが、ヨガの界隈では有名な価値観だそうで、『魂』や『精神』、『真我』みたいな意味があるそうです。

その『真我』であるプルシャまで逃げたいと言っているということは、〈大いなる存在〉であった状態に戻りたい・〈大いなる存在〉になりたい、という意味合いの想いだと感じます。

 

その想いを持っているのが、個人の中で散り散りに分裂した意識や精神で、その分裂している様こそが『乱ダムに云います』のセクションです。

個人の中で分裂しているから色々な意見が生まれる。

 

これらの『自己の分裂』を冷静に見つめることができたら、煩悩自体を煩悩と、煩悩自体を抱えている自分を鳥瞰的に見つめることができたら、それは確かに悟りだよなぁ、と聴いていて思いました。

 

マーガレット廣井さんは『仏滅トリシュナー』で「無感情を恐れる事でさえ煩悩であり辛い」と歌っていましたが、その〈己が煩悩を抱えている事実〉を知って直視する事は一種の悟りである、という意味合いですね。


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マーガレット廣井さんに対して言うわけじゃないですが、人間が人間として存在している以上は煩悩から逃れることはできないんだから、そう戰々恐々と、汲々としなさんな( ¨̮ )と思います。

過去の自分にも言いたい( ¨̮ )

それもまた煩悩♨️\(´-`)/♨️

 

 

PALAMA・JIPANG


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このアルバムでこの曲を聴いた時に想起したのは、Queenさんの『オペラ座の夜』というアルバムに収録されている『The Prophet's Song』という曲です。

この曲の3:31~5:55までのセクションです。


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オペラ座の夜(SHM-CD)

オペラ座の夜(SHM-CD)

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この曲はYesさんのアルバム『Fragile』のアルバム全体の空氣、プログレの妙Σみたいなものがとても凝縮されているような樂曲なのですが、『PALAMA・JIPANG』の冒頭部分(PVではカットされている部分)にそのプログレ氣分をとても感じました。

 

混沌や妖氣や怪奇っぽさ、得体のしれないものの中を覗く、その中をおっかなびっくりで進むような、そんな雰囲氣に『The Prophet's Song』に込められたプログレ氣分を強く感じました。

 

そんな混沌や妖氣、得体の知れない場所(欲望愛好家の楽園)をおっかなびっくりで進んだら、開けた場所に出た。

混沌の長いトンネルを抜けると欲望愛好家の楽園だった。

 

そうです!抜けた先こそが『欲望愛好家の楽園』だったのです!

 

そんな一種の爽快感?がPVでの曲始まりになっている「タカタカタカタッ、キャーッン!」なのです。

初めて聴いた時にMAJIで「わぁー!!!抜けた!!!!」と思いました( ¨̮ )

 

 

『浮世ほどの地獄なんてない』とわたしも強く思う次第ですが、そう浮世を地獄かどうかと認識するのも『難攻不落の気分次第だしね』って思います( ¨̮ )

 

意味のないものに必死にせっせと意味をつけるのが人の常、そうやって意味のないものに意味をつける事で安心して生きてきたのが人間だから、結局のところは「好きに生きたらいい」と思います\(´-`)/

 

 

delusion喪黒

この曲はなんとも妖しい雰囲氣を纏ったお曲です。

イントロのドラムフレーズで、スネア(「ドッタン」の『タン』って音がする方)にかかったリヴァーブがなんともMAJIにMAJIで絶妙Σがすぎるので最高に氣持ちいいですし、そのエフェクト具合がこの曲の怪しさをより一層の高い場所へ持ち上げているのです。

 

この曲はマーガレット廣井さんのベースはずっと同じフレーズをリフレインしています。

他のパートも好き勝手しています。

分裂再び!

『粋NALI』も分裂してたけど!

 

今氣づいたんですが、この世は自分が見て思い込んでいる妄想なだけであるわけですが、このことを歌っているのかしら?

