頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

2022年ベスト級のJKインド本

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は久しぶりに『今週のお題』でも扱ってみます。

 

今週のお題「買ってよかった2022」

 

 

ポップさで擬態

最近、本屋さんである一冊と衝撃的な出会いを果たしました。

『JK、インドで常識ぶっ壊される』という書籍です。

 

「日本で生まれた女性が、父親の転勤を期にインドへ引っ越し、女子高生期間をインドで生活する」という内容の書籍です。

 

 

ある日、その時に読んでいた本を家に忘れて外出してしまったので、急遽本屋さんに行って面白そうな本を探していたところ、この書籍と出逢いました。

 

装幀が非常にポップですので、何かと軽く観られがちなのではないか、と思うのですが、その実、これがまたなかなかに内容が詰まっていて、ギャップに魅了されます。

 

まず読み始めで思ったのが、『読ませる文章の書き方がとてもとても巧い』ことです。

著者の熊谷はるかさんは2003年生まれなのだそうで、JK(女子高生)期間はついこの間、という感じなので、若い世代的な文章の書き方をしている(同世代が読んでも楽しめるように、と意図的に文体をポップなものにされたそうです)のですが、その文章がとっても軽快に書かれておりながらも、軽妙な文章の端々に著者の聡明さを強く感じました。

 

そう、聡明さ。

 

この熊谷はるかさんは、おそらく相当に頭が良い方であると感じます。

 

 

インテリジェンス

どうしてそう思うのかというと、先ほども言及しましたが『読ませる文章の作り方が巧い』

一見はポップな文章なのでサクサクと愉しく読み進めることができますが、その文章に散りばめられた形容や、用いられている言葉にきらりと強く光る知性を感じます。

 

また『自己という内から外の世界を見た際の、その世界への解像度・分析力が高い』こと。

そして、『異世界と対峙した際に、自分の内側で起きた感情の機微を観察して内省する能力が高い』こと。

 

インドへ到着し、インドの空港で〈異世界〉と対峙するわけですが、その場所で見えたものに対して観察し、観察によって得た感慨が記されているわけですが、その一つ一つに対しての分析が深い。

空港やレストランでは仕事の振り分けがされているのですが、その仕事の種類によって制服が違うのは日本でもあるように普通ですが、その仕事内容によって従事している方の肌色のコントラストが違うことや、市場に並ぶ店の奥、誰でも目につく場所で屠殺が行われていること。

野犬(ニュアンスとしては町全体の地域犬的な感じなのだそう)や牛さん、アヒルの親子などが町中を自由に闊歩していたり、『自然が自然として』存在していること。

 

 

著者は現地のインターナショナルスクールで學生生活を行うのですが、その場所柄、色々な人種の方と識り合います。

そこで出会った黒人の少女に「Where are you from?(ご出身は?)」と質問したところ(インターナショナルスクールという場所の特性柄、半ば普通の挨拶としてそう質問をするのだそうです)、「インドだよ」と返答が来そうです。

 

「そうなんだー」と受け答えをしながら、著者は『しまった』と思われたそう。

なぜかというと、その少女の肌は色が濃いめであったかららしく『この方は肌の色が濃いから、アフリカ系かな』と勝手に予想されていたとのことで、その勝手で浅はかな思い込みで自己嫌悪になられたのだそうです。

 

また屠殺風景を隠すわけでもない市場の店々に対しては、著者自身が鳥類を得意としていないこともあって、苦手意識を持たれていたようですが(ニュアンスとして、間違っている表現をしているかもしれません)、その場面を見たことで『自分のこの生命というのは、他の生命を殺めてまで生きているのだ』という大原則を強く思ったそうです。

そしてまた、インドの方々はその大前提を受け入れている。それによって食べることと、その恩恵である生命を繋ぐことへの深い有り難みを感じている。

日本の様に〈死は忌むもの〉として隠したりしていない。

 

個人的に思うのですが、『〈死を忌むもの〉と隠している』から、自死を選択する方が多いのではないでしょうか。

生も死も、あるべきサイクルの一つです。

"在る"のだからあるべきなのです。

死はいつかは来るのだから、わざわざその〈いつか〉を前借りする必要はないのではないか。

 

養老孟司さんの『死の壁』を読んだら、なかなか新鮮な感慨があるのではないでしょうか、と思います。

 

 

また、インドでは『自然が自然として』存在しているのだそうです。

町には野犬がいたり、道路を牛さんやアヒルの親子が横断していたりするそうですが、それこそまさに自然。

『人間が自然をコントロールしている』とでも思っているかのような、愚かな現代思想・西洋思想ではなく、『人間も動物であるから。自然にお邪魔して共存、生活している』という価値観なのだろう、と、著者の熊谷はるかさんは感じられておりました。

 

インドから日本へ一時帰國した際に、日本のデザインされた自然を見て『物足りなさや寂しさを感じた』と記されておりましたが、そりゃあ「〈自然〉というレッテルを貼られたまがい物」を見たって虚しいだけですよね。

そのまがい物は人間の意識という不純物が介入しているわけですから。

 

最近『ザリガニの鳴くところ』という映画を観て「やっぱり自然というのは、自然こそが"豊か"なのだな」と思いました。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