色んな苦しみも、所詮は自分がセルフサービスで用意している妄想でdelusionであるわけで、その自分が用意した苦しみを自分で体験して四苦八苦しているセルフSMな諸君らが活き活き生きているこの世なんですが、そういうことを歌っているわけなのかしら?

floodinhead.hatenablog.com

 

考えすぎ\(´-`)/

 

 

幽兵衛no幽鬱

最高!!!!!!!

なんなんですか、この最高な曲は!

もうわけわからん!

ただ一つわかるのはこの曲が最高で、八十八ヶ所巡礼というバンドが最高だということだ!二つだ!!

 

樂曲Time 1:53~5:43まで続くなっげえギターソロがありますが、ここでリズム隊はずっとずっっと同じフレーズをリフレインしているんですよね。

ここで「仲良く喧嘩する類のバトルしてるな」と思ったのですが、「もしやこれはジャズにおけるセッションなのではないか…?」と感じ、「なるほど!このアルバムのテーマは『ジャズ』なのか!!!」と思い至りました。

 

冒頭に説明した通り、ここで用いているジャズの意味合いは『コード進行やトライ・トーンとかのメロディワーク、6/8拍子のスウィングなどのリズムとしてのジャズ』ではなく『ジャズという音樂が本来持っているスピリットとしての意味』です。

メンバー同士が互いに挑発し合い、焚きつけ、その相乗効果で切磋琢磨を生んで、バンド自体を次の段階に押し上げている様が、このなっっっがいギターソロの、その裏でリズム隊が繰り広げているセッションで、さながら轟々と燃え上がる炎のように感じるのです。

 

必死にアホくさい言語を並べ立てて説明しましたが、端的な表現にすれば最高ってことですよ。

非言語手段である音樂という芸術に対して下位に位置する言語では、満足な表現ができるわけがないんです。ジレンマ。

この素晴らしさを体験するには実際に聴いて体験して、血を湧き起こさせて細胞の霊魂の喜ばせるしかありません。

 

 

八十八ヶ所巡礼というバンド

表現っていうものはいくらであります。

このブログみたいに言語という不完全な形態を用いる手段もありますし、自身の体躯を駆使して表現する手段もありますし、何かに描きつけて非言語で表現する手段も、樂器を用いて非言語な手段で表現する術もあります。

 

きっと八十八ヶ所巡礼のお三方なら別に音樂という手段を用いなくても、うまいこと外に出せるんだろうけど、音樂が一番愉しいし一番純粋に発散できるから、『音樂が目的として確立している』から音樂をしているんだと思います。

そんなお三方は『自分が表現したいことを、個人的に一番樂な音樂という手段を用いて表しているんだけど、音樂でないと表現し得ない部分まで使って表現している』そんな奇跡すら感じるんですよね。八十八ヶ所巡礼ってバンドからは。

 

そんな存在を音樂好きな人間が愛さないわけないじゃないですか( ¨̮ )

音樂を目的ではなく手段として用いている人なんかよりも、よっぽど、本来の意味で、尊いですよ( ¨̮ )

 

まあ音樂を手段にしている人もそれはその人の自由なので、わたしの伺い知る部分ではないですし、ご自由に生きたらいいと思います( ¨̮ )

人生は自由さ( ¨̮ )

 

 

しかしそんな八十八ヶ所巡礼というバンドは、収録されている最後の曲でそのアルバムのコンセプトを示すのが上手でいらっしゃいますね。

『0088』は〈難攻不落の気分をうまくロデオしてコントロールできたら、この四苦八苦な世だって極樂にぶっ飛べるんだせ〉でしたし、

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『攻撃的国民的音楽』は〈「確かにしょんぼりすることも多いけどさ、でも、本当に大事なものは他人に明け渡したらダメだよ。絶対に」という叱咤激励〉でした。

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『日本』はニーチェ哲學の〈永劫回帰

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『幻魔大祭』は〈狂ったこの世界とのはっきりとした決別の意思表示〉

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『凍狂』は〈『どうにもしょんぼりしてしまうな、確かに立ち直れないかも。確かにこのイカれた世界に泥んで、そのまま自分もイかれちまった方が楽かも…。。  …でも、そんな風に流されてトばされたら絶対後悔する』という自己を確かに取り戻して確信する作品〉でした。

またボーナストラックまで含めたら〈『イカれた世界すらも受け入れて、妙と尋常の表裏一体の間で感情の揺らぎすら愉しみましょう』という、ある意味合いでの覺悟を感じる作品〉でした。

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1stの『八+八』に関してはなんもわかりませんでしたけどね( ¨̮ )

今でもちんぷんかんぷんです( ¨̮ )

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残すは『○△□』のみです!( ¨̮ )

どんなテーマが冠された作品なのでしょうか( ¨̮ )

 

愉しみに\(´-`)/

 

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

 

 

じゆうとあんしん、麦と穀物

 

安心に思えることを得るために自ら自由を手放している様

 

その安心がかりそめのものである場合や、安心のふりをした嘘っぱちの場合もある。

 

自身は使用していると思っているが、その実は支配されているその様

 

支配されているとは露とも思い至らず、支配だとすら一切頭に思い浮かばない様

 

現代病

愉しみ方の違い ~色んな愉しみ方があってもいい編~

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは音樂が好きです。

 

ご飯を食べないと生きられらないので、食事は好きですが、それと同じかそれよりもはるかに音樂は好きです。

 

よく『安いイヤホンで聴く音樂はだめ』だの、『スマートフォンの粗悪なスピーカーで音樂を聴くのは本来の良さが失われる』だのと聞きます。

 

まぁそれも真実なんだと思うのですが、音樂ってのは本来自由な表現なはずで(藝術だからね)、それの愉しみ方も受け取り手によって複数あっていいと思うんです。

 

「この樂器とこの樂器が重奏する時の音の厚みが素晴らしい」と唸るのも、「ここの音でライオンが想起されたからすごく好き」と目を煌めかせるのでもいいのです。

だって『音樂で感動した』ってのは同じなんだから。

 

それで、音樂のリスニング環境の話に戻るのですが、わたし自身は初めて聴く音源は必ずモニターヘッドフォンを使って聴くようにしています。

今使っているのはこちら。

 

なぜモニターヘッドフォンなのかというと「部屋の関係で大きい音で音樂を流せない」、「リスニングルームを持てない」という理由もありますが、それよりも『ミュージシャンが出したくて表現した音を忠実に聴きたいから、変にイコライジングされたオーディオ機器じゃ意味がない』のためです。

なので忠実かつ純粋な音像を愉しむために、イコライジングのされていないモニターヘッドフォンを使っています。

 

そんなわたしですが、スマートフォンのスピーカーで聴く音楽も好きです。

理由としては『スマートフォンのスピーカーで流す音樂にも、それはそれで良さがあるから』です。

 

本当にイヤフォンやヘッドフォンで聴いている時には氣づかなかったリヴァーブとかが、スマートフォンで聴いたことで初めて氣付いた、なんてことが起こるのですよ。

 

だから一辺倒、単一的に「安いオーディオは一切がダメ、音樂を満足に聴くなら高いオーディオ機材積まないと」という意見には、賛同しかねます。

もちろん高い機材には高いなりの良さがあるのも存じておりますけどね( ¨̮ )

 

『高い=良い』という価値観は単純に成金趣味と一緒ですから( ¨̮ )

 

 

しかし本当に粗悪なイヤフォンで、聴こうにもノイズが乗りまくるっていうのならば話が別です。

ノイズはストレスの原因になりますものね。

ノイズが好きな方ならば否定はいたしません( ¨̮ )

 

とはいえ、これもわたし個人の一意見ですので、音樂好きのみなさまはお好きな方法で音樂をお愉しみいただければと存じます( ¨̮ )

音樂、藝術は表現も愉しみ方も自由ですから( ¨̮ )

 

色んな愉しみ方があっていいのです\(´-`)/

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

表裏一体

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は『自然』と『不自然』について、です。

以前に書いた同タイトルの内容とは異なるものです。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

これまでわたしは『自然こそ美しい』と思っていました。

もう少し詳しく書くと、『〈自然〉に対して超自然に融合している状態こそが美しい』ということです。

 