また、インドに対しての知見が浅い日本人でも知っている『インドに対してのイメージ』についても言及されておりました。

インドといえばカレーですが、現地のカレーは日本人が指しているカレーと全くの別物であること(インドでいうカレーという料理は日本でいうところのお味噌汁的な位置付けで、各家庭によって味も違うのだそう。まぁ日本人が指している『カレー』はイギリス人が作ったものですからね。そう考えると都市化や西洋的な思想の最終目的地点は、『全てを管理して「個々が持つそれぞれの"ゆらぎ"がない〈画一化〉されたもの」で埋め尽くすこと』なのか?)。

 

ほかにも、よくインド人のアイコンとして登場する「ひげにターバンのおじさん」は、シーク教の信者のことを指し、シーク教徒はインドの人口の2%程度しかいないこと。

シーク教徒の方は「髪の毛やひげも神から与えられた神聖なものであるから切ってはいけない」という教義のもと生活しており、髪の毛をまとめるためにターバンを巻いていること。そういえば映画『ホテル・ムンバイ』で主人公の設定もシーク教徒の方だったな。

 

あと、インドといえば数學ですが、その数學にもどうやら『カースト制』が関係しているらしいこと。

 

 

氷山の一角の、爪楊枝の先くらいのことしか書いていない

などと色々と書きましたが、わたしの御託などではこの書籍の良さの1%も表現できやしませんので、ぜひお手にとってみていただければ幸いです。

回し者ではありません。単純におすすめなのです。

 

わたしの思う「良い本」の基準というのは、『読んでいる自分自身が、その作品を読んで、何か考えるきっかけとなったか。実際に考えるということをしたか』なのですが、この作品はしっかりと考えるきっかけを与えてくれました。

良い本です。

 

 

著者である熊谷はるかさんがこれからも文筆をされるかはまだわかりませんが、恐らく新作の刊行ごとに追うような作家さんになるのではないか、と思いました。

 

 

あ、あといろんな方が『この著者が思春期にインドという異國で過ごしたから、色々吸収したのだろう』とレビューされておりますが、それもあるとは思うのですが、何よりもこの熊谷はるかさんの知性の高さと頭の良さがあったからだと思います。

本当に頭の良い人の話す話や、書く文章というのは、おもしろく愉しいですね( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 


www.youtube.com

w-online.jp

自然の世界で、死に善悪はない

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

豊かな作品

『ザリガニの鳴くところ』という映画を観ました。


www.youtube.com

 

ある日、村の外れにある火の見櫓の麓で青年が絶命をしているところを発見され、近くにある湿地に一人で住む女性に殺人の容疑がかけられる。

その女性は本当に青年を殺したのか、事件ではなく事故なのか。

 

というところが鍵になってくるミステリー作品です。

 

 

個人的にはそんなに期待していなかったのですが、ミステリー小説が原作ということで「まぁ観てみるか〜」くらいの氣持ちで観に行ったのですが、とても良かったです。

 

何が良かったかというと、その豊かさです。

湿地に住む動植物や水などの自然が溢れており、その自然が教師となって主人公のキャロラインは世界を知っていくのですが、その環境、それがとてもとても豊かだな、と感じた次第です。

 

主人公のキャロラインは12歳の頃から一人暮らしとなるのですが、それまでには家族も居り、彼女の母親は湿地を絵画に納めたりしておりましたしね。

 

 

嫉妬からくるもの

この作品は差別的な要素が出てきますが、それは物語の舞台となった時代である1969年というのが重要な意味を持っていると感じます。

 

もちろん、その時代は黒人差別などもあったという史実があるので、そこも要素の一つとしてあるとは思うのですが、その時代背景と、キャロライン自身が自然として生きていたことも関係していると考えています。

 

1969年といえば、アメリカという國が世界の警察的な役割を発揮する時代の、前夜的な位置にあると感じております。

 

つまり、都市としての急速な発展を遂げる直前とも言えるような時代なわけです。

 

そんな時代の大きな流れとして、都市化・発展していく世界にあるなか、湿地に住むキャロラインはもっと大きな『自然という流れ』に則して生きていたわけです。

 

町に住んでいた住人のほとんどが、そんなキャロラインに対して根源的な嫉妬を感じていたのではないでしょうか。

 

 

町に住む自分は『時代の流れ』という、ある種、〈流行と同義のもの〉に頼って生きているが、湿地の女性は自然というある意味絶対の存在と同調して生きている。

 

自然とは地球のことであり、地球とは生も死も受け入れる。さながら神と同義の存在である。

そんな神とも形容できる女性を畏れたから、その畏れが嫉妬となり、差別に変化したのではないかと感じました。

『時代』や『流行』なんてものは、特定の個人が意思を持って作り出すものでもありますしね。

 

イソップ童話に『酸っぱい葡萄』という寓話がございますが、理解できないから差別をして迫害をしよう、という思考回路なのかな?無意識のものが原因ではあるのだろうけど、そういった背景があるのではないか?と思った次第です。

 

 

自然という流動する絶対

わたしは、キャロラインの生き方はとても美しく、素晴らしいと思います。

 

 

あと死んでいた青年のチェイスは生理的に嫌悪する性格をしているので、あの結果は、さもありなん。然るべし。と個人的には思います。

 

 

また、劇中でキャロラインが発言していた『自然の世界に、死に対して善悪などないのだろう』という台詞にはっとしました。

 

全くその通りだと思います。善悪などというものはヒトが勝手に相対性を用いて貼り付けたレッテルですからね。

 

自然という神の流れの中では、生も死も必要なサイクルの一つですから。

 

 

犬と神

ジャンピンのご夫妻がいてくれて良かった。

 

ジャンピンのおやっさんは、妻のメイベルから言われた聖書の一節(「小さきものに手を差し伸べるということは、自分を助けるということと同義である」という「情けは人の為ならず」ような意味合いの一節)からキャロラインを見守ることを決意しますが、作品の舞台になったアメリカ南部にあるノースカロライナという土地も関係しているのでしょうね。

 

聞くところによると、アメリカという國は北部よりも南部の方がキリスト教に対しての信仰が深いそうです。

なので、あんまり南部で「Oh, my god」と言わない方が良いそうです。

 

 

そういえばキャロラインが初めて學校に行った際に、犬(DOG)のスペルを「G・O・D」と言って嗤われる、というシーンがありましたが、人よりも犬の皆様の方が自然として生きているのだから、キャロラインとしては犬は神としても認識していたのではないか?と思いました。

 

 

良い映画だった。作品の力もあるけど、映画として重厚でした。

惜しむらくは、Dolby ATMOSなどの良い音響で観たかったことですね。。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 


www.youtube.com

 

本懐は自己愛なのではないか

 

本日もご訪問いただきありがとうございます。

 

血縁主義

よく聞く言葉(思想?)ですが、『自分の子どもだけが一番可愛い/大事』というものがあります。

 

この思想に対して、わたしはあまり好い氣持ちを持っておりません。

 

自然という場所で生活するコミュニティにおいて、種族の子というのは、そのコミュニティ全体で育まれるものですが、『自分の子どもだけが可愛くて大事』というのは、自然の摂理に反した価値観なのではないか、とすら思います。

『自分の子だけが大事』という意識・思想は、屁理屈なのではないのか。という意見です。

 

以前に『ある男』という平野啓一郎さんの小説について、感想の記事を書きましたが、主人公の一人である城戸の妻・香織はこの『自分の子どもが一番大事』という思想の、典型的な持ち主でした。

floodinhead.hatenablog.com

 

『自分の子ども』という言葉が、どういった対象を指しているかというと、それは〈自分と血縁のある〉ということだと、現時点では考えております。

仮定として、『「自分と血の繋がりがある子どもが一番大切である」という思想を持っている方達』のことを《血縁主義》と呼称しましょう。

 

 

では、自分と血が繋がった子だと思って何年も育ててきた子どもが、実は取り違えられていて、ある日突然「あなたと血の繋がっている子どもは、本当はこの子なのですよ」と言われた。

目の前には見たこともない子どもが立っている。

 

こういった状況でも《血縁主義》の方は初めて会った見たこともない子どもを、愛することができるのでしょうか。

 

憶測でしかありませんが、おそらくほとんどの方は無理でしょう。

 

それは『実は血縁のなかった子と過ごした思い出などからくる"情"』が邪魔するからなのではないでしょうか。

 

はて、《血縁主義》の方は『自分の子どもが一番大事で可愛い』のではないでしょうか。

なのに、"情"が邪魔する。全くあべこべではないでしょうか。

 

 

エゴイストたちの脳のかたまり

では、《血縁主義》の方が何を一番に重要視しているのかといえば、それは『自分自身の血』なのではないでしょうか。

『自分と同じ血が流れている子だから、他の子どもたちよりも大事で、可愛い』というわけです。

それが本当なのであれば、《血縁主義》の方が愛しているのは『その子ども個人ではなく、自分自身の血』であるということになります。

 

これは自己愛なのではないでしょうか。

 

つまり、エゴということです。

 

 

自身のエゴを満たすために、他人を、無垢な子どもたちを利用している。とも捉えることもできます。

 

実際のところ、わたしは《血族主義》は自己愛に塗れたエゴイストたちなのだろう、と思っております。

 

《血縁主義》の意識があるから、自然であるべきはずの子どもたちを『自分の所有"物"』と勘違いする。

勘違いした結果、親がしたかったことを子に押し付けたり自分の望みを押し付けたりする。

全く悲劇ですよ。

 

 

『あなたのためを思って?』

 

それは親であるあなたのエゴでしょうに。

 

 

エゴイズム発生の理由・変遷・諸悪の根源

この《血族主義》が生まれたのは、人間が狩猟民族から農耕民族へと変化した背景が関係しているのではないか、と考えております。

狩猟民族であった時代は着の身着のままで、その日に取れた食物をコミュニティ内で分け合っていたのだろうと考えています。腐ってしまいますからね。

そんな狩猟民族であった時代は、まったく自然と同調した、自然と同義たる存在としてヒトは存在していたでしょう。

 

しかし、農耕が始まると、人は『所有』という意識を持ちます。

麦や米、とうもろこしなどといった穀物は保存が効きますからね。

この所有という価値観を人類は持ってしまったが故に、子どもはコミュニティ全体の子ではなく、『個人の子』つまり《血縁》という縛りが発生したのだろうと推察しています。

 

しかも農耕が主流となると、人間は穀物が多く取れて生活環境が良い土地に定住するようになります。

そうすれば都市化の一途を辿りますし、都市化というのは言い換えれば『「いかに所有をしているか」という価値観』が物差しのひとつになってくる、ということであり、自然という場所が脳みそしかない場所になるということでもあります。

 

つまり、諸悪の根源は『所有の意識』であり、人間という動物を自然から都市化へと変化させた穀物である、ということです。

 