しかし、この世は片方が良くてもう片方は良くないということはありえません。

『有るは無い』、『一切皆空』、『きれいはきたない、きたないはきれい』ですからね。

 

なので、『自然のみが美しい』のではなく、『不自然性の中にも美しさはあるのではないか』と思いました。

 

 

そこで「自然とは何か」を考えると、それは『ナチュラルな状態・無意識の状態』なのではないか?と感じました。

では「不自然とは何か」を考えると、それは『意識をしている状態』なのではないか、と思いました。

正確に表現すると、『"自然"は意識から外れた状態、"不自然"を意識している状態』ということです。

 

この『自然』と『不自然』との間にあるのは、なんてことはない〈意識〉というものなのです。

つまり、『自然も不自然も、紙一枚隔てただけの表裏一体だ』ということです。

 

おもしろいですね( ¨̮ )

 

 

だからなんだという話でもあります( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

雌雄同体

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は以前に書いたこちらの内容を踏襲したものになります。

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すっかり春めいてきました三月の中旬です。

やっと外套を着込まなくても大丈夫な陽氣になりました。

 

さて、そんな春ですが、春といえば芽吹きの季節でもあります。

 

たんぽぽ。

 

たんぽぽは土から出て、花を咲かして、そのあとに綿毛にした種を飛ばします。

その種は別の大地まで飛んでいき、知らぬ場所でまた芽をのぞかせます。

 

 

おや?

 

 

どういうことだ?と思いませんか?

 

大地から生まれたものが別の大地に降りて根をつける。

 

「大地から生まれたものが大地に還る」というのは、この地球上での原則です。

 

そこではなく、〈大地で生まれた種〉が〈大地に根を降ろす〉というのが、「おや?」と思ったところです。

 

わたしたちには『性別』というものがあり、雄と雌が交わることで子孫をつけますよね。

ということはどっちか片一方の性別だけでは子を宿すことができません。

 

ですが、種を生んだ大地が、その種を受け入れる器としても機能している。

 

これは雌雄同体ということではないでしょうか。

 

 

地球に存在するものの多くはどちらか一方の性を持って生まれてきます。

雌雄同体の生物を探した方が早いですからね。

たんぽぽのように、他の植物でも最終的には種をつける、という〈性別という不完全性〉を用います。

 

あれ?しかし植物の花というのは雄しべと雌しべの両方を持っていますね。

これを両性具有と称するのか、両性具有は=雌雄同体なのかはわかりません。

植物も雌雄同体なのか?

少なくともヒトなどという存在よりは、植物たちの方が高尚な存在であろうことは理解に難くないでしょう( ¨̮ )

 

 

地球は、すなわちわたしたちでもある。

神は自分でもある。というのは以前に書いたことですが、ということは、雌雄同体である地球から生まれたわたし達も、〈雌雄同体の完全性〉を持った存在になりえるということでもあると感じます。

 

ということは、わたしたちの行くべき先は『雌雄のない(有るは無い、無いは有るということだから)、同体の完全な状態』だということになりますね。

 

確かによくよく考えてみたら、全世界的に見て雌雄同体の神って多いですものね( ¨̮ )

もう一つよくよく考えてみたら『地球で生まれたもの』には〈性別という不完全性〉をほとんどが持ち合わせているけど、『地球自体』には〈性別という不完全性〉は持ち合わせていません。

つまり『地球は神である』という考えが当てはまるわけです。

ということは、「地球と同じ自分自身も神である」ということです\(´-`)/

アニミズム万歳\(´-`)/多神教万歳\(´-`)/

 

とはいえ、わたし達には〈性別という不完全性〉を持って生まれましたし、そもそもわたし達はこの地球へ『不完全を愉しむため』にやってきているので、目一杯〈不完全という娯樂〉を愉しんで生きればいいと思います( ¨̮ )

 

 

つまりは、好きにいきてください( ¨̮ )

『いろいろな感情を愉しむ』のも、地球限定のご当地アトラクションですから\(´-`)/

 

ありがとうございました\(´-`)/