 

ちなみに、『自分と血が繋がった子だと思って何年も育ててきた子どもが、実は取り違えられていて、ある日突然「あなたと血の繋がっている子どもは、本当はこの子なのですよ」と言われた』というのは、クレヨンしんちゃんの映画でも言及されていたことです。

 

 

形容した時点で、虚を摑んでいる

こういった問題があるから、『愛』なんて言葉はくだらないのです。

まず感情はグラデーション的でマーブルな感覺なのだから、言語に落とし込んで確定させることなど不可能なはずです。

特定の感情を、言語化し要約したその時点で、その感情の本当に大事な部分は抜け落ちて消えてしまうんですよ。

『モダンタイムス』で井坂が「人生は要約できない」と言っていたようにね。

 

『ある男』でも「男の経緯が違っていたら、出自や戸籍・人種が聞いていたものと違った場合、その男にかけた、感じた愛情は嘘になるのか。霧散するのか」という問いが出てきます。

これも『"愛"という言葉の曖昧さや、不完全さ』がもたらしている疑問なのではないでしょうか。

 

というより、愛と形容されているその感情、および総ての感情に対して、大衆がしっかりと自己や対象と向き合って考えていないから、こんなくだらない話が発生するのではないでしょうか。

 

 

ヒトは人が勝手に作った価値観で勝手に苦しんで悩むものですが、こればっかりは本当にばからしいと思います。

 

 

 

ヒトというものは、本当に愚かですね。

 

 

 

 

ありがとうございました。

もとい、無理な話 ~歯医者さんで氣付いたあれこれ~

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日、全く愚かにも我が右奥歯に虫歯が発見されましたので、まったく好まない病院(歯科)に行ってきました。

 

あまりに早い余談ですが、學生時分、地元の愛媛にいた頃には歯の定期検診に行っても『歯がとても綺麗』と言われていたので、無意識ではありますがその過去にあぐらをかいていたのでしょうね。

本州に来て親知らずが生えだしてから、よくよく虫歯に悩まされております。

まったく愚かだと思います。やはり自負などは持つものではない。

floodinhead.hatenablog.com

 

ちなみに以前親知らずを抜歯した際、歯科医の方にお聞きしたのですが、どうやら愛媛出身の方は歯が丈夫で綺麗な人が多い印象なのだそうです。

歯科医の先生曰く、小魚などの食が豊富だからではないか?と推察されておりました。

 

確かに愛媛はじゃこ天(お魚のすり身の天ぷら)なんてものがソウルフルフードとして根付いていますので、一理あるのだろうなぁと思います。

あと個人的に思うのは地産地消(その土地で採れたものをその土地で消費する食育運動のあれ)の取り組みが盛んだったので、それもありそうかな、と思います。

 

 

所詮は、利潤

病院に着いたのがお昼くらいだったので、待合では某お昼のワイドショーが放送されておりました。

内容は、お掃除について。

 

お風呂場の黒カビを効果的に除去するには。その裏技、そんな内容だったと思います。

 

なんとーはなしにその放送を見ていました(いつも待機中には本を読んでいるのですが、その本を忘れてしまったため)。

『お風呂場の落ちない黒カビは、まずカビが発生しているゴムパッキンの表面に軽く細かい傷をつけてから、市販のカビ取り剤を使うと綺麗になりますよ!』とそんな内容です。

細かい傷の付け方はタイミング的に見れていないのですが、おそらく使い古しの歯ブラシとかを使うんだろうな、と推察しています。

 

お次は、お台所の掃除方法に転換。。。

 

 

おい!!黒カビのわい!!!!

 

 

思わずそう突っ込んでしまいました。放送を見ながら。心の中で。

除去の方法を教えるんなら予防方法も伝えるんが道理とちゃうんかい!!!と思いました。

いえ、道理ではありません。ただの一消費者のわがまま、勝手な自動思考です。

 

しかし、そうつっこんだ後に思いました。

 

 

「あぁ、消費を促すためなのか」ってね‾\_(ツ)_/‾

 

今回の放送で、一時的にはカビ取り剤の売り上げが上がるのかもしれませんが、カビの発生を防ぐ方法を電波に乗せて拡散してしまうと、カビ取り剤を販売している企業の業績は下がりますし、ほかに「カビ取り作業を商品としている清掃業者の方々」にも打撃を与えてしまいます。

 

そして、おそらくですがゴムパッキンに細かい傷をつけたが故に、カビがより発生しやすい状態になっている、ということもあり得るでしょう。

また発生したカビを除去するために、カビ取り剤が売れる。

 

そんな利潤のいたちごっこ

企業からすると金の生る永久機関とでも言えるでしょうか。

 

そんなワイドショーの一場面から憶測を逞しくした、そんなお話です。

ちなみに、以前目にした情報では『カビ発生前のゴムパッキンには、マスキングテープを貼ると良い』なんてありました。

所詮は(たしか)You Tubeの情報なので、真偽は不確かな部分ではあります。

 

 

「どだい、無理なんだな」って。

そんなこんなで名前を呼ばれ、治療台へ誘われました。

虫歯であることは自覺しているので、歯を削ることは確定しています。

 

まさに『まな板の上の鯉』というような感覺ですね。

 

 

虫歯のある右上顎に口腔麻酔を済ませ、いよいよ、歯科医の方がドリル(掘削機)を手に治療を開始します。

歯を削る音が、金切り声のように骨を伝わって鼓膜を震わせます。まったく困る。

 

歯を削る音にも種類がありますが、特に低いごりごりという音は不快ですね。おそらくですが脳に響く類の音なのでしょう。

 

「あぁ、脳に響く音だから恐ろしいのだな、だから余計に恐怖を覺えてしまうのだろう」と、そんなことをどこか冷静に観察しているわたし自身もいます。

 

 

歯科治療を恐怖してしまう理由はほかにもあると考えており、その理由は『口』というプライベートパーツの治療だからなのでしょうね。

以前に『おうち性教育はじめます』というエッセイ本の記事を書きましたが、その書籍にて「人間の体には〈プライベートパーツ〉なるものがある」と載っておりました。

floodinhead.hatenablog.com

 

〈プライベートパーツ〉とは『口・胸・性器・お尻』のことを指し、お世話や看護が必要な時以外は、たとえ親であっても不用意に見せたり見せようとしたり触ったり触らせようとするべきではないのだそうです(その理由は直接生死に関わる部分だから)。

 

そんな場所を自分じゃない人にいじくられるのですから、そりゃあ怖くて当然なのですね。

しかも口腔内は鏡を使わないと見れないし、顔にタオルを置かれるから見えないし。

 

 

そんな恐怖を感じながらも、冷静であろうと努める健氣なわたし。

「大丈夫、大丈夫。恐れることはない。リラックス。副交感神経を優位に。弛緩、弛緩」だなんて、脳内で自分自身に言い聞かせます。

健氣ですね、思わず涙がちょちょぎれます。

 

しかし、そんな時にふと思います。

"『副交感神経を優位に』って思ってるけど、口あけたままでいようとしている時点で交感神経優位になってね???副交感神経優位に弛緩しよう、なんて無理じゃね????"

 

 

はい。

 

 

たぶん歯医者さんの治療中に、副交感神経を優位にして弛緩するのは、無理です。

てか〈プライベートパーツ〉をいじくられている時には副交感神経を優位にしてはいけなくね?とも思います。

 

そんなことで、開き直ることにしました。

 

 

いやMAJIで「歯がなくなったら死ぬしかねえ」ってのはマジだね。

治療が終わり。

その日は何も食べていなかったので、お食事へ。

 

とんかつを食したかったのですが、お目当のお店がお休みだったので別なお店へ。

さて、ここまでで『御』を何回使ったでしょうか。

 

数日前からおうどんをいただきたいな〜と、そんな直感だったので、うどん屋さんで遅めのお昼をいただくことに。

注文したお料理が配膳され、お箸で相当量を口元に運び咀嚼をします。

 

 

食べにくい。

 

 

口腔麻酔が残留しているために、やたらと食べにくい。本当に食べにくい。

 

しかも『虫歯ができてるじゃん!!!!』とその存在を知ってから左側で咀嚼していたため、腱か何かを痛めたのか"左側で噛むと痛い"という顎関節症的な事象も発生している我が左顎。

必然的に右側で咀嚼を強いられることになるのですが、右側は口腔麻酔が残留している。

氣を抜けば咀嚼から免れたおうどんが、ちゅるりと口から表出しかねない。

食べにくい…。。。

 

そんなこんなで惡戰苦闘しながら「生物は歯が無くなったら死ぬしかない、なんていうけど、あれはマジだな。たかが麻酔程度でこんなに狼狽えているんだから、本当にものが食べられなくなったら死ぬしかねえよ。自分の口で物が食べられない人間も、とりあえず延命するようなシステムを人間は採用しているけど、全くそれってのは人間のエゴでしかねえよな。愚かだよ。本当に」と思っておりました。

おうどんはおいしかったです。

 

 

ちなみにもっと以前に歯科治療後の麻酔が残っている状態でお蕎麦をいただいたことがあるのですが、味を感じない状況で食べるお蕎麦は本当に輪ゴムを食べているみたいでした。

味を感じないのであれば、食の愉しみなんてものは感じなくて当然だよな。と思います。

No more 氣分の落ち込み

 

 

JKインド本

冒頭の方で『いつも本を持って歩いているが、この日は現在読んでいる本を忘れた』と書きました。

わたしはどうしても本が読みたい属性を持っているので、少しでも食事前に麻酔を抜こうと思って本屋さんに行ったのですが、そこで衝撃的な出会いがありました。

www.kawade.co.jp

めちゃくちゃポップな表紙なので、軽い書籍と勘違いされがちではあると思いますが、とんでもない。

2022年ベスト級のJKインド本でした。

 

またいつか。

 

 

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

人とは。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

最近、平野啓一郎さんが執筆された『ある男』という作品を読みました。

 

2022年11月18日には映画も公開となります。

movies.shochiku.co.jp

 

この作品のあらすじは、まぁ映画のサイトに飛んでいただきましたら分かるのですが、ある男性が仕事現場の事故で亡くなるのですが、その男性の実家へ死亡を伝えたところ、実はその男性は偽名を使っており、別人だった、という内容です。

 

お話の構成や流れは、塩田武士さん著作の『罪の声』っぽいな、と感じました。

 

主人公が謎と対峙して、その謎を捜査、究明していく。

クラシックなミステリ的探偵ではなく、現実世界で浮氣調査などをする探偵的な動きを、弁護士である主人公の城戸は行います。

 

そして、この作品は『ミステリの皮を被った哲學書』でした。

 

亡くなった男が〈別人だった〉ことで、城戸はその男の『本当の素性』を調べるわけですが、捜査をする際に「人間とは」が重要になってきます。

 

つまり"その人"とは何によって構成され、何をもとに説明されるのかということです。

 

 

『その人』を説明するものは何なのか。

 

戸籍なのか。DNAなのか。人種なのか。國籍なのか。親から不可逆に与えられる環境なのか。生活や経験などの自分でどうにかできる類の経験なのか。

親が成したこと、成さなかったことなのか。

 

戸籍だとしたら、そのデータがなければその人は存在していないことになるし、DNA

だとしたらDNAが解明されていない人は存在が透明的になる。

 

そういったことを読者である我々へ問いかける、そういった作品でした。

 

 

また、この作品はわれわれが『小説を読む』ということ(あるいは映画などを観たり音樂を聴いたりすること)の、一つの意味、理由、一つの答えを示した作品であるとも感じます。

 

小説を読んで、そこに描かれている人物の傷を知り、傷に寄り添い、読んでいる自分の傷を癒し救っていく。

 

自分のデリケートな部分を直視するのはしんどいし、エネルギーを使う。

でも、小説を読むことで、その登場人物と心情を同調させることで、自分のデリケートな問題と距離を保ちながらも対峙して向き合うことができる。

 

とても良い作品だなあと思いました。

 

 

以前の記事にて取り上げました、辻村深月さんの『朝が来る』も、登場人物の心に触れる作品でしたが、この『ある男』もそんな「実際に存在しているのかもしれない」と感じさせる人の一生に触れる、静かで優しさのこもった作品だと感じます。

floodinhead.hatenablog.com

floodinhead.hatenablog.com

 

 

根本からの生を肯定できないのは、辛いですからね。

でも、そんな生の自己肯定ができない人の半生を、知って、寄り添うだけでも『生の肯定』になり得るのではないでしょうか。

三者の自己満足であるかもしれないけれど。

自己満足だとしても聞いたり知ったりすることで、その人の氣持ちが軽くなるならいくらでも聴きますよ。

 

 

この〈ある男〉の息子である悠人くんが俳句を読むのですが、その句が本当にとても良いので、そちらも是非触れていただきたいとも思います。

 

 

 

この作品は純文學の流れを汲んでいるそうなのですが、確かに純文學的な文章表現や風景描写の美しさ(太宰治著作『人間失格』の冒頭のような)も鮮明に感じながらも、『ある男とは実際誰なのか』というミステリ的要素・その強度が強いこともあり、すらすらと読めて、「続きが氣になる…!」とページをめくる手が止まらない。

と、そんな小説の本分であるところもこの作品の魅力であると思いました。

 

 

〈ある男〉の背中を見て、『何か語るべきことの多そうな背中だと感じた』といったような描写をされる場面があるのですが、"語るべきこと"ってなんなのだろうか、と感じました。

 

そんな、『考えるべきことを考えるきっかけ』を与えてくれる作品です。

 

これからの人生において、とても重要で大切な一冊になるのだろうな、と感じました。

未読であれば、是非読んでみてください( ¨̮ )

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

データ

 

本日も訪問ありがとうございます。

 

昨日ある夢を見ました。

 

赤福餅みたいなものを食べているとベースラインが聴こえてきて、その音に対して、わたしが「このベースはこれ(赤福餅みたいなもの)の情報から流れているの?」と言いました。

その発言の意味不明さに、場にいた人には大笑いされる。自分も自分で意味不明な発言すぎて笑ってしまう。

という内容です。

 

 

いざ起きて夢を思い返すと可笑しみが浮かんできたのですが、どこかインスピレーションがありました。

今回はそのインスピレーションから得たお話です。

 

 

赤福餅みたいなものに詰まっているもの

その夢の中で持っていた赤福餅みたいなもの。

 

それは食べ物ですが、情報の塊でもあります。

 

小豆という情報、お砂糖という情報、もち米という情報、使用されたお水の情報、それらを形成した経緯たる大地の情報。

それらからベースラインが聴こえてきた、というのは流石に突拍子がないですが、上記した情報だけでも何万何億という情報の数でしょう。

 

そんな何億何兆という情報の集積の、一つの結果が赤福餅みたいなものだったのです。

 

そんな何兆何京という情報が詰まっているものなのであれば、ベースラインの一つや二つ聴こえてきてもおかしくはないのではない?とも思ったりします。

 

いや、全くへんてこで突拍子も無いことを言っているのだろうなぁとは思います。

 

 

広告は花だけど、パッケージは歴史を紐解くヒントだらけ


「どうも、いきなり失礼します。ポンジュースです」

 

あら、これはどうもポンジュースさん。

ポンジュースは我ら愛媛の民にとってのソウル飲料です。ちなみに生物にとってのソウル飲料は、水です。

 

そんなポンジュースさんに今日はお越しいただいたわけですが、実は皆様が普段何気なく観ているこのお姿にも、とてつもない量の情報が詰まっています。

 

「アッハッハ。ちょっと恥ずかしいなぁ、やめておくれよ」

 

パッと観ただけでも

  • 『POM』というのがブランド(企業)のロゴなのだろう
  • ブランドのキャッチコピーは「こだわりは、まじめです」である
  • オレンジとみかんを使ったジュースで、濃縮還元の製法を用いている
  • 果汁100パーセントの果物ジュースである
  • 開栓後は冷蔵保存をしないと痛んでしまう
  • 内容量は800mlである
  • JAS規格に沿って作られている製品である
  • 〈酸素バリアボトル〉という技術を用いて、未開封の長期保存でもおいしさが持続するようになっている
  • イラストで描かれたみかんの皮の光沢が、"丸ではなく四角"で表現されていて、みかんの皮の質感が非常に巧みに提示されている
  • ラベルはプラスチックで、ボトルはペットボトルである
  • ボトルの表面にエンボス加工が施されていることにより、みかんと同じ手触りになり、よりみかんへ没入できる
  • プラスチックとペットボトルが使用されているということは、それらが石油からできているこということであるので、石油自体にもとてつもない量の情報が含まれている
  • ジュースのその液体自体にも様々な栄養が含まれている
  • 果物は植物から生まれるので、大地の様々な成分を吸収している
  • 植物も水分を得て生きているため、その水分に含まれた情報の量も膨大なものになる

などでしょうか。

ボトルを回せば、原料の産地がどこなのかもわかりますし細かい成分なども提示されています。

 

「じっくり観察されるといよいよ恥ずかしくなっちゃうなぁ」

 

このように、一つの商品を見ただけでもこんなにも多くのデータが含まれているのです。

その情報を一つ一つ、一切をデータ化したら途方も無い量のバイト数になるのではないでしょうか。

ポンジュースさん、ここまでありがとうございました。

 

「どうもありがとう」

floodinhead.hatenablog.com

 

データ化への懸念

果物は情報の宝庫である、というようなことを先に書きましたが、はたしてそれは我が人体でも同じなのではないでしょうか。

この肉体は、自分が食べたもので構成されています。

 

ということはこの肉体も情報の宝庫である、髪の毛一本だろうが、垢のひとかけらだろうが、それは我が肉体の情報の全てなのでしょう。

全は一、一は全。

floodinhead.hatenablog.com

 

そんな人体は、まさに神秘と言えるのだと思うのですが、メタヴァース移行の流行というのはその神秘性を手放させようとしているのではないでしょうか。

しかも自ら進んでその神秘性を差し出すように仕向けて。

 

わたしは再三主張していますが、自らが自らをデータ化しに行くだなんてとんでもないと思います。

まずこの『世界だと思っている空間』がデータの中なのかもしれないのだから。

 

てめえをてめえで生きろ。

人生は過不足無しですよ。

 

 

この現実世界に存在するものの全てが、情報(データ)でできているということは、いよいよこの世が仮想された空間であるという『シミュレーション仮説』の価値観が現実味を帯びてきますね( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

誇りを持つと埃が溜まる

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

なんというか、どうやら人間には〈誇り〉という感覺があるらしいです。

 

しかし、わたしはその感覺が好きではありません。

 

なぜかというと、誇りを持つと埃にしかならないと思えるためです。

 

説明いたしますね( ¨̮ )

 

誇りや自信なんでものは持たない方が良い

 

誇り。

 

【誇り】を調べると、『みずからそれを名誉とする感情』と出てきました。

 

例えばわたしはギターを15年ほど弾いていますが、15年も続けていれば、そりゃあある程度は弾けるようになります。

 

もしかしたら潜在意識下では『ギターを弾ける自分』に誇りを持っているのかもしれませんが、顕在意識上では『ギターを弾ける自分』に誇りを持っているようには感じません。そんなものは持ちたくない。

 

『ギターを弾ける自分』が"自分の中に在るだけ"で、ギターが弾ける事は生きることにおいては、ほんの数ミリ程度の揺らぎでしかないように思うからです。

 

 

誇り。

 

言い換えるとそれは『自信』とも表現できると感じます。

 

ちなみにわたしは自信という感覺もあんまりよくわかりません。

 

 

つまりは『誇り』も『自信』も好きではないということなのですが、それにはもちろん理由があります。

 

その理由とは『誇りだの自信だのを持つと、それ自体にあぐらをかいてしまい精進を怠る可能性がある』というものです。

 

『誇り』や『自信』というものは「【特定のなにか】ができる(またはある)から、自分は良いのだ」という感覺だとわたしは考えており、それはつまり『【特定のなにか】が無ければ駄目である』という、下手をすれば生の肯定すらもされないといった、まったく莫迦な事態になりかねない。

そんな愚かなことに発展する可能性もある。

 

生の肯定なんてものは、てめぇが今生きているだけで十分だろうが。とわたくしは考えます。わざわざ自分から辛い方に行こうとしてんじゃねえよ。マゾヒストかよ。

 

 

活動領域が狭まる

また、自信や誇りなどを持ってしまうと、それを保持し続けようとしてしまいます。

 

それはつまり、自らが自らの成長を妨げることにも繋がります。

『音樂はロックこそが至高』や、『ラップはやっぱり英語のもので日本語ラップはそれに劣るよね』であったり、『流行を追わないのはダサい』といった意識たち。

 

音樂は『音樂が音樂として存在していること』が素晴らしいので、ジャンルなんて有って無いようなもので、良いものは良い。

 

ラップは言語の芸術表現であるから、各々の言語で奏でることに意味が発生するので、特定の言語だけに優劣なんてない。

 

流行とは外の場所で生命活動をすることで知ることもある。

もし「今、自殺がイケてる!時代は自殺!」なんてことが流行したら迷わず死ぬのか、もっと自身を大事にしろ。

大体が流行なんてものは、メディアなりが意志と目的を持って作っている扇動用のイミテーション紛い物なんだから、他人に踊らされる必要はない。

 

 

自信や誇りなんてものを持つことで、それ以外の外の価値観に触れることができなく、触れようとしなくなる。

それはつまり自分で自分の成長を妨げ、首を絞めていることにもなり得ると感じます。

 

『自分が不要と思っているものと触れると、思ったよりも多く大きな発見』があります。

 

 

また、この『自信や誇りなんてもの』は『安定』とも言い換えることができるように思います。

安定を選ぶと、その安定を維持しようとします。

 

『安定を維持する』というのは、100使えるはずの脳領域が削れるのです。

「安定の維持を考える」というだけで、身動きが取りにくくなり得る。

『安定と停滞は違う』のかもしれないけど、『安定と停滞はほぼ同義』だと感じます。

 

以前に「人が住まなくなった家は朽ちるのが早い」ということを書きました。

floodinhead.hatenablog.com

「空気が対流せずに滞留するから、湿氣て黴などが発生しやすくなる」ということなのですが、『安定を求める』というのは、その『空氣が対流せずに滞留する』ということと同じように思う。

 

万物流転。

人間の細胞も入れ替わっているのだから、対流して変化するのが自然です。

 

その対流を『自信や誇り、安定』が妨げるのです。わたしはそう思います。

 

 

あんまり言い切るのは良くありませんが、自信や誇りなんてものは持たない方が良い。

 

 

動かないから埃が溜まる

物も置きっぱなしにしていると、埃が溜まります。

誇りなんてものを持ってしまったことで、新しい場所に向かって動こうとしなければ、その人には埃が溜まる。

 

そしてこの『誇り』は持ってしまった時点で『埃』となっている。

 

この『誇り/埃』は「自分の方が年長だから」や、「相手より仕事ができる(あるいはスキルがある)から」や「學歴があるから」など、その他多くです。

自分の外に自身の価値を明け渡してんじゃねえよ。

 

『自分の中で何かを誇った』というその時点で、『誇り/埃』を持っていなかった時に比べて、別の行動への足取り重くなると考えています。

 

その理由は『次の行動、別の行動を行うことによって、自身が誇ってしまったものを揺るがす可能性があるから』です。

だから次への行動を躊躇う、顕在意識では自覺していなくとも。

 

 

ソクラテスさんみたいなもん

ここまで書いてきた意見は、わたしが昔から思っていたものですが、よくよく考えてみれば、ソクラテスさんの主張されていた『無知の知』みたいなもんです。

 

無知の知は「自分は愚かであり、何も知らないのである。と自覺すること」です。

『〈自分は知っている〉と思っていると、新しいことを知ろうとしないから、〈自分は何も知らない〉と思うことで新しいことに積極的に触れることができる』ということなのです。

 

まず、『なんでも知っている』なんてことはありえないし、それは幻想/勘違いです。

 

この世で生きている限り〈全てを識る〉なんてことはできないと考えていますし、もし本当にそんなことができたのならば、それはおそらく死ぬ直前でしょう。

現世で死んだことがないので知りませんけれど。

 

 

『自分は知っている』などと思うから、いろいろなことに齟齬が生まれるのではないか?とすら思っています。

本当は識りもしないのに、知ったふりをしているから『本当のこと』を見ようと(知ろうと)しない。

知ったかぶりで発言をしているから、『本当に知っている人』とに溝が生じ、その溝が発展して齟齬と諸々の悲劇を生む。

 

いや、今わたしが書いているこの記事自体も『識りもしないのに、知ったふりをしている』にあたるのかもしれない。

きっとそうなのでしょう。所詮同じ穴の狢、所詮は意見など同格のものに対してしか持てない。

 

 

まず『知る』とはなにか。『分かる』とはなにか。

わたしは『知る』に関して「その対象に対して、〈それがどうしてそうなったのか、どういう経緯か、それを調べて想像する〉こと」だと、現時点では考えています。

その行為を反復することで、対象のことを『分かる』ことができ、その対象に対して『分からない』ことが生まれ、また『知る』の流れになるのです。

つまりは『"わかる"なんてことはありえない』というなんだろうと思っています。

 

 

閑話休題

 

 

結局は自信とか誇りなんてものを持つからいけない。

この「『自分は知っている』という意識」がどこから来るのかといえば、それは自信からなのではないでしょうか。

『自分は知っているという意識(勘違い)が、自身の自信というものを強固にし、その勘違い/幻想から生まれた自信が、誇りなどという意識を生み出し、その意識自体が埃へと変わっていく。

誇りを持ってしまうと動きが鈍くなって、次第に動けなくなってしまうから。

 

 

上記したようなことから、わたしは『誇りや自信なんてものは持たない方が良い』と思うのです。

 

 

 

流動するものでありたい

ここまで書いたことは、あくまでもわたし一個人の意見であり、見解であり、あくまで現時点での考えです。

 

しかし、いずれは『意見』や『個人の見解』という言葉すらも危険思想的であるとして危険視されるのでしょうね。

昨今では『思想』という言葉がデリケートに扱われだしたように。

 

 

わたしは水とか風のような流動するものになりたい。

 

 

 

ありがとうございました( `◟ 、)